6.最終通告
ジョイス・インペリアル・ホテル――。
いかにも成金趣味なその建物は、火山を背景にして存在していた。三十五階建てのそれは、黒檀と金で作られた背の高いパズルのようにも見える。
「……あの火山、ずいぶん静かだな」
「とても穏やかな火山みたいよ。噴火しても、間近で観察ツアーができるんですって」
ヴァニティーの車内でラジエルが答え、そしてホテルに目を向けた。
「……ここに、本当にマモンがいるの?」
「いるかもしれないね」
「ちょっと……確証はないの?」
ウィンドウから顔を出すラジエルに、ベリアルは肩をすくめた。
「なんせジョイス・リゾートが所有している建物、街中にあるからね。でも、ここがジョイスが持ってる中だと一番立派な場所だ。それに、いくつか変な噂もある」
「変な噂?」
「ああ。――ここの客は、失踪者や自殺者が多いって噂だよ」
「それは……剣呑な話ね」
ラジエルが眉を寄せ、こめかみに手を当てる。
「ここに限らず、ジョイスの客にはそういう奇妙な出来事が起こるって話だ。でも、公にはならない。なにか大きな力が働いている――まるで悪魔のような大きな力が、ね」
ベリアルは薄く笑いつつ、キャンディーケースをポケットから取り出した。
赤いキャンディを口に放り込み、ラジエルに視線を向ける。
「……じゃ、私は行ってくるから。大人しくしていてね」
「努力するわ。よほどのことがない限りここで待機してる」
「よほどのことは起きないから。大人しくカーステレオで音楽でも聴いていなよ」
「どんな時でも最悪のことを想定しておくべ――」
「ヴァニティー、窓を締めて。あとロック」
低い唸り声が答えた。
同時に独りでにロックがかかり、ウィンドウが上がっていく。
ラジエルは目を見開き、ウィンドウに縋り付いた。
「ちょっと! 話を聞――!」
ウィンドウは閉められた。もはやラジエルの言葉は聞こえない。
ふてくされた顔の天使をにんまりと見つめてから、ベリアルは彼女に背中を向けた。
「――じゃ、いってくる」
* * *
金と黒に彩られた玄関ホールには、かすかに甘い香りが漂っていた。
建物内は、いかにも強欲の悪魔が好みそうな絢爛豪華な装飾で飾り立てられている。
頬の紋様を撫でつつ、ベリアルは建物のマップを見る。
「レストラン、ビリヤード、プール、フィットネスジム……なるほど、なるほど」
隅々まで構図を確認した後で、ベリアルは地下へと向かうエレベーターに滑り込んだ。
ジョイス・インペリアル・カジノ――。
そこは敷居が低いカジノで、申請さえすればほとんど誰でもVIP会員になれるという。
「あら、そうなんですか? それじゃカジノとしての格が下がるのでは?」
「そんなことはない」
たまたまエレベーターで乗り合わせた恰幅のいい男は首を振った。
「皆、このカジノを運営するジョイス氏と仲良くなりたいんだよ。彼は確かに貧しい生まれだが、いろんなところに顔が利くし……なにより、心を惹きつけるなにかがある」
「そんなに魅力的な方なんですね」
猫を被ったままベリアルが薄く笑ったところで、エレベーターの扉が開いた。
同時に、あの甘いにおいがいっそう強く漂うのを感じた。
バカラ、ミニバカラ、ルーレット、スロットマシン――色とりどりの明かりの下で繰り広げられるのは、どこにでもありそうなゲームの数々だ。
どこかにステージがあるのか、ブラス・バンドの生演奏が微かに聞こえる。
中央には大きな円形のバーカウンターがあり、休憩中の人々がそこで喉を潤していた。
「……ふうん」
さりげなくコーラの瓶を一本盗み取りつつ、ベリアルはあたりを見回す。
緑の瞳には、人間とはまた違った風景が映っていた。
「……犬みたいだな」
固唾を飲んでスロットを回す人々。ルーレットに一喜一憂する人々――。
カジノで遊ぶ人間達は、いずれも鎖と首輪をつけていた。恐らく肉眼では見えないそれの先は、全て更なる地下へと続いている。
「……パクリじゃないか、これ」
「――お気に召していただけました? わたくしのカジノ」
ベリアルがわずかに眉をひそめたその時、背中に声が掛けられた。
「お早いおでましだね」
聞き覚えのありすぎる声に、ベリアルは肩をすくめる。
振り返った先には、マモンの姿があった。背後には、ラウムとマルファスが控えている。
「パラダイス・ロストを出てから、ずっと私を張っていたね」
「すみませんね、あまりにも無警戒に外出なさるもので――ここじゃなんです、こちらへ」
マモンに促され、ベリアルは席を立った。
ベリアルの前にはマモンが立ち、背後にはラウムとマルファスが続く。
「……VIP会員の申請書かなにかに、悪魔との契約書を仕込んだね?」
歩きながらベリアルは、周囲の人間達の首から伸びる鎖を指さした。
「ここの会員は全員、知らないうちに君と契約した。君が与えるのは賭博の幸運と刺激。そして会員である人間達が、対価として君に与えるのは――魂」
ベリアルは、背後のスロットマシンを顎でしゃくった。
「対価はゲーム中に支払われ――いや、正しくは削り取られる。地獄製の遊戯道具によって、人間達は知らない間に霊魂を少しずつ持っていかれる」
トランプ、ルーレット、サイコロ、スロットマシン。
悪魔の造り出した道具で遊ぶたび、人間達は知らず知らずのうちに魂を切り取られていく。
自らの寿命を差し出しているとも知らず、人々は一夜の享楽に酔い痴れる。
「切り取った魂を集めて、燃料にしているわけだ」
「あらあら、先輩ったら。燃料以外にも、人間の魂にはいろいろな用途があるんですよ」
「ふん……ここの客に不審死が多いってのはそういうことか」
「不審死なんてとんでもない――ちゃんと不自然のないようにしていますよ」
悪魔の一行はカジノの、さらに奥まった区画へと足を踏み入れた。
ムスクのような甘いにおいが強くなるのを感じて、ベリアルはわずかに眉を寄せた。
そこは、どうやらサロンのような場所らしい。
赤いビロードの椅子や、質のいいオークのテーブルなどが揃っている。そのテーブルの一つに、ベリアルは見覚えのある硝子瓶を見つけた。
「うへぇ、ウルトラキッドじゃないか……あんな泥水を飲む奴がいるのか」
「確かに理解できませんよね、これ」
マモンは通り過ぎざまに、超高機能滋養強壮山羊乳の硝子瓶を手に取った。
その色鮮やかなラベルを見つめて、彼女は鼻で笑った。
「味もそうですが、趣旨も理解不能です。売り上げを寄付だなんて――ぞっとします」
マモンはわざとらしく身震いして、見もせずにそれを後ろに投げる。ラウムが即座に手を伸ばしてそれを受け取ると、自らのポケットに納めた。
やがて、一行はサロンの最奥にたどり着く。
ベリアルがざっと周囲を確認すると、そこでくつろぐ人々の首には首輪も鎖もなかった。
「特別なお客様しかここにお呼びしないんですよ」
最奥に用意された椅子に、マモンは腰掛けた。
すかさずラウムとマルファスが近づき、マカロンとマティーニとを恭しく差し出した。
「……養分じゃない奴らってわけか。なるほどね」
マティーニに口を付けるマモンを、ベリアルは冷えきった目で見つめた。
「このにおいからすると……アスモデウスの力も使ったね? 人をなにかの中毒に落とすのはあいつの得意分野だ。アスモデウスの権能で客寄せして、そうして軽度のギャンブル中毒に落とし、魂をじわじわと搾り取る。――それが、ここのからくりだろう」
「さすがは先輩です。この短時間でそこまで見抜くとは」
「だってこれ、私がソドムとゴモラでやったことのパクリじゃないか」
古代都市ソドムとゴモラで、ベリアルは様々な悪徳を広めた。
これによって街は大いに乱れ、人々は堕落し、ついには神の怒りに触れることとなった。
焼き付けられた左頬の紋様に触れつつ、ベリアルは軽く後輩を睨んだ。
「二番煎じとか恥ずかしいと思わないのか?」
「二番煎じなんかじゃありませんよ。あの頃はルーレットなんてなかったでしょう? それに貴女はアスモデウスの権能を使っていなかったはず」
マモンは一瞬不快そうに顔を歪めたものの、すぐに花の咲くような微笑を浮かべた。
組んだ指先の上に顎を乗せ、かわいらしく首をかしげる。
「さァ――先輩? わたくし、寛容ですから、もう一度チャンスを差し上げます」
「チャンス? なんの?」
「地獄に帰っていただけません? 正直、こんな場所でことを荒立てたくはありません」
ベリアルは、スーツの裏に手を差し込んだ。
途端、周囲から鈍い音が響いた。視線だけで辺りを見ると、それまで談笑を楽しんでいた紳士淑女が一斉にベリアルに銃口を向けていた。
その手に握られているのは、いずれもカラスの装飾が憑いた悪魔の銃だ。
「ここはわたくしの巣ですよ?」
黒絹の扇子を優雅にひらめかせて、マモンは密やかに笑った。
「やっぱり……全員悪魔か」
「ええ。先輩といえど、我が強欲重工最新作の魔弾を喰らいたくはないでしょう? 今度は風穴では済みませんよ? そして逃げることも不可能」
マモンは申し訳なさそうに笑いながら、香水瓶を取り出した。
繊細な硝子と金属で作られたその中には、血のように赤い液体が揺れている。
「これはアスモデウスの血を元に作った香水です。これと同じものを、ホテル中に散布いたしました。……彼女の権能はご存じですね?」
「精神を支配する……条件は、アスモデウスの存在を五感のいずれかで認識すること」
香水瓶を揺らすマモンを、ベリアルはじっと見つめた。
「その通り。私はちょっとした取引で彼女から権能を一部拝借しております。これで、すぐにでも貴女を屈服させることが可能です。――さぁ、最後通牒です」
マモンはぱちんと扇子を閉じた。
それがまっすぐに自分を示すのを、ベリアルは黙って見つめる。
「――地獄に帰れ、ベリアル」
ベリアルはマモンを見つめ、周囲の悪魔達を見た。
そして――肩を震わせて、笑い出した。
「くくくくくっ……! 惜しい、惜しいねぇ、マモン。でも、まだ甘いよ」
「……何?」
マモンが、金色の瞳を細める。
周囲の銃口に構わず、ベリアルはゆっくりとスーツに差し込んでいた手を抜く。
そこに握られていたのは、いつものガスライターではなかった。
「いつもそうだ。君は事業が軌道に乗ると、調子に乗りだす」
ベリアルは、ショッキングピンクのヘルフォンをマモンに見せる。
画面には、『やれ』のメッセージ――送信済み、既読付き。
「そして、致命的なミスをする」
瞬間、轟音が不夜城を揺るがした。
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