7.天使にブレーキは存在しない
フラメチャを出たのは、夕方だった。
西の空は残光に赤く染まっているものの、群青の闇が空を覆いつつある。セカンドトリスは夜を迎え、昼とは違った賑わいに包まれつつあった。
悪魔の自動車は、ジョイス・ストリートと呼ばれる大通りを走っていた。
街路樹にはイルミネーションで彩られ、道には高級ブティックやカフェテリアが並ぶ。
「……心当たりって誰?」
ベリアルは、視線だけを助手席に向ける。
ラジエルの青い瞳が、じっと自分を見つめていた。
「天使と組むすっとんきょうな悪魔。なにか、気付いた様子だったけど」
ベリアルは視線を前に向け、小さく鼻で笑った。
「思い当たる奴はいるが、口にするのはやめておく。まだ判断材料が少ないからね」
「意外に慎重ね」
「長生きのコツさ。慎重じゃないと、またメギドの火に焼かれるかもしれないね」
左頬の紋様を軽く叩いて、ベリアルは薄く笑う。
左半身にくっきりと刻まれたそれは、かつて天から降り注ぐ火に焼かれた証だった。
「これから、どうするの?」
「もう少し情報収集だね。この街で暗躍しているのが誰であれ、そのうち尻尾を出すだろう」
「……じれったいわね」
信号が赤に変わる。
停止したヴァニティーの車内で、ベリアルは再びラジエルに視線を向ける。
ラジエルは親指の爪を噛み、きつく眉を寄せていた。
「なにが起きているのかもわからない……。なのに、相手の動きを待つなんて」
「どのみち、君は羽根無しだからね。動きがあっても、君にできることなんてなにもないよ」
くすくすと笑うベリアルを、ラジエルはきっと睨み付けた。
「なにも、ない……?」
「事実じゃないか。適当に暇を潰してなよ、翼をなくした天使様」
ベリアルは涼しげな顔で、ハンドルの上に顎を乗せた。
「まぁ、私も待つのは好きじゃない。でも、獲物との焦らし合いだと思えば悪くないね」
「……楽しんでいるの?」
「楽しんでるけど? それが?」
きょとんとした顔で、ベリアルは緑の瞳を見開く。
「だって私、退屈すぎて地上に来たんだぜ? そりゃ、できるだけ楽しまないと」
「あなたね――」
ラジエルはため息交じりになにかを言いかけ、口を閉じた。
青い瞳を見開き、硬直する。
「……どうしたの?」
問いかけたベリアルは、ふと既視感を覚えた。
こんなことが前にもあった。――そう、ラジエルと初めて出会った夜だ。
あの時、一体何があったか。
「……ねぇ。まさかとは思うけど、もしかして誰かの危機を感じてたり――」
言い終えることもできなかった。
一瞬で青い閃光が車内に走り、ベリアルは思わず顔を覆う。
そして嫌な予感を感じつつも目を開ければ、もう助手席にラジエルの姿はなかった。
「嘘だろ、あの天使――ッ!」
青信号。同時に悪態を吐く悪魔に、盛大なクラクションの音が押し寄せた。
* * *
――ラジエルは、追い詰められていた。
ところは木々の生い茂る遊歩道。夕方は人目につきづらいその場所で、禍々しいピエロに似た悪魔が幼い子供を二人攫おうとしていた。
「メリーゴーランド作ろう! メリーゴーランド作ろう!」
奇声を上げる悪魔が、暴れる子供達を肩に担いだズタ袋に放り込む。
彼の乗った背の高い一輪車がくるりと回転。そのまま、深い闇へと悪魔は去ろうとする。
まさにその時に、ラジエルは飛び込んだ。
「
指先から飛ばした白光で、ズタ袋を切り裂いた。
裂け目から、得体の知れない虫や肉塊がごっそりと零れ落ちる。同時に少年と少女も地面へと落ち、泣き叫びながらラジエルの方へと駆けてきた。
それを、背後に庇ったまでは良い。――けれど。
「ぐっ……」
ラジエルの体がぐらつく。めまいと背中の痛みが、その体を苛んでいた。
頭を押さえる彼女に、ピエロの悪魔は金切り声を上げる。
「子供! 子供! 子供! メリーゴーランドには子供が必要!」
悪魔は一輪車の上で喚きながら、色褪せた道化装束の中に手を突っ込んだ。
ぞろり――錆びた大鋏が、手品のように現われる。それが夕方の空を照り返し、真っ赤に輝くのを見て、二人の子供達がすくみ上がった。
「逃げて……」
ラジエルは頭を押さえ、か細い声で促す。
けれども、子供達は青い顔をしたまま。
その膝は、完全に凍り付いてしまったようだった。
「逃げなさい……早く……」
「子供の小腸! 子供の肝臓! 飾る! 飾る! あと――」
ピエロの悪魔が笑いながら、一輪車の上で大鋏を振り上げた。
その切っ先は、めまいと痛みで動けずにいるラジエルへとまっすぐに向けられている。
「お前の首! お前の首をてっぺんに!」
高笑いとともに、大鋏が振り下ろされ――。
ピエロの首が吹き飛んだ。
「ひぎゃ――」
悲鳴とともに大鋏が落下する。一輪車が倒れる。
そうして子供たちの悲鳴の中で、ピエロの悪魔の首が地面に転がった。
呆然と目を見開くピエロの悪魔に、影がさしかかる。
「――こんばんは」
地の底から響くような声とともに、悪魔ベリアルは現われた。
夕闇を背負って立つ彼女の顔は、いびつに笑っている。
緑の瞳は、冷たく虚ろに光っていた。
それに自分の顔が映るのを見た瞬間、ピエロの悪魔の顔が恐怖に歪んだ。
「突然で悪いがとりあえず死んでくれ。どこの誰だか知らないけど」
ベリアルは笑ったまま、指を鳴らした。
瞬間、ピエロの胴体と首とが同時に烈炎に包まれた。甲高い悲鳴とともにピエロの悪魔は焼け、崩れ――そうして霊素核ごと灰すらも残さずに消滅した。
「……さて」
ピエロの一輪車も崩れていくのを確認し、ベリアルはゆらりと振り返った。
ラジエルの背後で、二人の子供がびくりと震える。
ベリアルはにっこりと笑って、手を振った。
「
隠しきれない明確な殺意に子供達はうつむき、足早にその場を去った。
子供の気配が遠のく。それを感じ取った途端、ラジエルの体がぐらりと揺れた。
「この暴れ馬め」
無様に倒れかけたラジエルの体を、ベリアルは抱き留めた。
「莫迦じゃないの? 勝手に死なれたら困るって言ったはずだよね」
「……それでも人を見捨てるわけにはいかない」
わずかに首を動かし、ラジエルはベリアルを睨みあげてくる。
「私は、天使の使命のためだけに地上を庇護しているんじゃない。私にとって、これらは重要な研究対象でもあるの。……だから、それを損なうような真似は決して許さない」
青い瞳の輝きは揺らいでいない。
翳ることのない眼光にベリアルは驚嘆し、同時にそれに魅入られている自分に呆れた。
「――困ったものだね」
ため息を吐きつつ、苦しげなラジエルの唇に青いキャンディを運んでやった。
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