6.蒼天の瞳
深いため息とともに、炎が揺らいだ。
闇にかすかな残光と高温を残し、幾度かの明滅の後に炎は鎮まる。
焼け焦げた地面を踏む音が聞こえた。もはや視線を向けることさえ億劫だったが、その青白い輝きでクリーチャーが自分のすぐ近くに着地したことがわかった。
「……ダメか。結構頑張って火力を上げたんだけどな」
ため息を吐くベリアルの体を、クリーチャーは容赦なく掴んだ。
宙吊りにされたクリーチャーの巨体は、相も変わらず不気味に輝いている。一切の焼け焦げもないその肉体に、ベリアルは空虚な笑い声を立てた。
「神の雛形……マモンと同じか。障壁で大抵の攻撃は効かないってわけ」
「ええ。そして、貴女はもはや限界でしょう」
アザゼルの声に、ベリアルは表情を消す。
クリーチャーの陰からアザゼルが現われ、無機質な山羊の瞳にベリアルを映した。
「絶え間ない破壊と再生を繰り返し、貴女の霊的細胞は疲弊している。もう再生もままならないでしょう……霊素核も露出している」
アザゼルが指差した先――ベリアルの胸元には、無残な裂傷が深々と刻み込まれていた。
裂け目の向こうには、闇があった。
星のない空にも似た澄んだ漆黒が、ぽっかりと口を開いている。
そこに埋もれるようにして、か細い炎が一つ。音も無く、静かに揺らめいている。
「燃える霊素核……極めて特異な形をしていますね」
「……まぁね。ここまで浅いところに移動してきたのは初めてなんだけどさ」
「移動……? 貴女の霊素核は、移動するのですか?」
「そうさ。正直、自分でもどこにあるのか時々把握できなくてね。困ったものだよ」
さすがに目を見張るアザゼルに対し、ベリアルは鼻で笑った。
燃え盛る霊素核は、胸腔の闇のうちをふらふらと彷徨っている。
何度か固定しようと試みたが、いずれの試みも失敗に終わった。それがまた、ベリアルの虚無感を掻き立てる。
「本当に特異な霊素核ですね……でも」
アザゼルがゆらりと手を上げると、そこに一条の銀の光が走った。
そうして生じた一本の槍を、アザゼルはまっすぐにベリアルの霊素核へと向ける。
「砕けば貴女は消滅する――その原則は、変わりませんよね」
「……どうだかね」
ベリアルはわずかに肩をすくめるような動作をしつつ、周囲に視線を向けた。
またマステマが集まりつつある。ぼこぼこと音を立てて、新たなネフィリムが地表を破る。
クリーチャーの指先は、岩の如く動かない。
「権能を開示しないのですか?」
「……私の権能は、ちょっとリスキーでね」
権能を使えば――あるいは、真化すれば、この状況は打開できるかもしれない。
しかし、
強大ではあるが、使い方を誤れば自滅しかねない。あれは霊素核の力と、虚無の力とが釣り合っている時にこそ安定して力を発揮できるのだ。
そしてベリアルの霊素核を活性化させるのに必要なのは――刺激と快楽。
「今は燃料になるものがなんにもない。だから――」
飴は、尽きた。
ラジエルも目覚めない。
面白いものはなく、心地良いものもなにもない。
いま虚絶衝動を開示させても、身の内に宿る虚無に呑まれて自滅するだけ。それどころか虚無はベリアルの体を食い破り、世界に溢れ出すだろう。
そうなってしまったら――。
「――いや、そうだな……」
良いかも知れない――ふと、そう思った。
思えば一体、どうして生に固執していたのだろう。もはや天地には如何なる刺激も快楽も無い。生きていたところで、無味乾燥な時間が続くだけだ。
――そしてその時間は、ラジエルの喪失によっていっそう耐えがたいものになった。
面白みのない星空を見上げ、ベリアルは笑った。
「なにがおかしいのです?」
「……いや、大したことじゃないんだ」
たとえ内部が空洞でも、痛覚は存在する。いまも笑うたびに潰れた箇所が軋み、それだけで意識を失いそうなほどの痛みが全身を貫いた。
それでも、ベリアルは笑った。
「ただ――これが世界最後の夜だと考えると、存外愉快だと思ってね」
アザゼルが、目を見開く。
不穏な気配を感じ取ったのか、無数のマステマがそれぞれの武器を構えた。地表で体をくねらせるネフィリム達は、ひたすらによだれを垂れ流している。
クリーチャーが奇妙な声で唸るのを聞きながら、ベリアルはかくりと首を揺らした。
「さて――準備はいいかい? これから皆で心中するよ」
「――ッ! 握り潰しなさい! 早く殺して!」
ベリアルの囁きに顔色を変え、アザゼルが切羽詰まった声で命じる。
クリーチャーの肉と骨が動くのを感じた。マステマの武器が煌めくのが見えた。
ネフィリム達の笑い声や泣き声がわんわんと頭に響く。
あらゆる光が乱反射し、像が歪み、音が乱れる。
それが何故だかたまらなくおかしくて、ベリアルは握り潰されながらけらけらと笑った。
血を吐きながら、自らの胸の内の虚無に意識を集中させる。
「ああ……本当に……」
なにもかもひどかった――最期にそう叫んでやろうと思った。
そうして遥か遠い至高天に隠れた神とやらに、唾を吐いてやるつもりだった。
だから、ベリアルは顔を上げた。
――目が、合った。
「な――」
もう二度と見れないはずの青色がそこにあった。
クリーチャーの指の上、関節と関節の狭間。
血に濡れたそこに、天使は立っていた。
青い瞳の天使が――ラジエルが、そこにいた。
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