7.Dispel

 建物が大きく揺れ、壁全体に亀裂が刻み込まれる。カジノ全体から悲鳴が上がり、パニックに陥った客がゲームも放り投げて出口へと詰めかけた。

 喧噪に悪魔達が戸惑う中、マモンは椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がった。


「お前、一体なにをした……!」

「大したことはしていないよ。害獣を放すよう要請した」


 扇子を首元に突きつけられた状態で、ベリアルは涼しげに肩をすくめた。


「害獣だと……ッ!」

「君への嫌がらせさ。君の積み上げたもの、全部めちゃくちゃにしてやりたくてね」


 左頬の紋様を歪めて笑いつつ、ベリアルはマモンの顎をそっと撫でた。

 そしてその耳元に、うっとりするほど甘い声で囁く。


「――ほら。君の巣が壊れるよ」


 壁の一角が吹き飛び、大きな穴が穿たれた。

 そこからドリルの如く旋回しながら現われたのは、粘液にまみれた白い巨体だった。

 頭部らしきところに眼はなく、代わりに鋼鉄の牙が覗く。

 それは甲高い叫びを上げ、別の壁に頭を突っ込んだ。再び高速回転しながら穴の中に潜っていくその白い体に、マモンの顔がさっと青ざめる。


「こ、これはベルゼブルの妖蛆……!」

「品種名は宮殿喰いパレスイーター――好物はコンクリートや金属。ベルゼブルが間違えて万魔殿で逃がしちゃった時の惨状から、その名がついた」


 ベリアルは朗々とした声で、妖蛆の名前を語り上げる。

 その間にもさらに数匹の妖蛆が壁面を突き破り、悪魔達に向かって威嚇の声を上げた。


「撃て! 撃て!」「始末しなけりゃ建物が崩れるぞ」


 ラウムとマルファスは銃口を向け、引き金を引く。

 他の悪魔達もそれに続き、弾雨が壁面の妖蛆へと降り注いだ。

 しかし妖蛆はあろうことかその顎を大輪の花の如く大きく広げ、銃弾を貪り喰らった。


「……あー、下手に金属を与えると、」


 気まぐれにベリアルが忠告しようとしたが、間に合わなかった。

 壁面から一匹の妖蛆が勢いよく飛びだし、近くにいた悪魔の腕へと躍りかかる。


「ひっ、や、やめ――!」「あ、足、足が……!」「く、喰われ――!」


「……こんな感じで餌認定されるから注意しようね」


 ベリアルは首を傾げて、心底愉快そうに笑った。

 壁面がひび割れる。天井から破片が落下する。

 妖蛆が現われては肉と岩塊を喰らい、粘液を撒き散らしては潜っていく。スロットマシンが倒れ、ルーレットが砕け散る。床を濡らすのは悪魔の血と、洋蛆の粘液と――。


「――マモン! マモン! これはどういうことだ!」


 男の悲鳴がサロンに響き渡る。

 倒れ込むようにして、崩壊間近のサロンに駈け込んできたのはジョイスだった。

 黒髪を乱して、彼は強欲の悪魔の足元へと身を投げ出す。


「見ろ! あちこち崩れてる! そしてここは血まみれじゃないか! じきに警察や消防もやってくるぞ! 本当にお前に任せて大丈夫なのか! なぁ、オイ!」

「……えぇ、問題ございませんよ、ジョイス」


 強ばった表情を一瞬で消して、マモンはいつも通り優雅に黒絹の扇子を広げた。

 ジョイスは、泣き出しそうな顔でマモンを見上げる。


「ほ、ほんとか! 本当なんだな!」

「ええ。貴方の差し出した対価分は、きちんと働きますとも」

「……た、対価?」


 一瞬ぱっと笑顔を浮かべたジョイスは、そこで一瞬いぶかしげに首を傾げた。

 それに構わず、マモンは黒絹の扇子で辺りを示した。


「ごらんなさい。地獄の妖蛆が建材を食い散らかしたというのに、この建物はいまだ崩れずにその形を保っている。これこそが我が強欲建築の技術力」

「ま、確かにこの頑丈さは予想外だね」


 穴だらけの天井をベリアルは見上げる。数階上の層まで綺麗に見えた。


「ですからジョイス――貴方は何も恐れなくとも結構。私の力はご存知でしょう? 貴方に危機が及ぶことはない。貴方は今生を幸せに過ごせる」

「お、おぉ……! じゃ、じゃあ、これもなんとかな――」

「――あー、なるほど」


 泣き笑うジョイスとそれを見下ろすマモン。それを見て、ベリアルはうなずいた。


「対価は、来世と家族か」


 その場の空気が停止した。

 聞こえるのは建物が軋む音と、悪魔の悲鳴と、妖蛆の咀嚼音。そんな中でジョイスは笑みを浮かべたまま、ぎこちない動きでベリアルを見た。


「……なんだと?」

「だからさ、この短期間で億万長者になるに能って君が支払った対価だよ」


 マモンは扇子で顔を隠した。

 強欲の悪魔が沈黙する中、ベリアルは淡々と言葉を続ける。


「おおかた君、『対価は支払えない』『おれには危害を加えるな』とかマモンに言っただろ」


 ジョイスは、引きつった顔でうなずいた。

 ヘルフォンを適当にいじりながら、ベリアルは肩をすくめる。


「いるんだよね……そう言って、悪魔をうまいこと騙した気になる奴。確かにマモンは約束を守ったよ。マモンは君からは対価は取り立てない。代わりに――」


 表情を隠したままのマモンに対して、ベリアルはにやりと笑った。


「取り立てられるところから取り立てる。――君、別居中の妻と娘がいるんだっけ?」

「ア、アマンダ……マリー!」


 ジョイスは目を見開き、その名を呟いた。

 直後、彼は凄まじい形相で、小柄な悪魔へと掴み掛かる。


「お、おいどういうことだ! どういうことだ、マモン! 本当なのか、アレが言っていることは! なあ、なんとか言えッ! 言えよ――ッ!」


 マモンは、黒絹の扇子を鋭く払った。

 それだけでジョイスの体は吹き飛び、穴だらけの壁面へと磔になる。


「ウグッ――!」

「……いるんですよねぇ、貴方みたいに契約書の文面をしっかり読まない人」


 打ち付けられた背中の痛みに呻くジョイスに、カツカツと足音を立てて強欲が近づく。

 黒絹の扇子を口元を隠したまま、マモンはジョイスを見上げる。


「――だから騙されるんだよ、バーカ」


 マモンは、扇子でも隠しきれないほどの表情で笑った。

 壁に貼り付けにされたままジョイスは涙を流し、激しく首を横に振った。


「い、いやだ、いやだァ……!」

「安心しろ。お前は約束通り幸福な人生を送る。――けれど、その後はこのマモンのもの」

「うぐ……ひっ、い、いらない……!」

「未来永劫、お前もお前の家族の魂もわたくしのもの……地の果てまで逃げても無駄。自殺しても無意味。どこに行こうと同じこと。お前は必ず地獄に辿りつく」

「や、やだ、幸福なんかいらなッ……せ、せめて家族は……!」

「人は皆、等しく死ぬ。――せいぜい地獄で仲良くすると良い」


 金の瞳を爛々と光らせて笑うマモンに、ジョイスは血を吐くような声で絶叫した。


「……なるほど。まったく君は、地獄有数の悪魔らしい悪魔だ」


 ベリアルは、ポケットにヘルフォンを入れた。

 そして代わりにいつものライターを取りだし、点火する。瞬く間に炎の剣を生み出した彼女は、血と粘液に濡れた床の上で灯芯剣を払った。


「ま、その新事業もここで幕引きだけどね」

「あら、先輩? お忘れですか? わたくしは地上では神にも等しい存在」


 笑うマモンの背中に、黒い翼が広がる。

 カラスを思わせる艶やかな翼が二対。それをばさりと動かして、マモンは扇子を揺らした。


「現に先輩の炎すら、私には届かなかった。……勝てるとでもお思いですか?」

「確かに、富の名を頂く君は無敵だろう。まぁ、それも――」


 鈍い音が響いた。

 妖蛆によるものとは明らかに違った種類の音と震動によって、建物全体が揺れた。

 そして――かすかな硫黄のにおいが漂いだした。


「地上だけの話だけどな!」


 ベリアルが凄絶に笑ったその瞬間、地面が赤く輝き始めた。

 はっとマモンが地面を見下ろす。そこにはいつの間にか、地獄への入り口を示す深紅の紋様が刻み込まれている。それがほのかに、光を帯びていた。


「しまった――!」

「さよなら、合衆国!」


 マモンの悪態と、ベリアルの高笑いが交差する。

 直後、地面が炙られた蝋の如くどろどろと溶け落ちた。

 壁に磔にされたままのジョイスが悲鳴を上げ、少しでも地面から離れようと身をよじる。

 地面の先に広がるのは、地獄の浅瀬だ。

 宇宙を思わせる広大な闇に、バベルの塔の名残であるいくつもの破片が浮かぶ。そうしてそこには地上で死んだ魂達が青白く輝き、地獄へと沈みつつあった。

 マモンは、その只中へと落とされた。


「くっ――よくも……!」


 バランスを崩しつつもマモンは翼を広げ、どうにか飛行を試みる。

 そして体勢を立て直したその、眼前に。


「――ようこそ、地獄!」


 ベリアルの嘲笑が――そして、彼女の拳があった。


 防壁は、なかった。

 ベリアルの拳は阻まれることなく、マモンの顔面を殴り飛ばした。

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