2.あがくように、いのるように
触れてみた。声を掛けてみた。噛みついてみた。
それでも、ラジエルの瞼は開かない。
ついには、その凍てついた喉を締め上げたこともある。
「――おい、起きろよ」
ラジエルの上にのしかかり、ベリアルはその耳元に低い声を落とした。
「いい加減にしろよ。おおかた妹が死んで、私ができたのが気に入らないんだろう? そうやって黙ってないで、文句があるなら私に直接言ったらどうだ」
ぎりぎりと細い首筋を締め上げる。肌を突き刺す冷たさが余計に癇に障った。
もう片方の手に、ベリアルは炎を灯した。
「霊素核を凍結させたんだって? それはいいね、私は炎と虚無の悪魔だ」
ベリアルはいったん体を離すと、戯れに炎の火勢を操作した。
不規則に揺れる炎が、青ざめたラジエルの顔に妖しい陰影を落とす。それを見下ろして、ベリアルは歪んだ笑みの形に唇を裂いた。
「私の炎で君の核を燃やしてやれば……起きるかもしれないね?」
燃え盛る炎が、ラジエルの胸に近づき――。
そうして、消えた。
砕けそうなほどに、ベリアルは己の歯をきつく噛みしめる。色鮮やかな赤と青の髪をぐしゃぐしゃと掻くと、ラジエルの隣に倒れ込んだ。
キャンディケースから赤のキャンディを大量に掌へと出し、口の中に突っ込む。
「……起きろよ。私のこと気に入らないのは、知ってるからさ」
ばりばりとキャンディを噛み砕き、ベリアルはぼんやりと天井を見上げた。
ラジエルは、それでも目覚めなかった。
――ヘルフォンから響く電子音に、ベリアルの意識は現実へと戻る。
取り出した画面には、『魔王様(笑)』の文字。
ベリアルは、通話ボタンをタップした。
「…………なんか用?」
『ふん、虚無そのものといった声をしているな。――フロギストンはどうした?』
ルシファーの声に、ベリアルはゆるりと視線を隣に向ける。
そこには、蓋が開いたままの銀のキャンディケースが転がっていた。
中身は、とうにない。
「……ちゃんと舐めてるけど。それが何?』
『それが真実であることを願いたいものだな』
耳元で、ルシファーが嘆息する。
『あの飴は貴様が、身の内の虚無に完全に呑まれないためにある燃料……あれが尽き、そして他に精神を充足させる手立てがなければ、霊素核が不安定になる』
「知ってるよ。自分の体のことだもの。――で?」
ベリアルは緑の瞳を細め、ヘルフォンを軽く睨み付けた。
「そんなくだらないことを伝えるために、連絡してきたわけ?」
『そんなわけがなかろう。――いいか、よく聞け。貴様に伝えることが三つある』
ルシファーの声に、黙ってベリアルは耳を傾けた。
窓の外では日が沈み、セカンドトリスの地平は血のように赤く染まっている。
そうして夜が訪れ――ベリアルは黙って、ラジエルを見下ろした。
赤と青の髪は整えられ、いつも通りのスーツ姿。
ただ、その顔に曖昧な笑みはない。
ルシファーが最初に伝えたのは、マモンのことだった。
彼女はどうやらクリーチャーを捕え、兵器として売るつもりだったらしい。
洗いざらい全てを吐いたマモンは現在、
そして、ルシファーはベルゼブルの話をした。
どうやら彼女はルシファーに対し、ベリアルの力になって欲しいと頼んできたらしい。
「……君の力なんて必要ないんだけど」
『そう言うな。ベルゼブルの帰還について、私は貴様に借りがある。それをさっさと返しておきたい――
「知りたいけど……私が天使を飼ってることに文句はないのかい?」
『歓迎する。貴様の弱みが増えるのは実に喜ばしいことだ』
「地獄に堕ちなよ」
『ここが地獄だ、馬鹿者。――貴様、メタトロンとサンダルフォンを覚えているな?』
「ああ……あの兄弟天使がどうしたんだ?」
『あの二人だが、サンダルフォンが
「は? ……でも、あいつら、たしか大戦の時は二人揃って――」
『克服したんだ。
それが――ルシファーが伝えた二つ目のこと。
ベリアルはベッドに腰掛けると、さらりとラジエルの髪に指先を入れた。
「……『毎日話しかけろ』だってさ」
霜柱のような髪に触れながら、ベリアルは緩く唇を吊り上げた。
「『眠っていても、声は届いてるから』――もうずっと、君に話してるんだけどねぇ。それでも起きてくれないんじゃ、君が意地悪してるってことじゃないか」
ベリアルはくつくつと喉の奥で笑い、そうして深くため息を吐く。
「……ひどい話だ。こっちは君のせいで、ずっと迷惑しているのに。君と過ごしたのはほんの一月。私の生きた年月に比べれば、一瞬にも満たない」
「なのに」と首を振り、ベリアルは赤と青の髪をゆるゆると掻き上げた。
「……正直、君と合う前の自分がどうやって生きていたのか思い出せないんだ」
両手で顔を覆い、ベリアルはしばらく黙り込んだ。
そうしておもむろに立ち上がると、ベッドサイドのテーブルに手を伸ばした。
「……くれてやるよ。今度はちゃんと咲いたやつ」
眠るラジエルの胸に落とされたのは、一輪の薔薇だった。
胸元に白薔薇を抱いて眠る天使の姿は、余計に死人めいてみえる。ベリアルはわずかに唇の端を歪めてそれを見下ろすと、ラジエルのそばに手を突いた。
「……なんなら私のこと、ラグエルって呼んでもいいからさ」
ラジエルの耳を軽く、噛んだ。
そしてその冷たい額に自分の額をつけ、囁きかける。
「だからさ……起きてよ。君がいないと、つまんない」
ベリアルは、しばらく目を閉じた。
祈りはしない。ただ黙って、待った。冷えた室内に、夜風の音が聞こえた。
やがてベリアルはゆっくりと体を起こすと、いびつに笑った。
「……こんなんで起きるんだったら、苦労しないよ」
ベリアルは踵を返す。
淡い月明かりの差し込む部屋には、眠る天使だけが残された。
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