10.エンカウント
「いやー、ベレトには本当に悪いことをした」
涼しい顔で言いながら、ベリアルはヴァニティーの上で足を組む。
その下で助手席のウィンドウが開き、目を閉じたままのラジエルが顔を出した。
「一体、なにをしたの?」
「ソロモンの指輪でマモンをおびき寄せたのさ」
ポケットからコンパクトを取りだし、ベリアルは悠々と化粧直しを始めた。
「マモンは満足すると、一瞬だけ隙ができる。そこを突いて目潰しだ」
「……餌に使ったのは、貴女の小円環?」
「自分の支配権を他人に渡すわけがないだろう。あれは昔なんとなくパクッておいたベレトの|
「つ、つまり貴女、まったく無関係な他人の支配権を……」
「……あ、言い忘れてたけどもう目を開けていいよ。あと、顔を引っ込めておきな」
律儀に目を閉じたまま絶句するラジエルをよそに、ベリアルは前を向く。
ヴァニティーのボンネットの上で、黒い羽根が渦巻いた。
「きさま……ベリアル! よくもボスを――!」
瞬間移動してきたらしいラウムが、ヴァニティーのボンネットに立つ。
ベリアルはコンパクトを閉じた。
「よう、ラウム。粘るねぇ」
「ソロモンに隷属させられていた同胞とはいえ、容赦はせんぞ――!」
ラウムは低い声で唸り唸り、持っていた軽機関銃の銃口をベリアルへと向けた。銃身に施された禍々しいカラスの装飾が、赤く目を光らせている。
「……同胞? 私は、お前達のことを同胞だと思ったことは一度もないなぁ」
ベリアルはくつくつと喉の奥で笑って、緑の瞳を細めた。
「まぁ、いい――軽く囓ってやれ、ヴァニティー」
瞬間、ヴァニティーのボンネットが弾かれたように開いた。
軽機関銃が吹き飛ぶ。バランスを崩し、ラウムは一瞬路面へと落ちかけた。
「ぐぅ、この程度――ッ!」
跳ね上がったボンネットの端にとっさにしがみつき、ラウムはどうにか落下を免れた。
そうして、ゆるゆると顔を上げたラウムの前にあったのは口だった。
「は――?」
ボンネットの中――本来ならエンジンがあるべき場所には、闇が満ちている。
そしてそこに鋭い牙を備えた口が、無数に。
竦む悪魔を前にして口は舌なめずりをし――そして、襲いかかった。
凄絶な悲鳴が迸った。肉の裂ける音ともに、ひびだらけのフロントガラスが真紅に染まる。
「……なに、これ」
車内のラジエルは青ざめた顔で、血に濡れたフロントガラスを見る。
その時、運転席側のドアが独りでに空いた。
「あらよっと」
思わず身をすくめるラジエルをよそに、天井からベリアルが滑り込んでくる。
ドアを閉め、ベリアルは軽くハンドルを叩いた。
「ほら、ちょっとは小腹が満たされただろう。仕事しろ、ヴァニティー」
得体の知れない獣の声がそれに答えた。
ヴァニティーはさんざんラウムを食いちぎったところで、それを無造作に放り捨てた。
闇が集束し、ボンネットが再び閉じる。
それと同時に、奇妙な変化がヴァニティーに起こった。
フロントガラスの血――そして、亀裂が溶けるように急速に消えていく。外層に開いていた穴も見る見るうちに塞がり、ヴァニティーは新品同様となった。
ベリアルがアクセルを踏み込む。快調なエンジンの音がそれに答えた。
「おおっ、ゴキゲンだね」
「ねぇ……この車なんなの? 中に一体なにを飼っているの?」
「おっと、もう追っ手が来た」
ラジエルの詰問を涼しい顔で無視して、ベリアルはミラー越しに背後をうかがう。
イエローの高級車が、猛スピードで追い上げつつあった。
「やっぱり目潰しが限界か。思ったより回復が早いね」
「どこかで撒ける?」
「正攻法じゃ難しそうだ。――あいつ、手下のカラスまで使いだした」
見上げた夜空には、無数の黒い点が浮かんでいる。うねるように飛び、不吉な声で鳴き交わすそれは、マモンが使い魔として用いる地獄のカラス達だ。
「この分だと、ベルゼブルを追跡してたのもマモンのカラスか。やれやれ」
「やれやれじゃないわ。しっかり考えて」
「考えてるよ、頭デッカチちゃん。――実はさっきから、ある装置を起動してるんだが」
ベリアルは、ちらと車のインパネ部分を見る。
奇妙なモニターやメーターが無数に並ぶその中に、小さな羅針盤のような装置があった
『GAAP CIRCLE』と記されたそれは、弱々しい光を放っている。
「なにぶん久々に使うんでね。起動――というか、多分アップデートに時間が掛かっている」
「電子機器は小まめに起動しておかないと壊れるわよ」
「耳が痛いねぇ。とりあえず起動さえすればこっちのものだ。それまで時間を――」
「時間を稼ぐのね、わかったわ」
「は?」
ベリアルが状況を理解する前に、ラジエルは勢いよくドアを開けた。
「うわっ、おい! 撃たれるぞ!」
ベリアルの警告をよそにラジエルは片手でドアの縁を掴み、器用にバランスを取った。
そして、猛追するマモン車にばっと掌を向ける。
「ラファエル様直伝――水の奇跡!」
瞬間、ちょうどベリアル達が通り過ぎた場所に合った消火栓が異音を立てた。
真っ赤な栓が吹き飛び、同時にそこから洪水のように水が噴き出す。スピードを落とさずに突っ込んだマモン車は、濡れた路面の上で派手にスリップした。
そのまま速度を緩めずに、近くに積み上げられたスクラップの山に突っ込んだ。
「これは地上のものを利用して起こす霊威だから、消費するのは少量の霊気で済むの」
呆気にとられるベリアルをよそに、ラジエルは涼しい顔で座席に戻った。
「……奇跡で事故を起こすのは天使としてどうなの?」
ベリアルは親指で、後方を軽く示してみせる。
どうやらガソリンが引火したらしく、マモン車は派手な爆発を引き起こしていた。
「非常事態よ。ここに人間はいないし、これくらいの規模なら修復作用で簡単になかったことになるわ。神もきっと許してくださる」
「天使ってたまに悪魔以上に容赦がないな……まぁ、そういうところ嫌いじゃないけど」
その時、奇妙な気配が空気を揺らした。
半笑いで事故現場を見ていたベリアルは目を見開き、あたりに視線を向ける。
「……なんだ?」
景色に変化はない。人気のない街には、寂しい廃工場が並ぶばかり。
けれども――なにかが違う。
「……いやな感じがするわね」
「ああ……なんだろうね。感じたことのない気配だ」
たとえるならば、突然集団の中に放り込まれたような感覚。あるいは得体の知れない無数のなにかが、自分を見ているような居心地の悪さ。
そんな不快感に、ベリアルは自然と眉間に皺を寄せる。
「ええ……しかも、どんどん近づいてき――」
ラジエルが言葉を終える前に、視界が不自然に明るくなった。
地響きとともに、目の前に巨大な影が降り立つ。
ベリアルはとっさに急ブレーキを踏みこみ、なんとか衝突は免れた。
「あ、あれは……!」
反動に振り回されつつも見つめた先に、ベリアルは不気味なほどに青白い体を見る。
小山のような巨体だった。
表皮は人間の皮膚に質感が似ていて、ところどころに青く光る縫い目があった。
あちこちに派手な色の布を纏い、つるりとした頭部にはフードのようなものを被っている。
わずかに覗いた顔には、古代の神を模したような白い仮面が嵌めこまれていた。
「クリーチャー……!」
ベリアルはその名を呟く。
発達した両腕をクリーチャーは地面に叩き付けた。仮面の向こうに見える目はぎょろぎょろと、見当違いな方向をにらみ続けている。
「よりによってこんな時に現われるとはね」
「どうするの」
「相手してられるか。ここは逃げる」
引きつった顔で笑いながらベリアルはアクセルを踏み込む。
咆哮とともにヴァニティーが急発進。道路の中央でキャアキャアと異様に高い声で喚くクリーチャーを綺麗に避け、漆黒のスポーツカーは闇を猛進する。
「逃げきれるの?」
「逃げ切れる。グレムリンを使うんだ」
「グレムリン? たしか、機械にいたずらをする妖精のことよね?」
「ああ、あいつらから名前を取った装置だよ」
ベリアルは、片手でインパネ部分のいくつかのメーターを操作し始めた。
「正式名称は交通事故誘導装置。地上じゃ機能制限されてるけど、これを使えば半径三キロ以内のあらゆる輸送機械を運転する人間の脳に干渉することができ――」
「この莫迦! ひとでなし!」
「うわっ、なにをするんだ!」
ラジエルがベリアルの手首を掴み、その手をさらにベリアルが振り払う。
「どうせ修復作用でリセットされるんだから良いだろう!」
「このおたんこなす! 修復作用は万全じゃないって何度言えばわかるの!」
「こんな時に天使様のご高説はやめろって!」
「たとえどんな状況でも人の子を脅かすわけにはいかない!」
「この莫迦天使が! 昔っから石頭なんだから! 今は手段を選んでいる場合じゃ――いたたたたッ! こら! 神秘の天使が噛みつくな!」
――背筋に寒気が走った。
ラジエルを引っぺがしたベリアルは手を止めて、あたりを見回す。
「なんだ……? なにか空気が――」
「ベリアル! 横!」
ラジエルが血相を変える。その視線は、運転席の窓に向けられていた。
ベリアルは、ラジエルの視線の先を見た。
真っ白な仮面があった。
血の気が引く。考えるよりも早くベリアルはハンドルを切った。唸り声とともに大きく横に逸れる車体を掠め、青白い巨腕が路面に亀裂を刻み込んだ。
「思ったよりも速い――!」
舌打ちするベリアルをよそに、追跡を続けるクリーチャーはけたけたと奇妙な声で笑った。
「どうする? このまま振り切れるかしら」
「振り切らなきゃ行けないんだが――」
ミラー越しに、クリーチャーの巨体が沈み込むのが見えた。
直後、軽い地震を起こしながらクリーチャーは跳躍。一瞬、ベリアル達の視界から消える。
けれども、その消失はごく短時間で終わった。
轟音――クリーチャーは近くの工場を踏み潰しながら、ベリアル達の前方に降り立つ。両腕を広げ、けらけらと笑いながら道を塞ぐさまはタチの悪い子供のようだった。
ベリアルはブレーキを踏み込んだ。
反動で大きく前に揺れるラジエルの体を押さえつつ、ざっと周囲に視線を巡らせた。
一本道――視界良好――廃工場――倉庫跡――周辺の地形を確認しつつ、インパネを見る。
羅針盤の光は、まだ淡い。
「壊れてるのかい?」
毒づいたその時が、視界が唐突に明るくなった。
クリーチャーの片手に、青い光球が出現していた。ばちばちと電光を弾けさせながら膨れあがるそれは、どう見ても凶器というほかない。
「ちっ――面倒だな。一旦下がるよ、ヴァニティー」
愛車をバックさせようとしたその時、嫌な寒気を感じた。
見ればクリーチャーは光球を掌に転がし、けたけたと笑っている。その青白い肌がぼこぼこと泡立ち、人間の顔のような形を無数に浮かび上がらせていた。
男、女、老人、子供――いずれの顔も、断末魔の叫びをあげているように見えた。
「なんだ……?」
恐ろしいものも、グロテスクなもの――どれも見飽きるほどに見てきた。
けれども目の前で蠢くそれは、なにかが異質だった。
正体のわからない生理的嫌悪感に、ベリアルは思わず思考を止める。
その一瞬の停止が、大きな隙をもたらした。
我に返った時には、クリーチャーは奇声とともに二つの光球を投擲していた。
視界が青く染まる。得体の知れない気配が迫ってくる――。
「――
澄んだ声が隣で響き渡る。同時に、ガラスの砕け散るような音が夜闇を揺らした。
そうして――まばたきした時には、眼前に迫っていた光球は消失していた。
「なっ――」
静寂を取り戻した廃工場の群れを見回し、ベリアルは驚愕の声を上げる。
その耳に、小さくせき込むような音が聞こえた。
「――地上には、本来私達のようなものが存在してはならない」
かすれた声とともに、ラジエルがドアを開けた。
ベリアルが静止する間もなく、彼女はふらふらとした足取りで外に出た。
「あってはならないものは、修正しなければならない――こんな風に」
かすれた声が空気を震わせるたび、口元から血が零れる。
今にも倒れそうなラジエルの姿に、しかしクリーチャーはたじろいだ。
青白い巨体がびくりと震える。か細い声とともに、クリーチャーは身を縮める。
未知の怪物は、明らかに怯えていた――死にかけの天使に。
「お前が一体なんなのか、私にはまったくわからない……でも、お前がここにあってはならない存在だということはわかる。本能が理解している……」
ラジエルが、ゆらりと顔を上げる。
ヴェールのようにかかった白髪越しに、凄絶な光を宿す青い瞳がクリーチャーを睥睨した。
血に濡れた唇を吊り上げて、ラジエルは威嚇するように笑った。
「さぁ、かかってきなさい。――私には、お前を【校閲】する義務がある」
血に濡れた手が、クリーチャーめがけて伸びる。
クリーチャーは泣き喚くような声で吼え、両手で地面をたたいた。
地響きとともに、その巨体が空へと舞い上がる。
「あいつ、逃げるのか……!」
空を泳ぐようにして飛ぶクリーチャーを、ベリアルは驚愕の表情で見る。
そして、気づいた。――ある廃工場の影に停車していたマモンの車が、クリーチャーを追うようにして急発進するのを。
「どういうことだ、あいつ……」
その時、視界の端でぐらりとなにかが揺れた。
「ラジエル!」
ラジエルの体が地面に崩れ落ちるのを見て、ベリアルはとっさにドアを開けた。
駆け寄り、抱き起こす。ぐったりと瞼を閉じた顔は、初めて会った夜のように青白かった。
「……この天使様は命を削らなきゃいけない呪いにでもかかっているのか……」
ため息を吐いた時、ぐるぐるとヴァニティーがなにかを教えるように唸る。
見れば、インパネの羅針盤が青く輝いている。
その輝きを見つめた後、ベリアルはクリーチャーとマモンの車とが去った方向を見た。そして最後に、腕の中で眠るラジエルを見る。
「……あとでいい」
ベリアルはゆるく首を振ると、ラジエルの体を慎重に助手席に載せた。
そして運転席に着くと、ためらいなく羅針盤を押し込んだ。
「ガープ・サークル――起動!」
羅針盤から青い光が爆ぜたように広がり、瞬く間にヴァニティーを包み込んだ。
そうして光が消えた後には、黒い車の痕跡はどこにもなかった。
* * *
悪魔専用住宅パラダイス・ロストの地下駐車場――。
墓場のように静まりかえったその場所に、ヴァニティーは停車している。
ベリアルはハンドルに頬杖をつき、考え込んでいた。
「マモン……そして未知のクリーチャーか」
ベリアルはゆるゆると首を振り、キャンディケースを取り出す。
ラジエルは気を失ったまま。なんとなく手を伸ばし、ベリアルはその髪を一筋手に取った。
「……どうにもこうにもならないな」
滑らかな天使の髪の感触を指先で味わいつつ、悪魔はひっそりとため息を吐いた。
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