8.カアカアッ! カアカアカアカアカアッ!!!!!
ラジエルを拾って、一週間が過ぎた。
それはこの天使の厄介な気質を知る期間としては、十分すぎるほどだった。
「……あのさ」
夜――ヴァニティーを運転しながら、ベリアルは疲れ切った顔で言う。
助手席ではラジエルが、どこかきらきらした顔でチルドカップのコーヒーを飲んでいた。
「同じブラックなのに前に飲んだコーヒーとは全然味が違うわ……興味深いわね……」
「よくそんなまずいもの飲めるな。――そうじゃなくて」
ベリアルはいったん自分のコーヒーを飲み、喉を潤した。
生クリーム・チョコチップ・マシュマロ入りのそれを置き、ベリアルはラジエルを軽く睨む。
「……いい加減、余計な事をするのはやめてほしいんだけど」
「余計なことなどしていないわ」
コーヒーをごくごく飲みながら、ラジエルは肩をすくめる。
「癌の患者を治しただろう。あれでかなり霊気を消耗していたじゃないか」
「それのどこが余計な事だというの」
ラジエルは、ムッとした表情でコーヒーを置いた。
「あのおばあさんは、自分が癌だということにも気付いていなかったわ。それを患者本人に気付かれずに、今の私の力でどこまで治療できるか――その実験よ」
「……君って慈愛と好奇心が奇跡的に両立してる珍しいタイプだよね」
「そして面倒くさいタイプだ」と言いながら、ベリアルは自分のコーヒーに口を付ける。
地上でのラジエルの行動は、大きく研究と救済に分けられた。
人間の書物や映像などの記録メディアを貪欲に求め、その知識を自らのうちに蓄積する。
そして、危機に陥っている人間がいれば即座に助けに行く。
追い詰められた彼女をベリアルが助けたのも、一度や二度ではない。
「もうちょっと大人しくしなよ。君は翼を失ったんだから」
「翼を失っても、私が天使でなくなったわけじゃない。救済するべきものがある限り――そして知りたいものがある限り、私は不滅よ」
「……この愛玩動物、頑丈だけど面倒くさいな」
大きくため息を吐き、ベリアルは赤と青の髪をぐしゃりと掻いた。
そんな悪魔に、ラジエルはわずかに身を乗り出した。
「私は貴女についても知りたいのよ。――一体、何者なの?」
「またその話か。何度も言わせるなよ、知りたがりちゃん。私はこの通りのベリアルだ」
「堕天する前は、一体誰だったの?」
ラジエルは問いを重ねる。ベリアルは――答えなかった。
「ベリアルになる前は、なんという名前だったの?」
通り過ぎる車のライトが、時折ラジエルの顔を白く照らす。
天界に満ちる光とは違う人工の明かりは、天使の美貌をより冷やかに際立たせた。
青い瞳は、大海の淵の如く。澄み切っているのに、底が知れない。
そんなまなざしから頑なに目を逸らしつつ、ベリアルは小さくため息を吐いた。
「やめとけよ。余計な後悔をすることに――」
ベリアルは口を噤んだ。ラジエルが眼をまたたかせ、小首を傾げる。
「……後悔? ねぇ、私がなにを後悔するというの?」
「ちょっと静かにして」
「いいえ、黙らないわ。ねぇ、貴女、もしかして私の知っている――」
「いいから黙れって。――つけられてる」
ラジエルは大きく目を見開き、とっさに振り返りかけた。
ベリアルはかちっと歯を鳴らした。その音にヴァニティーが反応し、ラジエルのシートベルトをきつく締める。その勢いで、ラジエルの頭がヘッドレストにぶつかった。
「いたっ――!」
「振り向いちゃいけない。こんな往来で、なにをされるかわからないからね」
「……貴女も、ちょっとは人間を気遣ってくれるようになったのね」
「いや、ヴァニティーに傷がつく」
涼しい顔でベリアルは答えつつ、ミラー越しに追跡者の姿を確認する。
目にも鮮やかなイエローの大型高級車。スモークガラスでドライバーの顔は見えない。
そして、ボンネットにはカラスを模した金のマスコットが輝く。
ぴったりと背後についてくるイエローの車に、ベリアルは唇の端をわずかに下げた。
「……やっぱりあいつか。これは厄介だな」
舌打ちした瞬間、不意に背後で何かがちらついた。
直後、黒い羽根の渦がイエローの車の後方から噴きだし、瞬く間にヴァニティーを飲み込む。
ラジエルが目を見開き、窓の向こうで渦巻く漆黒の羽を見る。
「これは……」
「ふん、覚えがあるぞ。ラウムの空間転移だね」
「ソロモンが使役した七十二柱の悪魔の一体ね。たしか序列は四十番の」
「そうとも。奴は財宝を転移させることに長けた奴だが――」
視界を覆い尽くす羽根を見つめ、ベリアルは目を細めた。
「一体どこに私達を連れ出すつもりなんだか」
その答えは、すぐに目の前に現われた。
突如として黒い羽根の渦が引き、外界の光が車内へと差し込む。
そこは、先ほどのジョイス・ストリートの華やかさとはまるきり違った暗い街並みだった。
寂しい道路には車の姿はなく、並ぶ建物のほとんどが静まりかえっている。
目を引いたのは、閉鎖された無数の工場の数々だった。
またたく街灯が、シャッターや落書きを不気味に彩る不規則に照らしていた。
と、急に速度を上げたイエローの車の姿がその光景を覆い隠す。それを見たベリアルはとっさに上着を脱ぎ、有無を言わさずにラジエルに被せた。
「ちょっと――」
「大人しくしてろ。話がややこしくなる」
ラジエルの文句をベリアルが遮ったところで、最後尾の座席がそのすぐ側に並んだ。
「ご機嫌よう、先輩」
開いたウィンドウの向こうで、金髪の女がひそやかに笑う。
ラジエルが見えないよう姿勢を変えつつ、ベリアルはウィンドウを開けた。
「……マモンじゃないか。地獄きっての破産王がこんなところで何してる?」
「新事業ですよ。これ以上は語ることはありません」
金髪の女――マモンは黒絹の扇子を開き、口元を隠した。
「率直に申し上げましょう、先輩。――地獄に帰っていただけます? 貴女は存在そのものがリスクです。貴女の髪の色は赤字の帳簿を思い出させて実に腹立たしい」
「帰りたいのはやまやまなんだけどさ」
ベリアルはいびつな笑みで、肩をすくめた。
「このまま帰ったら、魔王閣下になにをされるかわからないからね」
「ご心配なく。ルシファー様にはわたくしから……」
「あいつには如何なる賄賂も甘言も通じないよ。だから魔王なんだ。――君と違ってね」
ハンドルをゆるゆると操作し、ベリアルは笑みを深める。
「君は強欲の欠陥によって堕天した……そんな君の新事業か。今度は何をやってるわけ?」
「申し上げた通り。語ることはありません」
ゆるゆると扇子を揺らめかせ、マモンは優雅に唇を吊り上げた。
しかし、その眼に笑みは一欠片もなかった。
さながら屍肉のうまそうな部位を探すカラスの如く。マモンの金の瞳は冷え冷えと――そして、虎視眈々とベリアルを見つめていた。
「……君には、悪魔としての矜持も誇りはない。あるのは、その底知れぬ大欲だけ」
ベリアルは、ハンドルから手を離した。
そうしてヴァニティーに運転を任せ、ちらと緑の瞳をマモンに向ける。
「……もしかして新事業のビジネスパートナーは天使かい? 君ならおかしくはないね」
「ノーコメント。情報はビジネスの鍵ですから。――ただ」
マモンは黒絹の扇子を口元に当て、うつむいた。
直後、異様な声と息遣いが響き出す。
「――かふ……ッ、矜持? かひ……ッ、誇り?」
マモンの肩が、ひきつけを起こしたように細かく震える。
「かひっ、かきゃ……ッ! まさか虚無そのもののような貴女が……かはっ、かひっ……これはこれは……かひっ、ひひひっ……これはこれはこれこれは……か――!」
か、ぎゃ、は、は、は、は――!
黒絹の扇子越しに零れだしたのは、強欲の大笑だった。
「矜持! 誇り! 結構なことで! 滑稽なことで!」
扇子を口元に押し当てたまま、マモンは笑う。
しかし、それでも隠しきれないほどに、彼女の口元は異様な角度まで裂けていた。
それどころかその唇は異音を立て、嘴のような形に変形していく。
「この際だから言いますけどねぇ、わたくし、昔から先輩方がおかしくてたまりませんでしたよ! 矜持! 誇り! プライド! なんですか、それ! 我々全員欠陥品ですけどッ! 粗悪品ですけどッ!」
押し当てられた絹の扇子の向こうで、黒い嘴がカチカチと音を鳴らす。
そんなマモンを、ベリアルはただ冷めた目で見る。
「あの忌々しい天界との戦いの時だってそう! 皆さん揃いも揃って一様に! 説経演説大盤振る舞い! でも負けたんですけどッ! 全員地獄に堕ちてるんですけどッ! かぎゃはははははははははははははははッ! おかげで赤字赤字赤字! 屍山血河の決算報告! 笑えるんですけどッ! いや、笑えないんですけど何一つッ!」
「……あー、ほんとにうるせーな、こいつ」
笑いこけるマモンを前に、ベリアルは思わず本音を漏らす。
「――そりゃ、わたくしにだって誇りはありますよ」
黒い扇子がひらりと揺れる。
その一瞬で、マモンの顔は元の美貌を取り戻していた。
しかし金の瞳は、いまだ異様な輝きを宿している。
「でもそれは、ルシファー様を初めとした先輩方の掲げるご大層な理想とは異なります。金、人、食、美――価値あるものを永久に欲し、無限に求める。それが、わたくしです」
パチンと音を立てて、扇子が閉じられた。
マモンの顔に、微笑はない。金の瞳は、真摯に虚無の悪魔を映していた。
「ですから、まぁ。単純な話、欲求の障害となるものには手段は選ばないんですよ」
視界の端で何かが動いた。
マモンの車。その二列目のウィンドウが開く。
スモークガラスの向こうに、白いペストマスクが二つ覗く。
ラウムとマルファス――見知った二人の姿を見て、ベリアルは思わず唇を歪めた。
「うへぇ……そういうこと、する?」
「わたくし、この後も色々と予定がありましてね。エステに行ったり、少し泳いだり、ロウリュウを楽しんだり……あとディナーのメインディッシュは北京ダック」
「共食いじゃないか」
「あらあら、先輩はご冗談がお上手で。――時に先輩。体の中、空っぽなんですよね」
金の瞳が妖しい光を帯びる。
いびつな笑みを浮かべたまま警戒を強めるベリアルを、黒絹の扇子がゆらりと示した。
「せっかくです。風通し良くしてあげますよ」
「ヴァニティー!」
ベリアルはとっさにハンドルに触れ、鋭く叫ぶ。
それとほぼ同時に、ラウムとマルファスが二列目左右のウィンドウから身を乗り出した。
闇に銃火が弾ける。タイプライターを乱打するが如き銃声の二重奏が始まる。
容赦なく浴びせられる弾幕を、ヴァニティーはもろに喰らった。
フロントガラスに蜘蛛の巣状に亀裂が走る。
何発かがタイヤに命中し、悲鳴じみた音を立てて車体がスピンする。
そのままヴァニティーは元から歪んでいたガードレールへと衝突し、白煙を噴き上げた。
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