11.天使凍結
静寂が、訪れた。
ベリアルは頭を押さえた。聖槍の穂先がもたらす肩の痛みは変わらない。
しかし、指輪による頭痛が嘘のように消えていく。
「これは……」
「バ、バカな、何故ッ!」
六つの眼をぎょろぎょろと動かし、マモンは沈黙する指輪を見つめる。
「これは今度こそ本物のはず! どうしてッ――!」
「……ソロモンの指輪を考案したのは私よ」
澄んだ氷を思わせる声が、響いた。
はっと悪魔達が見上げた先で、破片の一つに必死でしがみつく天使の姿があった。
ベリアルは、呆然とその名を呟く。
「ラジエル……」
「私が術式を考え、王に教えた……当然、指輪を一時的に無効化する方法も知っている」
言いながら、ラジエルは危なっかしくベリアル達の破片へと飛び移った。どうやら翼を失ったこの天使は、地上から一つ一つ破片を降りてきたらしい。
ラジエルはベリアルの傍に近づくと、あっさりとロンギヌスの欠片を引き抜いた。
「――ッ、なにをしにきたの、羽根無しちゃん」
痛みに呻きそうになるのをなんとか堪え、ベリアルはラジエルを見上げる。
ラジエルは、憮然とした顔で腕を組んだ。
「助けに来たわ」
「よほどのことが起きない限り来ないって話だっただろ」
「ホテルが一つ崩落するのは私基準だと『よほどのこと』よ」
「そうか。地獄基準だとよくあることだ」
ベリアルはため息を吐くと、立ち上がった。
左肩に炎が揺らめき、瞬く間に聖槍による傷を癒やす。ここは地獄に近い分、悪魔は地上よりも派手な傷を負いやすいが回復もしやすい。
しかしそれは、ラジエルにとっては逆に過酷な環境であることを示している。
「ここは君の世界じゃない……用が済んだのなら、とっとと地上に――」
「――ラジエル? ラジエルといったか、その天使?」
マモンの声に、ベリアルは口を閉じた。
六つの瞳をぎょろぎょろと蠢かせ、マモンはラジエルの姿を映す。
「か、ひひっ……滑稽ですよ、ベリアル! 虚無を謳う貴女も、所詮は欲望の虜か」
「なにがおかしい?」
ベリアルは緑の瞳を細める。
一方のマモンは片方の翼で嘴を隠し、けたたましい声で笑い出した。
「堕ちてなおも、姉が恋しくてたまらないんでしょう?」
「…………姉?」
ラジエルが、動きを止める。
ベリアルはそんな彼女を無理やりに背後に下がらせながら、薄く笑った。
「何を言っているんだ? 私に家族なんかいないけど」
「天でカラスどもが噂していましたよ……! 昔、欠陥のある天使の存在をどうしても許せなくなった神がやったこと! 天使再構築について!」
「……再構築、って?」
嫌な響きのその言葉に凍り付くラジエルに、マモンは笑いながら言葉を続けた。
「単純ですよ……欠陥天使達のマシな部分をより集めて、文字通り天使を作り直す。そうして欠陥のない完璧な天使を作り上げる……。材料として使われた天使は数百体以上。オリベル、トビエル――そうしてラジエルの片割れ、ラグエル!」
「…………え」
呆けた声を出すラジエルの表情は、見えなかった。
そちらには頑なに視線を向けず、ベリアルは薄い笑みを浮かべたまま首を振る。
「はっ、
「ラグエルが差し出したのは霊素核……そして彼女の欠陥は無気力……」
ベリアルの言葉を、マモンの嘲笑が遮った。
「それが神が再構築の際に付け足した『余計なもの』と奇跡的に反応してしまった……そうして出現したのが貴女だ。貴女の人格は、ラグエルに強く影響されている」
翼で嘴を隠したままマモンは六つの瞳を細め、密やかに笑った。
「……それでも無関係だと抜かすのですか、ベリアル?」
「無関係だね」
ベリアルは言い切って、再びガスライターを握り直した。
噴き出した炎が、赤熱する剣を形成する。
それを振るい、ベリアルは緑の瞳を細めた。
「私はベリアル以外の何者でもない」
「それはそれは――でも、そのベリアル様も疲労困憊でしょう?」
マモンが笑い声を立て、翼を広げた。
背面の黒渦がざわめく。影の手が、数多の武器を握りしめて顕現する。邪悪な太陽の如きそれを背負い、マモンは古代の神を気取るかの如く両手を広げた。
「指輪は無効化されましたが――私にはまだまだ尽きぬ財宝が……」
「……そろそろかなぁ」
ベルゼブルが呟いた。その瞬間、闇全体が大きく揺れた。
何者かのプレッシャーが遥か下方から放たれ、数多の破片がそれだけで塵と化す。
マモンは一瞬ふらつき、血の気の引いた顔で下を見下ろした。
「こ、この威圧感は……まさか……」
「……なにした、ベルゼブル」
ベリアルが視線を向けると、ベルゼブルはちょいと肩をすくめた。
「さっき座標間違えた時にさぁ、ついでにお願いしてきたのぉ」
轟音が下から響きだす。周囲の気温が急激に上がる。
七色に輝く何かが、地の底から――地獄から、せり上がってくる。
「こ、これは、――!」
取り乱したマモンが慌てて翼をばたつかせて飛び立つ。
しかしそれも虚しく、巨大な黒い手が彼女の胴体をがっしりと握りしめた。螺鈿の如き光輝を放つそれを前にして、ベルゼブルは破片の端に座った。
「ルシファーに、面倒だから手を貸してって」
魔王は、文字通り手を貸した。
地獄最強の悪魔の手に力が籠もる。みしみしと音を立てて、マモンの肉体が潰されていく。
強欲の凄絶な悲鳴が響く。その手から、金の指輪が零れ落ちた。
「おっと――!」
ベリアルは慌ててそこに駆け寄り、自らの支配権の証たるそれを拾い上げる。
その時、パンッと弾けるような音がした。
マモンの真化が解けたのだ。マモンは、泣きそうな顔でルシファーの手に指を食い込ませた。
「い、いや、いや、ルシファー様、やめて、許して……!」
「……来るのが遅くない? 私、無駄に負傷したんだけど」
泣きじゃくる後輩を見守りながら、ベリアルは指輪を口元にあてる。ごくんと、白いのどが上下した。
足をぶらぶらと揺らしながら、ベルゼブルは肩をすくめる。
「魔王ってね、いろいろと不自由な立場なんだよ。――それじゃ、盟友」
目の前でマモンを締め上げる魔王――親友の手に、ベルゼブルはちゅっと投げキスした。
「あとはよろしくねぇ」
ベルゼブルの声が聞こえたのかどうかはわからない。
けれどもその直後、黒の手の筋骨が軋みを上げた。鈍い音を立て、大気を揺るがし、魔王の手が地獄へと戻っていく――マモンを握りしめたまま。
「許して、許して――! また全財産取り上げられるのはいやぁああああ――――ッ!」
マモンの絶叫は長く尾を引き、そうしてついに聞こえなくなった。
ベリアルはキャンディケースを取り出しながら破片のへりに立ち、下方を覗き込んだ。
「……どんな罰が下されるかな」
「またヒヨコの刑じゃないかなぁ」
王冠の位置を直し、サロペットのしわを伸ばしながら、ベルゼブルは肩をすくめた。
ベリアルは唇をゆがめ、赤と青の髪を掻き揚げた。
「……今日はさんざんだな。クリーチャーもマステマも出てこなかったし」
「でもマモンは捕まえたからぁ。あとは地獄でルシファー達がなにか吐かせてくれるよぉ」
「ふん――もういい。帰るよ、羽根無しちゃん」
返事はなかった。
ベリアルは、そこで初めて振り返った。
「羽根無しちゃん……?」
破片の端に、ラジエルは座り込んでいた。青い瞳は、大きく見開かれている。
ベリアルは近づき、その顔を覗き込んだ。
「どうしたのさ。……ああ、何? さっきのマモンの話のことか?」
赤と青の髪をぐしゃりと掻き、ベリアルは唇を尖らせた。
「全部本当の話だよ。だから言ったじゃないか、私に深入りすると後悔するってさ。ラグエルの人格はもう私には残ってない。だから君ももう――」
「……私は」
か細い声に、ベリアルは口を閉じる。
見開かれたままのラジエルの青い瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
「また……わからなかった……」
「……ラジエル?」
嫌な予感を感じて、とっさにベリアルはラジエルの肩に触れる。
そして、その冷たさに息を呑んだ。
「ラジエル? おい――!」
ラジエルはもう一つ涙を零した。その瞳の青色が、見る見るうちに色褪せていく。
肌からも――唇からも血の気が失せ、白く染まっていった。
「――なんて愚かなの」
ラジエルは目を閉じた。睫毛に霜が降りる。色褪せた頬に、氷の筋が入る。
そうしてそれっきり、ラジエルは何も言わなくなった。
「おい、ラジエル! なんだこれ、どうなってーーッ!」
「……ああ、これはいけない」
混乱してラジエルの体を揺らすベリアルを押し止め、ベルゼブルがしゃがみ込んだ。
そうして白亜の像の如く沈黙するラジエルを前に、ため息を吐いた。
「――これは、もう二度と目覚めないかもしれないねぇ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます