8.虚無に焦がれて
――最初は、天使達の事情などどうでもいいと思っていた。
だからベリアルは、適当なところでアーケード街から離れるつもりだった。
けれどもガラス天井越しに、もがくラジエルの姿を見たとき。
胸の空洞に、奇妙なざわつきを覚えた。
「
囁く。心の底からそう思う。
あの天使は本物の愚か者だと。
そして、とんでもなく狂っているのだと。
なのに気付けばベリアルは息を殺し、食い入るようにラジエルの姿を見つめていた。
ラジエルの瞳は今際の際に立ち、凄絶な輝きを放っていた。
たとえるならば、最果ての空。澄み切った氷。研ぎ澄まされた刃。
――あるいは、霜天に光る星。
幾千幾万もの言葉を尽くしても、ラジエルのあのまなざしを形容できない。
いかなる至宝も、あの瞳の前には塵も同じ。
ため息が零れる。美しいと思った。綺麗だと思った。
「…………欲しい」
――堕としたいと、思った。
数千年ぶりの高揚感が、虚無の中にあった悪魔の心を滾らせた。
気付けば熱と衝動に突き動かされるまま、ベリアルはラジエルの前に降りていた。
――そうして、今。
アーケード街で繰り広げられていたのは、圧倒的な暴虐だった。
「もっと頑張ってよ、ねぇ……!」
炎、乱撃、血の嵐。ベリアルはその只中で笑っていた。
鞭が舞うたびにマステマの頭が飛び、剣が振り下ろされるたびにマステマの核が砕け散る。
悪魔は、一つの天災となってそこに存在していた。
「この、地底の蛆虫が――!」
暴風の如き攻撃の隙間を縫い、一体のマステマがベリアルの背中を狙う。
しかしベリアルは振り向きざまに、その槍を蹴り砕いた。
そのままバランスを崩したマステマの胸を素手で貫き、霊素核を砕いて放り捨てる。
「足りないね」
天使の血に顔を濡らし、悪魔は凄艶に笑った。
哄笑とともに振るわれた鞭がマステマを切り裂き、そのままガラス天井をぶち破った。
轟音。それとともに、鋭いガラス片が地上めがけて降り注いだ。
生き残った人間達が悲鳴を上げ、頭を庇ってうずくまる。
「なっ、ちょっと――!」
ラジエルは、とっさに両手を空へと突きだした。
そこから青い光の波紋が広がり、透明な凶器の群れから地面の人間達を守った。
「ベリアル! もっと加減しなさい!」
「なんで?」
「できる限り人間を巻き込まないで!」
「無茶を言わないでよ」
必死の叫びに、マステマの頭を適当に砕きつつベリアルはひょいと肩をすくめる。
「人間なんて放っておけば良い。――どうせリセットされるんだからさ」
「ベリアル、ベリアル……ッ!」
炎の間隙を、黒い影が貫いた。
マステマΒ。怨嗟と殺意を翼に漲らせた天使は、槍を手に悪魔へと迫った。
それをふわりと避け、ベリアルは薄く笑った。
「おや、さっきまでの余裕はどうしたの?」
「ベリアル……! 覚えているぞ! その顔、その名前! 地獄の君主! 不正の器! 二都市の破壊者! 恐れ多くも天と救世主とを訴えた恥知らず!」
憎悪とともに、マステマの槍が叩き込まれる。
一撃一撃が必殺の威力を秘めたそれを、空中で踊るかのようにしてベリアルは回避した。
「ははあ、さては過去に関わったことがあるのかな」
横凪ぎに振るわれた槍を紙一重でかわし、ベリアルはそこに掌を滑らせた。
ごうっと音を立てて、真紅の炎が灯る。
マステマΒはとっさに手を離し、槍を燃やす炎から逃れた。しかし瞬時にその両手にそれぞれ新たな槍を生じさせると、さらなる乱撃をベリアルへと叩き込む。
二つの槍は、それぞれがまるで稲妻の如く。
そこに飛行していることも関わって、槍は縦横無尽に襲ってくる。
複雑かつ必殺――そんなマステマΒの猛攻にも、ベリアルは表情一つ変えない。
「あいにく、私は君を覚えていないんだよね。マステマってみんな同じだからさ」
重力を無視した動きで二つの槍の間隙をかわし、かいくぐる。
そうして悪魔は、悪鬼の天使を見下ろした。
「――多分、君のこともすぐに忘れる」
淡々と囁くベリアルの背後で、雨雲が裂けた。
赤と青の髪が月光に煌めく。妖星の如く光る瞳を細め、ベリアルは笑った。
「……まぁ、でも今日はそんな君達に用事がある。聞きたい事があるんだよ。私に覚えてもらえるチャンスだから、心して答えてね。君達、流出した魂の行方について――」
「ふ、ざ、けるな――ッ!」
瞬間、紫の炎がマステマΒの体を包み込んだ。
そしてそれを突き破るようにして、真化したマステマが現われた。
「おぉおおお――――ッ!」
マステマΒの咆哮が轟く。直後、その外殻の隙間から無数の赤い鎖が勢いよく射出された。
それは瞬く間に伸び、さながら蛇の群れの如くベリアルへと迫る。
「おっと」
あっさりと鎖に体を締め上げられ、ベリアルはわずかに眉を寄せた。
その眼前で爆音ともに、二つの槍が紫の炎に包まれる。それはマステマΒの手によって一つに組み合わされ、巨大な炎の槍と化した。
燃え盛るその様は、さながら焼け落ちる尖塔の如く。
「灰燼となって消えろ――ッ!」
そしてその大槍が、放たれた。
紫の光が視界を塗り潰す。圧倒的な熱が、唸りを轟かせて迫ってくる。
ベリアルは表情を変えず、ちらりと地上をうかがった。
緑の瞳に映ったのは破壊された街と、傷つき怯える人々――ではない。
ベリアルが見ていたのは、ラジエルだけだった。瓦礫にもたれるようにして立つ彼女は、鋭いまなざしで上空の戦いを見つめている。
どうにか立ってはいるものの、その体はいたるところに亀裂が走っていた。
「――ちょっとだけ本気を出すか。あまり使いたくないんだけど」
眼前へと迫る槍に、ベリアルは視線を戻す。
そして紫の流星の如く落ちてくるそれに対し、あろうことか瞼を閉じた。
「
瞬間、ベリアルの胸から黒い炎が生じた。
それは瞬く間に彼女の体を呑み込み、ゆらゆらと燃え盛る。
月光の下で揺らめくその炎は、大気を揺るがす迫り大槍に対しあまりにも貧弱に見えた。
まず、甲高い音を立てて赤の鎖が切断された。
そして、槍を包み込んでいた紫の炎が、大きく揺らいだ。さながら煉獄の火の如く盛んに燃えていたはずのそれは細い帯状となり、急速に黒炎へと吸い込まれていった。
続いて槍本体が、崩れ落ちた。
巨大な穂先も、長い柄も――さながら風に晒された砂の像の如く急速に消えていく。
あとには、なにも残らなかった。
天使の槍はむなしく塵と化し、燃える闇に呑み込まれた。
「な……なにがどうなっている――!」
「毒の火だよ」
ベリアルの声が響く。――混乱するマステマΒのすぐ背後で。
離脱は、間に合わなかった。
マステマΒの翼が閃光を放つよりも早く、ベリアルの左手がその頭部を鷲掴んだ。
「ぐ、ぅう――!」
「これが私の権能……私にしか使えない力でね」
優しく囁くベリアルの背中からは、紅蓮の業火が噴き出している。
炎の奔流は幾何学的な紋様を描き、大きな三対の翼を形成していた。それは冬の夜空を背景にして、禍々しい星座の如く赫々と輝いている。
「私の火は毒性があるんだ。虚無を火種とする毒の火さ」
翼の熱で空気がゆらゆらと揺れる中、ベリアルは歌うように言った。
左手に、さらに力が込もる。指先が眼球のいくつかを潰し、湿った音を響かせた。
「ぎっ、あ、ぁああ……!」
「万物を侵し、完全に消滅させる――さ、次は君の番だ」
絶叫するマステマΒの頭部に、ベリアルはそっと自分の顔をすり寄せた。
それは、泣き叫ぶ天使を優しく抱擁しているようにも見えた。
「――零になろう」
掌に、黒炎が生み出された。
音は無い。揺らめく虚無は、静寂のうちにマステマΒの頭部を包み込んだ。
喉を引き絞るような悲鳴が一瞬だけ零れた。
しかしその拍子に体内に炎が流れ込んだのか、声は一瞬にして掻き消される。緊張と弛緩をめまぐるしく繰り返す天使の体が黒のうちに綴じ込まれ、崩壊していく。
「この炎のせいで、私はなにをしても満たされないんだ」
ベリアルの顔は曖昧な微笑を湛えたまま。
しかしその瞳は、緑のガラス玉のように虚ろに宙を映している。
「刺激も、感情も、願望も……全て、私の炎が焼き尽くしてしまう。残されるのはただ、虚無への衝動と渇望だけ……これがどれだけの苦痛か想像がつくかい?」
答えはない。
闇に包まれて、天使は無音で融け落ちていく。
風の音が寂しく響く中、ベリアルは抑揚のない声で言葉を続けた。
「私も、あっさり消えることができたらよかったのにな。君みたいに」
そうして、終わった。
マステマΒは、灰すらも残さずに消滅した。
黒炎が消える。空になった左手をひらつかせて、ベリアルはくすっと笑う。
「――なんて、ね」
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