8.日輪の鳥

「ああ! やっぱり人の顔面を殴るのって気持ちが良いな!」


 適当な破片に着地すると、ベリアルは晴れ晴れとした顔で拳を握り直した。


「くっ、この……!」


 悪態を吐きつつも翼を俊敏に動かし、マモンは上昇。

 そのまま怒りにこめかみを引きつらせ、ベリアルの立つ破片へと距離を詰める。


「シャアアアアアッ!」


 怪鳥のような叫びを上げ、マモンがベリアルへと襲いかかる。

 空中からの蹴りをベリアルは軽やかに避けた。地面を砕きながらマモンは着地。そのままベリアルめがけてさらに回し蹴りをいれるが、ベリアルは悠々とその足を潜る。


「おいおい、どうした? しっかりしろよ、後輩ちゃん」

「おのれ――!」


 金の瞳を憤怒に燃やし、マモンは更なる追撃をベリアルへと叩込もうとする。

 瞬間、その足元に黒い線が走った。


「くっ、これは――!」


 マモンは突如として現われた線からとっさに離れる。

 直後黒線は牙を剥き、それまでマモンの立っていた場所をざっくりと食いちぎった。


「ベルゼブルの|削ぎ取る絶歯《バアル・ゼブル)――!」

「そぉらよっと――!」


 息をのむマモンに、狂気の笑みを浮かべたベリアルが距離を詰める。

 振り上げられたその踵が、凶悪な円を描いてマモンの側頭部へと叩き込まれた。

 うめき声もなかった。

 マモンはいくつもの破片をその体で砕き、闇の底へと落下する。

 完璧な回し蹴りを決めたベリアルは宙に浮かんだまま、悠々と上空を見上た。


「相も変わらず、物騒な権能だね」

「ぼくの歯に砕けないものはなく、ぼくの胃に溶かせないものはない」


 眠たげな少女の声が、どこか不穏に響いた。

 見上げた先には、地獄と地上の光に王冠を輝かせる悪魔の姿がある。

 魔王補佐――蠅の王にして高き館の主ベルゼブルは、ゆっくりと破片の一つに降り立った。


「そして――ぼくの口は、全てを捉える」


 小さな背中で、六枚の虹色の翼が細かく震える。

 昆虫の翅を思わせる形をしたそれには、髑髏に似た禍々しい模様が浮かび上がっていた。


「遅いぜ、ベルゼブル」

「人使い――というか悪魔使いが荒いよ。誰が地獄の門を開いたと思ってるの」


 不満を示すように、ぶーんとベルゼブルは翅を震わせた。

 その翅で嘲笑う髑髏を見上げた後、ベリアルは次いで下方を見る。


「……これで終わると思うかい?」

「まさか。ここからが本番だよ」


 地獄第二の権力を持つ暴食の大魔は、緩くその左手を横に伸ばす。唸るような羽音とともにそこに多量の蠅が集い――一本の三叉戟を形作った。

 赤黒く光るそれを、ベルゼブルはゆらりと構えた。


「マモンは、欲を満たすためなら――本当に、なんでもやる」


 ベルゼブルが囁いた瞬間、闇が揺れた。


「――おのれ! おのれベリアル……!」

 四枚の翼が空を蹂躙する音がした。

 そして、闇の底から一つの強烈な光が昇ってくる。

 青白い魂の光とは違う――太陽を思わせる、黄金の光。


「おまえのせいだ! 全部全部! お前のせいだ!」


 闇の底から一瞬で駈け上がってきたマモンは、怒りに燃える目をベリアルに向ける。

 一方のベリアルは、今世紀最高の笑顔を浮かべる。


「うん。もっと言っていいよ」

「役立たず! 天の産業廃棄物! バビロンの売女! ソロモンの犬!」

「オーケー、最後の一言だけは絶対に許さない」

「許せないだと! どの口で――ッ、もういい!」


 扇子で鋭く宙を裂き、マモンはそれで顔を完全に隠した。

 黒絹のアラベスク模様の向こうで、金色の瞳が凄絶な輝きを放つ。


「我が財宝で、お前の虚無を押し潰してやる――真化ァ! 真化真化真化ァ!」


 凄絶な叫び声とともに、マモンの霊気が爆発的に膨れ上がった。

 扇子が、宙を舞う。

 その向こうにあったのは、異形のカラスの顔だった。

 頭の周りには金の鬣が取り巻き、六つの瞳がばらばらの方向を忙しなく映す。

 黒い羽毛と豪奢な装身具に包まれた胴体は形こそ人間のそれに近いが、腕は四つ。特に長い腕は、硬質で鋭いブレード状の羽根――刃羽ハバネで覆われている。

 特に異様なのは、その背中だった。

 四つの翼の背後には、邪悪な太陽の如き黒の渦。そこから、無数の影の手が伸びている。


 それが、マモンの真の形。

 大欲の果てに堕ちた――地獄の君主の姿がそこにあった。

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