Ⅳ.天使と悪魔のエトセトラ
1.澄み切った霊魂の冷やかさを知る
ラグエルの霊素核、オリベルの骨髄、トビエルの経絡――その他、欠陥天使達のパーツ。
全てを組み合わせれば、完璧な天使が出来るはずだった。
けれどもそこに、神は余計なものを零してしまった。
それは光ができる前にこの世界にあったもの――虚無の残滓。
そうして産声の代わりに断末魔の叫びを上げて、ベリアルは成立した。
* * *
パラダイス・ロストの十三階――薄暗い部屋で、壁を背にしてベリアルは座り込んでいた。
寝台には、ラジエルが横たえられている。
白髪はいっそう白くなり、薄く氷の貼り付いた肌は青白い。
「――
一週間前にベルゼブルが言ったことを、ベリアルは思い出す。
まさにこの部屋で、彼女はラジエルをそう見立てた。
「
「あんまり知られてない天使の状態の一つだよぉ。天使は闇に堕ちれば霊的細胞を組み替えて堕天し、狂気にやられれば霊的細胞をそのままに狂天使となる」
呼吸すらしないラジエルを見つめ、ベルゼブルは困ったように目を伏せた。
「これは第三の状態――霊素核を凍結させて、眠りにつく」
「……どうしてこうなるの?」
ベリアルはラジエルの手を取ると、その指先を思い切り噛んた。
氷のような指先には、血も滲まない。
天使は目覚めず、こんこんと眠り続けている。
「原因はよくわかってないねぇ。堕天も狂化も拒んだ天使が稀に陥る状態らしい。ルシファーが昔、話してたよ。特に真面目で、仕事熱心な天使がなりやすいって……」
ベリアルはラジエルの手を降ろし、黙ってその顔を見つめた。
「一九九九年の狂気以降、こういう天使が増えたらしいよぉ。狂った同胞との戦いに磨り減った天使達のほとんどが、こうして凍ってしまったんだって」
「……
ラジエルを見つめたまま、ベリアルはぼそりと呟く。
「堕ちれば楽なのに。なんだってこんな
「さぁねぇ。ぼく達は堕ちた方が楽だったけど、きっと彼女は違ったんだろう」
「それで? どうやったら治せるの?」
「知らない」
ベリアルは、ベルゼブルへと視線を移した。
ベルゼブルは困った表情のまま、細い腕を広げてみせる。
「本当に知らないんだよ。そもそもさっきも言った通り、この現象自体が稀なんだ。原因もよくわかっていないし……ただ少なくとも」
頭に被った王冠の位置を直すと、ベルゼブルは真剣な眼でラジエルを見下ろした。
「
「……ルシファーに聞けば……」
「彼女も知らないんじゃないかなぁ。だって、天使長時代に
遠い昔を思い出すような顔で、ベルゼブルは顎に手を当てる。
ベリアルは、冷めた緑の瞳でラジエルを見つめた。
「……もう起きないの?」
「だから、わからないんだよ。死んだわけじゃない。いつかは目覚めるかもしれない。でも、それが明日か、明後日か――百年先か千年先か、まったくわからない」
「それが
「もしかしたらぼく達が堕天した後で、天界で
ベリアルは、ラジエルの頬に触れた。
凍結された霊素核の影響で、その肌はぞっとするほど冷たい。
そこに薄く貼り付いた氷をそっと削ぎ取って、ベリアルは淡々とした口調で言った。
「じゃあ……壊れてるのと同じじゃないか」
「……ベリアル」
「動かないんなら、壊れてるのと同じだ。つまんないな、せっかく拾ったのに」
「…………ベリアル、大丈夫?」
「なにがさ?」
気遣わしげなベルゼブルに、ベリアルは笑う。
それは、今までこの悪魔が浮かべたことがないほどに朗らかな微笑だった。
「よくあることさ。玩具が壊れたり、飼ってたペットがすぐ死んだり。私はそういうのばっかりだ。こんなことをいちいち気にしていたら、悪魔なんかやってらんないよ」
「……悪魔にだって心はあるんだよ」
ベルゼブルはそっと、髑髏模様のよだれかけに覆われた自分の胸元に手を当てた。
「傷つくことだってある。ねぇ、ベリアル、君は――」
「君の胸には心があるかもしれないが、私の胸にはなんにもない」
ベリアルは笑ったまま、自分の胸に指を突き立てた。
深々と肉にめり込んだ指先に無理やり力を込め、引く。シャツの布地と肉とが裂け、ばりばりと音を立てて剥がされていった。
大量の血が滴り落ち、黒い煙と化して消えていく。
「ほら、この通り――私にあるのは虚無だけだ」
そうしてわずかにさらけだされたベリアルの胸腔には、闇があった。
普段、形だけでも模造しているまやかしの臓器もない。
血も肉もなく、ただただ黒々とした虚無だけがベリアルの体内にはわだかまっていた。
「……これでどこが傷つくというんだ?」
ベリアルの虚ろな緑の瞳をじっと見つめて、ベルゼブルは深くため息を吐いた。
「……片付けなよ、それ。見ているとぼくが痛くなる」
「おっと、すまないね。見苦しいものをみせた」
ひょうきんな口調で言いながら、ベリアルは引きはがした肉を無理やり押し込んだ。
ベルゼブルは額を抑え、ゆっくりと首を振った。
「……ぼくは一旦、地獄に戻るよぉ」
「おや、もう少し地上にいるんじゃなかったの? それにルシファーと喧嘩中だっって」
「別に大した喧嘩じゃない。数兆年以上友達やってたらそりゃ喧嘩の一つもするよ――ちょっと気が変わったんだ。ルシファーに、
「別に気にしなくてもいいよ。これは、まぁ――」
瞬時に傷の癒えた胸を撫でながら、ベリアルは眠ったラジエルを見下ろした。
唇は、相変わらず不自然な弧を描いたまま。
「もう少しいじってみて――直らなかったら、海にでも捨てるよ」
――それが、たしか一週間前のこと。
あれからベリアルはずっと、ラジエルの側にいる。
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