5.孤炎
跳ぶ――飛ぶ。
闇を切り裂き、ベリアルは上昇する。
見る見るうちに離れていく眼下で、盛大な煙を立てて洞窟が崩れ落ちていくのが見える。
そしてそこから、黒い鳥の群れの如く飛び立つマステマ達の姿も。
泣き声とともに伸び上がるネフィリム達の姿も。
「――モテる女は辛いね」
鼻で笑いながら、ベリアルは雲を突き破る。
まっさきにそこに追撃を駆けたのはマステマの群れだった。一瞬で真化したマステマの一団は灰色の翼を光らせ、音の速度を超えてベリアルへと襲いかかる。
剣、槍、鞭、湾刀、斧、棍棒――数えることさえ億劫な数々の武器が、雲の中に閃いた。
夜空に紫の炎が花火の如く散り、立て続けに爆音を響かせる。
それでも――遅い。弱い。
俊敏に身を翻し、ベリアルは思い切り息を吸い込んだ。
そうして一気に吐き出すと、その呼気から炎の奔流が生じる。それは火炎放射器の如く闇を炙り、手近にいた一団を一息に燃やした。
さらにベリアルはジグザグに宙を飛ぶ。
それを追って他のマステマが飛び、ネフィリムがよだれを散らしながら伸びてくる。
しかしベリアルには敵わない。右手が動くたびに炎が飛んでマステマが打ち落とされ、左手が動くたびにネフィリムの胴体が切断される。
遅い。遅い。遅い。弱い。弱い。弱い。
――なのに、ざくりと頬に傷が刻まれた。
完全に見えていたマステマの一撃――しかし、体が追いつかなかった。
「――ん?」
ベリアルは一瞬目を見開きつつ、即座にそのマステマの頭を掴んで握り潰した。
さらに返す手で胸部に掌打を打ち込む。霊素核を砕いた確かな手応え。痙攣とともに灰となっていくマステマを地上へと放り捨てる。
落下していくマステマの死体――その向こうから、ネフィリム。
ベリアルは瞬時に後退。ネフィリムの口を悠々と回避。
――したはずなのに、右足が掠った。
「あれ?」
ざっくりと肉が削り取られた自分の足を、呆然とベリアルは見下ろす。
その頭上に、青白い影が落ちた。
風の唸る音にはっとベリアルは顔を上げる。
その時にはもう、クリーチャーの放った青い光球が彼女の痩躯へと迫っていた。
爆音――衝撃波で雲が散り、ベリアルの体は地上へと叩き込まれる。
もうもうたる土煙が、壁の如くせり上がった。
「……おかしい……なぁ」
火山の麓――峻険な岩場で、ベリアルはかろうじて立っていた。
悲鳴のような呼吸音によって、肩は不規則に揺れている。大粒の血の雫が地面へと零れ落ちて、黒い煙と化して消えていった。
そしてその顔――右半分は無惨にも砕かれ、内部にわだかまる闇を晒していた。
「こんなに私……弱くなかったはずなのに」
ベリアルは首を振ると、黒々と抉れた部分を手で隠した。
そうしてその手を降ろせば、もう傷の修復は完了している。
右足の食いちぎられた箇所も瞬く間に回復し、ベリアルは何度かその場で足踏みした。
「どうも調子が出な――」
仰ぎ見た空には、片手を振りかぶったクリーチャーの姿があった。
緑の瞳が大きく見開かれる。神経が命令を伝達する。筋肉に力が張り詰める。
しかし、遅すぎた。轟音とともに降り立ったクリーチャーは、あっさりとベリアルを捕えた。
掴まれた足が砕かれ、握り潰される。
そのまま、クリーチャーはベリアルを思い切り振り上げた。
一度、二度、三度、四度――。それはさながら赤子が人形で遊ぶように。
延々と、クリーチャーはベリアルを叩き付ける。
そのいっそ事務的にすら感じられる作業にはなんの躊躇いもなく、感情もなかった。
轟音とともにぱっと血煙が広がっては、消える。
手足が千切れ、彼方へと飛ぶ。衝撃で皮膚が風船のように弾ける。まやかしの臓器が全て潰れる。満遍なく骨が破砕される。果実が潰されたように肉体が赤い染みとなる――。
自分の体が、見る見るうちにひき肉へと変えられていく。
――それを、ベリアルはどこか遠くの出来事のように感じていた。
「かっこわるいなぁ……」
かすれた声で呟いた途端、また叩き付けられた。
振り上げられる瞬間にどうにか声帯を回復させ、ベリアルはさらに呟く。
「どうしてこんな」潰される「悪いんだろう」潰される「私はこんなに」潰される「弱くなかったはずなのに」潰される「……あー」潰される「……面倒だ」潰される「……なんで生きてんだろう」潰される「あー……」潰される「……はぁ」潰される――。
もう何十度めかの振り上げ。
乱れる視界の端に、マステマとネフィリムの群れが見えた。
叩き付けられるベリアルがよほど面白いのか、ネフィリム達はけたけたと笑っている。一方の悪鬼の天使の群れは整然と並び、沈黙していた。
それそのものは、なんの面白みもない光景だった。――けれども。
「――あの悪魔を消したら、次はラジエルを探し出し……」
マステマの内の何者かが囁いた。
それは、ごくごくごく小さな声だった。けれどもベリアルには、確かに聞こえた。
再生したばかりの奥歯をきつく噛みしめた。
掌に走った高温にクリーチャーが奇声を上げ、その体を放り投げる。
直後、ベリアルの体が空中で爆発とともに燃え上がった。
ベリアルを発火源とした炎は一瞬で球状に広がり、周囲を飲み込んだ。逃れられなかったマステマやネフィリムが、悲鳴を上げる間もなく一瞬で灰燼と化す。
木を、岩を、草を、獣を――悪魔の炎が平らげ、蹂躙していく。
そんな爆熱の中で、ベリアルは砕けた地面に落下した。
下半身は千切れ飛び、上半身のみの状態になっている。かろうじて残った左手で二色の髪を掻き上げ、ベリアルは炎の中でほうと息を吐く。
見上げた空には赤や紫の炎がせり上がり、まるでオーロラの如く乱舞している。
そうしてその向こうには、満天の星が広がっていた。
「……ひどいなぁ」
手で顔を押さえたまま、ベリアルは薄く笑った。
「……私はなにもかも嫌いだった……天界も地獄も、この世の異物たる私にとってはほとんど変わらない……全部気に食わなかった……それなのに……」
乾いた笑い声が響く。
左頬の紋様をいびつに歪ませ、炎上する星空の下でベリアルは笑った。
「……あいつがいなくなったら……前より世の中退屈だ」
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