Ⅲ.ヴァニタスの彼女
1.ヘルプミー・ベルゼブル
翌朝――自室のベッドの上で、ベリアルはあぐらを掻いて座っていた。
スーツを脱ぎ、シャツとズボンというラフな格好だ。二色の髪を軽く括り、組んだ足の上には『通信待機』と表示されたノートパソコンを載せている。
「……まだ寝てるのか、あいつ」
コーラを飲みながらぼやく。ちょうどその時。画面が切り替わった。
画面に現われたのはベルゼブルだった。ナイトキャップを被り、眠たげな顔をしている。
「……なぁにぃ? いま、寝てたんだけどぉ」
「さすがにもう起きろよ。じきに昼だぞ」
「最近は夜に行動できないからさぁ、生活が乱れがちなんだよねぇ。――それで? わざわざ連絡をよこしたってことは、なにかあったわけぇ?」
「ああ、実は……」
ベリアルは、それまでの経緯を簡単に話した。
ベルゼブルはほとんど目を閉じていた。しかし時折何度かうなずき、相槌を挟む。
そうしてベリアルが話し終えると、紫の瞳を開いた。
「……マモンかぁ。道理でねぇ。ぼくをつけてたのも、マモンのカラスかぁ」
「気になるのはあいつの目的だ。地上で何をしているんだ?」
「ぼくに聞かれてもなぁ」
ベルゼブルは画面外に手を伸ばすと、大きなアイスクリームを引っ張り出した。
「ただ、本当にマモンが絡んでるんだったら厄介だねぇ」
ストロベリーアイスを小さなシャベルで掬い、ベルゼブルは肩をすくめる。
「知ってる。あいつは地上だと敵なしだ。なんせ――」
「――人間社会が財貨を中心に回っているから、よね?」
突如割り込んできた声にベルゼブルが目を丸くし、ベリアルはばっと振り返った。
自室のドアがいつの間にか開き、腕を組んだラジエルが立っていた。
細い体をバスローブに包んでいる。さっきまでシャワーを浴びていたのか、白い髪はしっとりと濡れ、かすかに石鹸の香りがした。
「おい。君、もう少し休んでおけって……」
「『マモン』という言葉は、本来『富』――特に、不正に得られた富を示す」
ベリアルを無視して、ラジエルはつかつかと部屋の中に入ってきた。
顔色は、幾分か回復しているように見えた。しかし、それが本当に回復したのか、入浴の上気によってそう見えているだけなのかは判断がつかない。
ラジエルは当然のような顔でベッドに腰掛け、しなやかな足を組む。
「地上は人間の世界。そして人間は財貨を尊び、財貨なくして生きることはもはや不可能になっている。――これは即ち、人は富を神として崇めていると見なすことができる」
「……なんだか講義が始まってしまったぞ」
「知りたがりって教えたがりでもあるからねぇ」
ひそひそと会話する悪魔達をよそに、ラジエルは考え込んだ。
「『神と富の二つに仕えること能わず』――戒めのためにあるこの言葉もまた、富を神格化していると言えるかもしれない。そして、その名を持つマモンは恐らく……」
「……神格化の影響を一部受けている」
ベリアルは渋い顔で答え、赤と青の髪をぐしゃりと掻いた。
「だから厄介なんだよ。マモンは地上にいると、『金銭的価値のあるもの』に向けられた欲望や羨望を自らに向けられた信仰として力とすることができる」
「たいていの悪魔はさぁ、地上に出れば力に制限がかかるんだよねぇ……」
うとうとと頭を揺らしつつ、ベルゼブルが言葉を継ぐ。
「でも、マモンだけは強化される。少なくとも人間が、なにかに価値を感じて、なにかを欲する心を持つ限り……地上においてマモンの力が弱まることはなぁい……」
「せめて、ここが共産主義国家だったらな」
額を抑えるベリアルを、ラジエルはなんともいえない顔で見つめた。
「……共産主義国家だったら、どうなっていたの?」
「マモンのテンションがちょっと下がる。――そして面倒なのはマモンだけじゃない」
「クリーチャーだよねぇ。どんな感じだったのぉ?」
アイスをたっぷりと掬ったシャベルを舐め、ベルゼブルが深くため息を吐いた。
「妙な化物だったよ」
サイドテーブルへと手を伸ばし、ベリアルは新しいコーラの瓶を手に取った。
奇妙な挙動。子供のような声。
そして体表でうごめいた人の顔――ベリアルは首を横に振った。
「どうにも気持ちが悪かった。生理的に受け付けない。初めての感覚だよ。なんだか、あるべきでないものを見ているような――」
「実際、あれはあるべきでないものだわ」
その言葉に、ベリアルはラジエルを見る。
ラジエルはひどく険しい顔で、親指の爪をかみしめていた。
「私も、あんなものは初めて見たわ。でも、あれが地上にいることが許された存在でないことだけは本能で理解しているの」
「……そういえば、君はあの時一体なにをしたんだ?」
親指の爪を噛みながら考え込むラジエルに、ベリアルはたずねる。
ラジエルはきょとんとした顔で、首を傾げた。
「なにをした、とは?」
「
「ああ……私が、かつて天地の全てを記述した天使だと言うことは知っているわね」
「もちろん」
ベリアルはうなずくと、ラジエルは一瞬迷うようなそぶりを見せてから右手をあげた。
その掌の上に、不可思議な青い天使文字が浮かび上がる。
「私は地上を調べ上げ、神に奏上した。……それこそが、我が
「――地上の万象を規定する法典だよ」
答えは、意外なところから返ってきた。
ベリアルが視線を向けると、画面の中のベルゼブルはアイスを食べ終えたらしい。
よだれかけで優雅に口元を拭い、暴食の悪魔は一息ついた。
「『天使や悪魔は地上では力に制限をかける』――この原則を定めたのも
「……つまり、規定されていない事柄が起きたら」
ベリアルは、ラジエルへと視線を戻す。
「――【校閲】される」
ラジエルは軽く掌を動かし、青い天使文字を踊らせた。
「現時点で書に規定されたものには、いかなる改竄も認められない。地上にあるべきでないものは却下され、存在を修正される。――私は、その権限を持っている」
「なるほど。その物騒な力で、クリーチャーの攻撃を防いだのか」
ベリアルは薄く笑って、コーラをごくりと飲んだ。
「すごいな、チートじゃん。それを使えば、マモンだって――」
「……そんなに甘い力じゃないんでしょ」
画面から、ベルゼブルの冷めた声が響いた。
紫の瞳を細め、暴食の悪魔は感情の読めないまなざしでラジエルを見つめている。
「そんなに自由に使える力なら――多分、悪魔なんてこの世にいないよ」
「……えぇ、そうよ」
ラジエルは、深くため息を吐いた。憂いの滲むため息だった。
「今は翼を失ったことで、この書の力を完全には使えない。それに、元々私に許された校閲範囲は限られているの。因果律に反する修正は許されないし――」
白い掌がゆるく握りしめられる。
それでも、青く光る神秘の文字はラジエルの手の上で浮遊していた。
「――失った命を戻すことさえ、許されない」
物憂げに囁くラジエルの顔を、ベリアルは黙って見つめた。
「……マモン達と戦うのに、それを使うのはやめたほうがいいね」
画面の中で、ごそごそとなにかを漁る音が響きだした。
視線を向けると、ベルゼブルは今度はポテトチップスの袋を抱えていた。
「ラジエルは満身創痍だしぃ……なにより今回は相手がマモンだからねぇ」
袋をこじ開け、ベルゼブルはのんびりとチップスを口に運ぶ。
「失礼ね。私の一体どこが満身創痍だというの」
「大人しくしてなよ、羽根無しちゃん」
素っ気なく言って、ベリアルは渋い顔で頬杖をついた。
「マモンのことだ。おそらく狙いは金儲けだろうね」
「ンアー、多分ね。困ったものだよ。でもあれはあの子の本質だからさぁ」
ベルゼブルがうんざりとした様子で、画面の向こうで椅子をぎこぎこと揺らした。
赤と青の髪をいじくりながら、ベリアルは思案にふける。
「価値あるものの全てを無限に欲し、永久に求める。それがマモンの欠陥であり、本質……本当にバカみたいだな。救いようがない」
「……同じ堕天使なのに、ずいぶんな言いようね」
ラジエルは丸く青い瞳を見開き、首を傾げる。
ベリアルは掌を上に向け、うつろな笑みを浮かべてみせた。
「同じ? 違うよ、私とあいつは本質的に別物だ。……私の本質は虚無。形あるものは必ず無に還る。永劫の虚無だけが、変わらずに存在する」
ベリアルは囁く。
不気味な弧を描く赤い唇の向こうには、黒々とした闇が覗いていた。
笑う虚無の姿を、ラジエルは黙って見つめる。
「外装を取り繕っても所詮はがらんどう……だから、なにかに固執する連中が私にはどうにもバカみたいに思えてならない。いつか全部無に還るのにさ」
「――そうかしら」
ベリアルは、笑みを消した。
無表情のベリアルを、ラジエルはまっすぐに見つめる。
「生物が死ねば屍が残る。屍が崩れれば、土へと還る。そして魂もまた、天界にいけなければ形を変えて地上へと戻る。完全な虚無というものは、存在しないわ」
「……それは君が完全な虚無を知らないから言えるのさ」
ベリアルは笑い、肩をすくめる。あらゆる干渉への拒絶を秘めた微笑だった。
しかし、そんなニヒルな笑いはラジエルにはまったく効果がなかった。
「完全な虚無って何? 教えて」
「えっ」
ベッドに手と足をつき、ラジエルはベリアルに距離を詰めた。
未知の対象を見つけた叡智の天使の瞳は、さながら飢えた狼のようだった。
「ちょっと、何? ――やめろ。近づくな」
「物質は完全には消滅しない。魂だって同じこと。――その法則を否定する『虚無』という存在を、貴女は知っているというのでしょう」
「そりゃ、知っているけど……来るなったら。それ以上近づくな」
「ねぇ、教えて。貴女の言う虚無って何?」
じりじりと後ずさるベリアルはついにヘッドレストまで追い詰められた。
しかしラジエルは、なんの躊躇も容赦もなくベリアルの足の間に自分の体をねじ込む。そうして細い手でベリアルの肩を掴み、壁へと押しつけた。
好奇心に爛々と光る青い眼が、吐息がかかるほどの距離から見つめてくる。
「ねぇ、答えて。それは貴女の権能に関係があるの? ねぇ――ねぇったら」
「……助けて、ベルゼブル」
「ンー……これは珍しい風景だねぇ。ベリアルが追い詰められている」
引きつった顔で助けを求めるベリアルに、暴食の悪魔はのんびりと頬杖をついた。
「微笑ましいねぇ。まるで姉妹のようだねぇ」
「悪趣味な冗談はやめろ。私に姉なんかいるものか。――ほら、もういい加減にしろ」
隙を突き、ベリアルはラジエルの両脇に手を差し込んだ。
捕獲された猫のような表情で、ラジエルはベリアルの横に移動させられた。
「……なにをするの」
「こっちのセリフだよ。――ともかく、問題はマモンとクリーチャーだ」
ラジエルをそれとなく腕で牽制しつつ、ベリアルはノートパソコンを引き寄せる。
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