8.悪徳を冠する者

 空気がざわめくのを感じた。


 夜光虫を思わせる残光を散らし、目も眩むようだった青い光がゆっくりと収束していく。恐らく、ラジエルによるネフィリムの修正が完了したのだろう。

 同時に、殺気が膨れあがっていくのを感じる。ベリアルはふうと息を吐くと、立ち上がった。


「……君、戦えるの?」

「まさか」


 咳き込むような声が聞こえた。

 見れば、ラジエルが口元からだらだらと血を零している。


「ちょっと……大丈夫なわけ?」

「ダメよ。ここまでの移動と、さっきの修正――あと貴女の治療で、回復した分の霊気をあらかた使い果たしてしまったわ。今の私はただの吐血するマスコットだと思って」

「物騒なマスコットだなぁ……」


 涼しい顔で口元を拭うラジエルに、ベリアルは深くため息を吐く。

 しかし、その唇には不敵な笑みがあった。

 青い光が、消える。剣や槍の立てる物々しい音に、天使と悪魔は振り返る。

 焼け焦げた地面にはもうネフィリムも、クリーチャーもいない。ただマステマの軍勢と、怒りと悲しみにぎらぎらと目を光らせたアザゼルの姿があった。


「よくも……よくも私の神を……私の子供達を……!」


 みしみしと音を立てて、アザゼルの姿が歪んでいく。

 頭骨が歪み、頭皮が捩れ、異様な音ともに捩れた角を形成する。コートを突き破り、石にも似た奇妙な質感の翼が大きく広がった。


「……貴女こそ戦えるの?」


 アザゼルの変容を見つめつつ、ラジエルがたずねてきた。


「さんざん痛めつけられていたでしょう。権能を使わなかったのも、なにか理由が――」

「――いや、大丈夫」


 ベリアルは自分の胸元に手を当て、しばらく目を閉じた。

 そして目を開けると、ラジエルに視線を向けた。その唇には、シニカルな笑みがあった。


「……燃料は十分だ」


 夜闇に、野太い山羊の声を思わせる咆哮が響き渡る。

 身を閉じるアザゼルの姿は、さながら翼を持つ人面の山羊といったところ。鉄の蹄で地面を砕き、荊の鞭と銀の槍とを振り回して、アザゼルは叫んだ。


「殺す、殺してやる……! 恥辱を……! 苦痛を……!」

「さっきはまともに相手ができなくてすまなかったね」


 ベリアルは笑いながら、ゆっくりと左手を上げる。

 アザゼルが奇声を上げた。硬質な翼がその背後で羽ばたき、山羊の悪魔は飛翔する。

 それを合図に、マステマの群れも突撃した。

 光輪が闇に瞬き、槍に灯った紫の炎が乱舞する。悪鬼の面が波の如く押し迫る様に、さすがのラジエルも隣でわずかにたじろいだ。

 しかし、ベリアルは笑ったまま。左手を動かし、顔を撫でるように降ろした。


「――ここから私の時間だ」


 囁く呼気が、炎を孕んだ。

 まさにその瞬間、アザゼルとその軍勢はベリアルとラジエルの元に殺到した。

 幾百、幾千もの鎧が二人を押し潰さんと迫り、一塊となる。槍を持つ者は仲間に突き刺さることも厭わずにそれを繰り出し、さらには紫の炎をそこに点火した。


「もう一度、もう一度よ」


 ほとんど一つの鋼鉄の塊と化したそれから、異形のアザゼルはゆらりと離れる。

 うわ言を繰り返しながら、アザゼルは銀の槍を振り上げた。

 突き刺す、突き刺す、突き刺す。

 マステマの返り血を浴びながら、アザゼルは機械的に槍を前後させる。


「もう一度……もう一度。もう一度やり直せば良いの……一から全部……邪魔するものをしっかり潰して……そう、こんな風に、潰して、潰して、潰して……」


 ちりっ――小さな音が聞こえた。

 同時にマステマの鎧甲冑の隙間で、赤い光が瞬く。

 異変を感じたアザゼルは手を止めた。


「何……?」


 瞬間、強烈な爆発がそこに巻き起こった。

 マステマが塵の如く吹き飛ばされ、声もなく灰燼と化す。アザゼルはとっさに空中に逃れたもののわずかに遅く、その顔面に熱風を喰らった。

 ごうごうと燃える頭を抱え、アザゼルは甲高い悲鳴を上げる。

 その眼下で、けたたましいエンジン音とともにヴァニティーが黒い風の如く躍り出た。

 空中を飛ぶそれは、瞬く間に形を変えていく。

 黒い外装が融けるようにして揺れ動き――ホイールも古風な車輪の形へ――ボンネットを割るようにして、漆黒の戦馬が現われ――。

 そうして着地した瞬間、ヴァニティーはもはや車の形をしていなかった。

 そこにあったのは、炎を纏う二輪馬車だった。

 炎のたてがみを持つ黒馬が凄まじい声でいななき、高々と足を振り上げた。直後、漆黒の戦車が闇を飛び、空中に炎の轍を残しながら疾駆する。


「は、は、は――!」


 燃え盛る車輪の音に混じって、凄絶な哄笑が響く。

 悪魔は火の手綱を手繰り、戦車を駆っていた。

 それはさながら、漆黒の鎧甲冑といった姿だった。マステマの甲冑よりもさらに禍々しい外観で、その左側には赤々と輝く紋様が刻まれていた。

 さらにその体にはところどころに空隙があり、向こう側の景色が透かして見えた。

 がら空きの胸部には虚無の闇がわだかまり、炎の霊素核が燃えている。


「やっぱり真化は気分が良いねぇ……」


 牙を剥く獣に似た兜から、ベリアルの声が響いた。

 赤く輝く髪。青く光る捩れた双角。背面には、三対の炎の翼が燃えている。

 これが、ベリアルだった。


 虚無の悪魔、闇の君主、不正の器――――真のベリアルが、そこにいた。

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