7.厄災に響く哄笑
旧市街のアーケード街は、この街でも有数の観光地らしい。
硝子と鉄で作られたドーム型の建物は壮観で、常に観光客や地元民で賑わっている。創業百年を超える老舗も多く、ここでしか変えない商品や味を求める人間も多い。
そこは今、悪夢のような有様となっていた。
「な、なんだ!」
悲鳴と爆音に驚いて、カフェテリアから一人の男が飛びだしてくる。
「一体、なにが――ガッ……!」
辺りを見回す男の胸を、容赦なく槍が貫いた。
男を殺したマステマΒはそのまま槍を持ち上げると、大きく振るった。
串刺しにされていた男の死体がその勢いで外れて、血を撒き散らしながら飛ぶ。
それを空中で、別のマステマが受け止めた。
「……運べ。急げ。我らの赤子は飢えている」
死体を受け止めたマステマはマステマΒにうなずくと、夜空へと飛び去っていった。
その姿を見送った後、マステマΒはあたりを見回した。
落下したアーチに押し潰された老夫婦。焼け焦げていく女の顔。硝子の破片に全身を切り裂かれたビジネスマン。首を失った子供の胴体。
散乱するそれらの死体を、マステマの群れが夜空へと運んでいく。
殺し、集め、運ぶ――血なまぐさい一連のサイクルを、マステマ達は淡々と繰り返していた。
「殺せ。屠れ。連れていけ。赤子は今も飢えている」
灰色の翼を広げると、マステマΒは空中へと飛んだ。
怒号、悲鳴、笑い声――全てがない交ぜになって、アーケード街を満たしている。
その只中で、マステマΒは朗々たる声で告げた。
「捕えろ。刈り取れ。さぁ、全ては我らの希望のために――」
「――
雷電を纏う車輪が飛ぶ。
しかしマステマΒが軽く槍を振るっただけで、それはあっさりと砕け散った。
「……堕ちたものだな、ラジエル」
ため息を吐きつつ、マステマΒは地上を見下ろした。
地上に立つラジエルは、なにも言わずに周囲へと視線を移した。
アーケード街には、ついに脱出を諦めた人々のすすり泣きやうわ言が響いていた。
人々は、完全に狂乱に陥っていた。
必死で逃げようとしているものの、いずれも透明な障壁に阻まれてアーケード街から抜け出すこともできない。そうして悉く、悪鬼の天使に狩られていく。
壁を殴りつける者もいれば、呆けたような顔で空を見ている者もいる。
一心不乱に祈る者もいれば、壊れたように笑っている者もいる。
そんな彼らを見つめて、ラジエルはゆるりとマステマΒを見上げた。
「――天使が、何をしている?」
感情を押し殺したラジエルの声は、わずかに震えていた。
ラジエルはゆっくりと片手を広げ、狂騒に包まれたアーケード街を示した。
かすれたラジエルの声に、マステマΒは表情も変えなかった。
「人間を守護することは、全ての天使の使命。――なのに、お前達は何をした?」
ラジエルの言葉は、澄み切った氷の如く冷たい。
けれどもマステマを映すその瞳は、青い炎の如き怒気に光っていた。
マステマΒは答えない。その翼の音だけが、喧噪に混じって断続的に響いている。
ラジエルは、きつく奥歯を噛みしめた。
「答えなさい、マステマ……ッ! どうして壊した! どうして殺した!」
「……簡単なことだ、ラジエル。全ては我が同胞のため――狂い、傷ついた天使達のため」
硬質な声で言って、マステマΒは槍を強く握りしめた。
根元までべっとりと血に濡れたその穂先に、紫の炎が灯った。
「これは救済のための犠牲だ」
ゆらゆらと燃える炎が闇に尾を引く。
石畳に倒れ伏した人間達を槍で指し示しつつ、マステマΒは囁いた。
「我々は彼らを贄として、新世界を構築する。――だから貴女にはここで消えてもらおう」
青く燃え盛る槍は、最後にラジエルに向けられた。
ラジエルは唇を引き結び、凍てつくようなまなざしでマステマを見つめる。
「貴女は時勢を読み損ねた。旧来の天使としての在り方を愚直にも辿り続ける貴女は、もはや我々にとって目障りでしかない」
「……愚直、ね」
ラジエルは空を仰ぎ、深く息を吐いた。
そして涙と血に濡れた顔で、ラジエルはきっとマステマΒを睨む。
「私は必ず天に還る。過ちを正すために」
「口だけは相変わらず達者なようだ。だが――」
マステマΒの灰色の翼が、一際大きく音を立てた。
ラジエルが身構えるよりも早く距離を詰め、その矮躯に槍の石突きを叩き込む。
「翼を失った天使になにができる?」
吹き飛ばされるラジエルに、さらにマステマΒが追う。
壁へと叩き付けられたラジエルの体――その右肩を、燃え盛る槍の穂先で貫いた。
「あぁあああ――!」
「傷を負い、翼を失った。そのせいで力も速度も人間並みだ。なんと無様なことか」
たまらず悲鳴を上げるラジエルの喉を掴み、マステマΒは無慈悲に囁いた。
「飛べない天使にはなにもできない」
槍の穂先が引き抜かれた。
燃えるその先端が、首を掴み上げられたラジエルの胸へと定められる。
「……ここで果てるがいい、座天使ラジエル」
「ぐっ、うう――!」
ラジエルの瞳に、闘志が灯る。
その右手に、淡く青い光が宿った。それを、マステマΒめがけて叩き付けた。
マステマΒは息を飲み、後退する。
手は兜を掠め、その一部を溶解させるのみに止まった。
ラジエルは地面に倒れ込み、激しく咳き込んだ。口を覆った手に、鮮血が零れた。
「……まだそんな力が残っていたのか」
地面へと降り、マステマΒは兜を抑えた。
その裂け目から、無機質な黒の瞳がラジエルを見つめている。
「違うな、命を削っているのか。天使の力を行使するたびに、霊的細胞が崩れているだろう」
実際、ラジエルの体は崩壊へと向かいつつあった。
体のあちこちに亀裂が走り、血とともに透明な破片がぼろぼろと崩れ落ちていく。
「いずれは霊素核も自壊にいたる……運命を受け入れてはどうだ」
「ぐっ……私は天使だわ……人を、守らなければ」
ラジエルは立ち上がろうとした。
しかし片足の一部が破損し、その体は再び地面へと倒れ込んだ。
「……もはや限界だろう。翼を失った貴女に、これ以上なにもできるものか」
「やらなければならない!」
地面についた手が、音を立ててひび割れた。亀裂に沿って、血が噴き出した。
それでも手足に力を込め、ふらつきながらもラジエルは立ち上がる。
「私は翼を失っても魂までは失ってはいない!」
ラジエルは、青い瞳をアーケード街の奥へと向ける。
崩れた瓦礫の物陰には、人間達がいた。
倒れた男達がいた。震える女達がいた。怯えた老人達がいた。泣きじゃくる子供達がいた。
逃げることのできない彼らの全てが、ラジエルを見つめていた。
「このラジエル、我が名にかけて! ここから一歩たりとも下がりはしないッ!」
澄んだ声が大気を震わせる。
青い炎の如き瞳は揺るぐことなく、ただまっすぐに己の敵を見据えていた。
その気迫に、マステマΒは一瞬たじろぐ。しかし頭を振ると、燃える槍を握り直した。
「……神秘の天使が、ここまで愚かとは」
槍の穂先が細かく振動し、甲高い音を放った。
途端、無数の翼の音がさざ波の如く響いた。死体を集めていたマステマ達が、ラジエルとマステマΒの周囲へと集まってきたのだ。
「奇跡は起こらない。貴女はどこにも逃げられない」
マステマΒの槍が、ラジエルへと向けられる。
それとまったく同時に、周囲のマステマ達も己の槍をラジエルに向けた。
「――我らの贄となれ、ラジエル」
瞬間――悪鬼の天使の軍勢はラジエルへと襲いかかった。
迫り来る暗色の波を、ラジエルは一歩も引かずに睨んでいた。
聞こえるのは鎧の軋みと、鎖帷子の鳴る音。槍の唸りと、鞭の風切り音――。
「――あは」
そして、ぞっとするほど美しい笑い声。
直後、ラジエルとマステマの群れとの狭間に炎がそそり立った。
強烈な赤い光が視界を焼く。爆音めいた音が轟き、超高温の風が肌を炙る。
ラジエルはなにが起きたかもわからず、思わず手で顔を庇う。
落日の如き光の中で、無数のマステマが焼かれているのが微かに見えた。悶え苦しむその体が徐々に崩れ、煌めく霊素核もまた炎の渦に呑み込まれていった。
そして――渦の中央で、誰かが凄絶な声で笑っている。
「何者だッ!」
マステマΒが槍を構え、吼えた。
燃え盛る炎の渦は細くなり、やがて消失する。
焼け焦げた石畳の中央に、聖堂にいたあの女悪魔が立っていた。
赤と青の入り乱れる髪。顔の左半分に刻まれた紋様。スーツに包まれた肩を震わせて、おかしくてたまらないといった様子で笑っている。
「――素敵だ。愉快だ。久々に生きてるって感じがする」
女悪魔はやがて大きく一つ吐息すると、ゆっくりと歩き出した。
残ったマステマが槍を向けるのにも構わず、女悪魔はラジエルの前に立った。
「君、最高だよ。本当に素晴しい。数世紀ぶりに良い物を見た」
薄く涙を浮かべた緑の瞳――それを見た瞬間、ラジエルは胸がざわつくのを感じた。
不吉に光る悪魔の瞳に、不安を感じたのもある。
ただそれ以上に、どういうわけかベリアルの瞳に強烈な既視感を覚えた。
「貴女、どこかで――」
「天界が彼女をいらないというのなら、私がもらおう」
ラジエルの言葉も聞かず、女悪魔は畳み帰るように言葉を続けた。
「――私は、ベリアル」
派手な色をした髪を揺らし、女は振り返った。
禍々しい紋様に彩られたその美貌は、いびつな微笑に歪んでいる。
その表情は、さながら獲物を前にした獣のようで。
「これより座天使ラジエルに味方しよう」
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