4.私、お前が本当に嫌いなんだよね

 アザゼルが向かった先は、まさにその火山だった。


 ココロック山――先住民の言葉で某かの意味があるらしいそれは、標高およそ一二〇〇メートル。玄武岩質で、穏やかな噴火が特徴的なセカンドトリスの象徴だ。

 山頂には、ワイルドゴートヘッドという文字通り山羊の頭に似た奇岩がある。

 それがじっと見下ろす先に、常人には見えない亀裂があった。

 亀裂の先には、深い洞穴がぽっかりと口を開けている。

 かつてはここにマグマだまりがあったのだと、先を行くアザゼルは語った。


「ここには、力が満ちているの」


 アザゼルの言葉を聞きながら、ベリアルはあたりを見回した。

 視界は、ほのかに青い光に包まれている。溶岩の熱が染みだし、蒸し暑い。ギザギザの岩があちこちで牙を剥き、悪魔の体内に足を踏み入れた気分になった。

 そして――硫黄のにおいに混ざって、血のにおいがする。


「私達が封じられた場所にも近いし――本当に、素敵な場所よ」


 陶酔のため息を吐き、アザゼルはベリアルに前方を示した。

 その先の地面は、青く光る臓器のようなものに玄武岩が侵蝕されている。そしてアザゼルの先には崖があり――その遥か下方にそれはいた。


「……クリーチャー」

「私達は『雛』と呼んでいるの」


 どこかムッとしたようなアザゼルの言葉を聞きながら、ベリアルは黙ってそれを見下ろす。

 下方には、巨大な赤い池があった。

 血の池だ。おびただしい数の人間の死体が、無造作に浮かべられていた。

 どろりとした赤い液体は、時折電光にも似た青い光を瞬間的に走らせる。

 その光の集う中央に、クリーチャーの巨躯が沈んでいた。周囲には青く光る臓物がうずたかく積み上げられ、いくつかの管はクリーチャーへと接続されている。

 さらに何体かのマステマがせわしなく飛び回り、その体になんらかの処置を施していた。


「雛……人間……昇華……愛……ああ、そういうことか」


 クリーチャーの肉が縫い合わされていくのを見ながら、ベリアルは唇を吊り上げた。


「――神を作ろうとしているんだな?」

「正解よ。きっと、わかってくれると信じていたわ」


 アザゼルは微笑み、拍手する。

 その様がまた癇に障ったが、苛立ちは虚無に霧散した。


「人間は神の似姿――即ち、人間には神の要素がある」


 興味を失って地面を見つめるベリアルをよそに、アザゼルは崖のぎりぎりへと立った。

 頬を上気させ、眼を潤ませ、眠るクリーチャーを惚れ惚れと見つめる。


「ならばその要素を抽出して、繋ぎ合わせれば……私達は新たな神を作り出せるはず。そうよ、単純なこと。神が去ってしまったのなら、新しく神を作ればいいのよ!」


 熱い頬を両手で包み込み、感極まった様子でアザゼルはついに涙を零しはじめた。


「これで皆、救われる。人間も、天使も、悪魔だって――!」

「――余計なお世話だ」


 冷え切ったベリアルの声に、アザゼルは口を噤んだ。

 ベリアルはゆっくりと空を仰ぎ見て、大きく息を吐いた。そうして呟く。


「……ようやくわかった。なんで君にここまで苛々するのか」


 ベリアルは視線を下ろし、アザゼルを見つめた。

 冷え切った緑の瞳をひたと彼女に向けたまま、ゆっくりと指を一つ立てた。


「まずは君の……そういう粘っこい善意が本当に気に障る。悪魔は救済など求めていないし、なんだったら人間や天使だってこんな形の救済は望んでいないだろう」


 さらにもう一つ、指を立てる。


「二つめ。そして君のその行為は、私にとっては挑発に等しい。私が望んでもいないのに私を造り出したあの存在と……君はまったく同じことをした」


 抑揚のない声でベリアルは言葉を続ける。表情は、相も変わらず虚ろなまま。

 そして――ベリアルは三本目の指を立てる。


「――最後。だからラジエルが邪魔だったんだな?」


 起伏のなかったベリアルの声に、わずかな――しかし、確かな感情が滲んだ。


「あのクリーチャーは許されない存在だ。――つまり、ラジエルの校閲が致命傷になりかねない。だからマステマを使って彼女を天から追い落とし、翼を奪った……」


 ラジエルの背中に刻まれた傷が、鮮やかに脳裏に蘇る。

 左頬の紋様を歪ませて、ベリアルは不快感を剥き出しにしてアザゼルを睨んだ。


「気に入らないなぁ……本当に。悪魔のように正しく破綻しているくせに、天使みたいに慈愛に満ちた乱暴さ。嫌なところのハイブリッドみたいなやつだ」

「……私は、天使よ。今も、昔も」


 焼け付くような不快感と憎悪を向けられてなお、アザゼルはにっこりと笑った。


「私は昔も……今も、神の忠実なしもべ。受難の果てに戻り来た荒野の山羊。でも、神は地上から去ってしまった……私を残して……私と子供たちを残して……」

「……あー、なるほど」


 ため息を吐きながらベリアルは左目に手を当て、霊威を発動させる。

 そこに映るアザゼルの姿は、いびつそのものだった。


「堕天してはいる……けれど、私達よりも天使の要素が多く残ってる。そういうことか。中途半端に堕天した上に、狂気に当てられたんだな」


 捩れた角、輝く光輪、いびつに裂けた口、真白の翼、ぬらぬらと光る牙――。

 まるで聖と邪のパッチワーク。

 悪魔としては、生理的嫌悪感を禁じずにはいられない外観だった。


「神への執着を残した悪魔か……不細工にもほどがある」

「――私は、天使よ」


 いやな予感がした。とっさにベリアルは背後へと飛ぶ。

 まさにその瞬間、ナメクジに似たなにかが勢いよく地面を食い破った。


「……ネフィリムか」


 ベリアルは眉をしかめ、不安定に頭を揺らすそれを見る。

 白い体は粘液に覆われ、ぬらぬらと光っている。のっぺりとした外観をしたそれにはいびつに細長い手が無数に生え、頭部にはただ巨大な口だけが存在していた。


「エグリゴリが人間との間に創った出来損ない……絶滅したんじゃなかったの」

「大地に融けただけよ。私の権能を使えば、いつでも現われる。――それと。私のかわいい子供達を出来損ないなどと呼ぶのはやめて」


 アザゼルは微笑したまま、すっと目を細めた。

 地面に震動を感じた。ベリアルはさらに後方へと飛び、天井へと立つ。立て続けに三体のネフィリムが固い岩盤を食い破り、赤ん坊のような泣き声を上げた。


「ねぇ、ベリアル……私は、悪魔達と敵対したくないのよ」


 天井にしゃがみこんだベリアルはアザゼルを見下ろす。

 体を揺らすネフィリム達のはざまで、アザゼルは目に涙を浮かべてベリアルを見つめていた。


「少し考えてみて。新たな神が生まれれば、貴女達にも救済の機会が――」

「黙れよ」


 冷やかなベリアルの声に、アザゼルは口を閉じる。

 重力を無視して、ベリアルはゆっくりと天井で立ち上がる。緑の瞳は蛍火の如く煌々と光りながらも、淀んだ沼のような虚無を秘めてアザゼルを映していた。


「和解も救済も、このベリアルには必要ない」

「――あら、あら、あら」


 アザゼルはそっとネフィリムを撫でながら、慈悲深い微笑をその顔に浮かべた。


「今のは聞かなかったことにしてあげるわ。大丈夫よ。――さぁ」


 アザゼルは、緩やかに手を広げた。

 空気がざわめく。ベリアルは天井に立ったまま、冷やかな視線を周囲に向けた。

 ぽつぽつと――洞窟の薄闇に、マステマの仮面が無数に浮かぶ。

 地面ではさらなる数のネフィリムが岩盤を突き破り、肉に湧いた蛆の如く身をよじる。

 そうして特に巨大な気配は――血の池から。


「――これだけの数を前にしても、同じことを言えるかしら」


 アザゼルの後方から、地響きとともにクリーチャーが這い上がってきた。

 数多の血が、滝の如く青白く輝く皮膚を伝う。動くたびに臓器に似た器官がぶつぶつと音を立てて引きちぎれて、血の池へと飛沫を立てながら落ちていく。


「もう一度、考えてみて。貴女は私達に手を貸さなくてもいい。見なかったふりをするだけでも十分なの。――でも、ベリアル。本当は貴女も、救われたいでしょう?」


 背後に座すクリーチャーの顔をそっと撫で、アザゼルは囁く。

 紛い物の神の顔を覆う無機質な仮面を、ベリアルはガラス球のような瞳で見つめた。

 そうして、虚無の悪魔は深いため息を吐く。


「――願い下げだよ」


 瞬間――轟音とともに、洞窟が崩落した。

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