3.慈悲の獣
ベリアルは、ヴァニティーから降りた。
そこは初めてセカンドトリスに訪れた際、足を踏み入れた大きな公園だ。今もそこは温かなイルミネーションに包まれ、バザーの客で賑わっている。
初めて来た時と同じく、ベリアルは彼女の姿をあっさりと見出した。
「やあ」
「あら、こんにちは。女優さん」
声を掛けると、荷物をまとめていたレアは朗らかな笑みを返してくれた。
ベリアルは緑の瞳を細め、片付きつつあるレアの露天を見る。
「もう帰るの?」
「ええ。今日は少し、用事があるから――」
「……マステマに会いに行くの?」
レアは笑顔のまま、パッチワークの布や刺繍の作品をまとめる手を止めた。
ベリアルは薄く笑って、首を傾げる。
「マモンは君のことを知ってたよ。ウルトラキッドの成分を研究してたみたいだ」
思えば、不自然だった。
どんな形であれ寄付という概念を嫌うマモンが、何故ウルトラキッドを持っていたのか。そして、彼女がクリーチャーを兵器として売ることを考えていたのなら――。
「ウルトラキッドを使って、人間をクリーチャーに変えてたんだろ?」
レアは、しばらく迷うようなそぶりを見せた。
しかしやがて目を閉じ、一つ深呼吸をした。
「――ここで話すのはやめましょう」
声も、口調も変わらない。
けれどもまばたきをした彼女の瞳は、異形のものへと変異していた。
横長の瞳孔――山羊に似た、それ。
どう見ても人間のものではない瞳を瞬かせ、レアは困ったような顔で辺りを示した。
「人が多すぎるし……それに、貴女とは個人的に話したいと思っていたの」
「……まぁ、私は構わないよ」
レアはうなずくと、手近にいた若い女を呼びつけた。
そうして彼女に予定が入ったことを伝えると、手早くその後のことを任せる。
その間、レアの声音も表情も平静のまま。先ほどのわずかな間に見せた山羊の瞳がまるで幻だったかの如く、レアの行動は人間そのものだった。
「――待たせたわね、女優さん」
大きな黒の鞄を肩に担ぎ、レアはベリアルににっこりと笑いかける。
「来て欲しいところがあるのよ。一緒にデートしない?」
「ふん、デートと言ったか。なら、先に君の名前を教えてくれないか」
歩き出すレアの背中に、ベリアルは冷めた声で問いかける。
タータンチェックのスカ―フの位置を直しながら、レアは振り返った。
「私はアザゼル――人類を救済するもの」
そう言って、レア・ベゾアールは――アザゼルは、山羊の瞳で笑った。
それは悪魔とは思えぬほどに慈悲深い笑みだった。
* * *
アザゼルに連れられて、ベリアルは街を駆ける。
行動は人間そのものだったが、アザゼルの身体能力は間違いなく人外のそれだった。
「――見て、素敵でしょう」
ビルの屋上から飛びだし、アザゼルは両手を振り払うようにして辺りを示した。
合衆国有数の都市であるセカンドトリスは、冷えた冬の空気に絢爛たる輝きを放っている。
薄く雪のちらつく空へと跳躍しつつ、ベリアルは目を細めた。
「地獄だって似たようなものだろ。地面が平たいだけだ」
「そうなの? 私は、地獄って行ったことがないのよね」
笑いながら、アザゼルは別のビルへと着地する。
ベリアルもそれを追って飛びだしながら、アザゼルの名前と経歴を思いだしていた。
「……君は『エグリゴリ』と呼ばれる天使の一人だね」
「えぇ……そうよ、そう。神が人間を監視するために放った天使の一団……」
アザゼルの顔が、憂いに染まった。
二人は、あのジョイス・インペリアル・ホテルへとたどり着いた。
妖蛆による破壊は修復作用によってなかったことにされたため、建物は健在だ。しかし創業者が失踪したことで、臨時休業中の建物は暗闇に包まれている。
「人間と交わったことでエグリゴリは堕落し、荒廃した地上に神は怒り狂った。そうして君達を荒野に封じた……知らなかったよ。君みたいな悪魔がいるなんて」
「私は天使よ……ただ、神に許されなかった」
ドーム型のガラス天井の上にアザゼルは立つ。
暗闇に閉ざされたプールを見下ろしながら、アザゼルは悲しげに語る。
「私達はただ、あの方と同じように人間を愛していた……でも、理解されなかったの……」
「……へぇ」
冷めた顔で、ベリアルはキャンディケースを取りだそうとする。しかし中身が空になっていたことを思いだし、その手を降ろした。
「人間……人間! 脆く、か弱く、迷いやすい小山羊達! 私達は、本当に愛してた!」
自分の体をきつく抱き締めて、アザゼルははらはらと涙を零す。
「一九九九年、私は一番に荒野から解き放たれた。そして神が去り、地上が――人間達が危機にさらされていることを知ったの。それが、耐えられなくて……」
「マステマと組んだ。でも、この街にマモンが来てしまった」
飴の代わりに指先を噛みながら、ベリアルは退屈そうに視線を街へと向けた。
「マモンの勢力規模は君のところよりも遥かに上。さらに積極的に他の悪魔を攻撃するものだから途端に君はやりづらくなった。で、私達をマモンにけしかけた――で、私は君の動機とか一切興味がないんだけどさ」
がりがりと人差し指を噛みながら、ベリアルは首をひねった。
「人間が愛しいとかいうわりに、人間を殺してるのはおかしいんじゃない?」
「殺すわけがないでしょうッ!」
きぃんと響くアザゼルの叫びに、ベリアルは眉を寄せた。
アザゼルは山羊の瞳を大きく見開き、荒い呼吸をしていた。しかしやがてゆるゆると首を横に振ると、間違えた子供を見守るような笑みを浮かべた。
「でも……仕方がないわね。わからなかったらそう見えるかも。恥じることはないわ」
ムカつくな――アザゼルの顔を見た途端、ベリアルは感じた。
レア・ベゾアールを名乗っていたときは、炉端の小石にしか見えなかった。
しかし今は、アザゼルの全てがどうも神経を逆撫でする。
けれどもそんな苛立ちも、がらんどうな胸の内で霧散していく。全ての黒幕と思わしき悪魔を前にしてなおも、身の内の虚無は深まるばかりだった。
「……じゃあ、本当はなにをしてるの?」
虚ろな瞳のベリアルに、アザゼルは微笑を深めた。
それがまた、どうにも腹が立つ顔だった。
「――『昇華』させてるの」
「こっちにきて」と、アザゼルは背中を向ける。
その先で黒々と噴煙を上げる火山を、ベリアルはぼんやりと見つめた。
「……もう全部面倒だし噴火させようかな、あれ」
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