7.暴力的叡智の天使

「なんで……」


 笑いは消えた。

 口から零れたそのあまりにも細い声が、自分のものだと信じたくはなかった。

 これが幻覚ならば、あまりにも趣味が悪すぎる。


「なんで……ここに……」

「な、なぜ……貴女が……」


 アザゼルが口元を覆い、絶句する。

 ラジエルはそんな彼女に冷やかな一瞥をよこすと、クリーチャーに視線を向けた。

 クリーチャーもまた、凍り付いていた。

 ベリアルを握りしめる手が微かに震えている。

 この得体の知れない神の雛は、ラジエルが脅威だと本能で理解しているらしい。

 ラジエルが、右手を伸ばした。


「……哀れな子。あなたは、ここに在ってはいけない」


 その手の上に、青い天使文字が浮かび上がる。


「やめなさい!」


 アザゼルがはっと目を剥き、銀の槍をラジエルの背中めがけ投擲した。

 しかしそれは、空中で烈炎に包まれて消失した。


「――邪魔をするなよ、半端野郎」


 土壇場でどうにか再生させた片手を伸ばしたまま、ベリアルは目を細める。

 その最中にも、ラジエルの言葉は淡々と続いていた。


「我が神秘全鑑セファー・ラジエールの条文により――」

「や、やめて! やめなさい! 誰か止めて! そんなことをすれば――!」

「――禁忌を却下する」


 アザゼルの悲痛な声が響き渡る中、ラジエルは右手をぐっと握りしめた。

 瞬間、クリーチャーがほどけた。

 ほどけた――としか形容しようがない。ラジエルの言葉が響いた瞬間、青白い肉体は花が開くように音も無く炸裂した。

 広がる骨肉は急速に青く光る文字に変じ、瞬く間に夜の闇の中に消滅していく。

 消滅しているのは、クリーチャーだけではなかった。

 ネフィリム達もまた次々に文字となって消えていく。地面に倒れ、か細い声とともに消失する彼らを前に、マステマ達が次々に切羽詰まった声を上げた。


「正体不明の攻撃――後退せよ!」「爆発的霊気反応――!」

「いや……いやよ……! また私から子供たちを奪うというの……!」


 ざわめきの中、アザゼルは頭を抱えて凄絶な悲鳴を上げる。

 禁忌の命達が消えていく光に包まれて、辺りは真昼のように明るい。

 最期、クリーチャーは大きく身を震わせ、甲高い泣き声を夜空に響かせた。しかしその頭部も瞬く間に文字に変換され、怪物の断末魔はぶつりと消えた。


「おっと……」


 自らを拘束していたクリーチャーの腕も消失していたことで、ベリアルは落下した。

 しかし、地面に激突する寸前でその体は停止する。

 同時に頭皮に激痛が走った。

 見れば、ラジエルがひどく冷めた目で自分を見つめている。どうやら、寸前でベリアルの髪を引っ掴むことで落下を止めてくれたらしい。

 青い光が渦巻く中に立つラジエルの姿は、見とれるほどに美しい。

 しかし、今のベリアルはそれどころではなかった。


「いっててて……あのさ、髪の青い部分を掴むのはやめてくれないか。そこ、ただの髪の毛じゃなくて、センサーみたいな感じだから結構敏感で……」


 ラジエルは何も言わない。

 思えばここに来てから、彼女はベリアルと一切会話をしていない。

 ――やはり怒っているのだろうか。ベリアルは言葉に悩み、視線を彷徨わせた。


「あー……もしかして、ラグエルのふりした方が良い?」


 その言葉に、ベリアルはふっと息を吐くと、ベリアルの髪ではなく肩を掴んだ。

 ラジエルが微笑む。ベリアルもとりあえず微笑んだ。

 そして。


「――叡智ッ!」「アウチッ!」


 生まれて初めてベリアルは天使に頭突きされた。

 合わせた額が烈火の如く熱い。頭蓋の内が空っぽなせいでよけいに衝撃が響く。

 ベリアルが眼を回す中、ラジエルはゆっくりと口を開いた。


「……貴女とラグエルは違う」

「う、うん……?」

「貴女は永遠にラグエルにはなれない。何故ならラグエルではないから。ラグエルは永遠にいなくなってしまった。……それが事実」


 頭突きをかました姿勢のまま、ラジエルは低い声で言う。

 間近にある青い瞳は、視線を地面に向けている。紡がれる言葉はベリアルに向けて言っているようにも、自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

 ベリアルは、薄く笑った。


「……残念だったね。大事な妹が死んで、私が――」


 頭突きをかまされた。


「ぎっ……!」

「余計なことはしゃべらないで。……私は良い姉になれなかった……ただ知識を追求するばかりで、妹のことなんてなにもわかっていなかったの」

「いや、うっすら残ってる記憶だと、そんなことはな――」


 頭突き。


「ぐっ……う……石頭……」


 天界最高クラスの叡智の詰まった一撃は、さすがのベリアルにも答えた。

 ふらつき、青く輝く地面に尻餅をつく。

 そこでようやく、ベリアルは自分の体が手足を取り戻していることに気づいた。


「えっ……治してくれたの?」

「……私が聖死フリーズに陥ったのは、己の浅はかさから。妹の行方についての解答がこんな間近に転がっていたのに、まるで気付けなかった。でも――」


 スーツに包まれた体を驚愕の眼で見るベリアルの側に、ラジエルはしゃがみ込む。

 そして悪魔の胸ぐらを、天使は引っ掴んだ。


「……貴女の声は、届いていた」


 自分の顔を覗き込むラジエルの目を、ベリアルはなにも言わずに見つめる。

 耳に軽く触れて、ラジエルは唇の端を下げた。


「対象に噛みつくのは、悪魔にとってどういう意味があるの?」

「……ご想像にお任せするよ」

「そう。……それで、私は決めたの」


 耳に触れていた手を降ろし、ラジエルはその手でベリアルの左頬に触れた。

 そこに刻まれた禍々しい紋様をなぞり、天使は唇を吊り上げる。


「貴女を再教育する」

「……へぇ? それはまた、どうして?」

「私にはその義務がある。貴女はラグエルではないけど、貴女を構成する物質にラグエルは含まれている……なら、姉である私には貴女を理解し、教育を施す義務がある」


 ラジエルの瞳は、相も変わらず澄んでいる。

 けれども今はそこに、刃物にも似た鋭さがあった。

 見つめた対象をざくざくと切り裂き、その中身を改めなければ気が済まない。

 そんな危うい欲求が、天使の瞳に宿っている。

 知りたがりは、教えたがり――ベルゼブルの言葉が頭をよぎり、ベリアルは笑った。


「教育か……ぞっとしないね」

「私は楽しみよ。堕天使を引き戻す、悪魔を善の道に導く! 貴女を理解した上で、改造だの洗脳だのという手段ではなく真っ当な方法で更正するのよ。……実に興味深いわ」

「……君って本当に、慈悲と好奇心とが奇跡的に両立してる天使だよね」

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