6.書痴と畜生
ベリアルは口元を拭うと、抉り出したマステマの霊素核を握り潰した。
そして軽く手を払いつつ、あたりを見回す。
「さてさて――」
先ほどの戦いによって、朽ちた聖堂はめちゃくちゃになっていた。崩れていないことが不思議な状態の聖堂の中を歩き、ベリアルは祭壇の近くに立った。
「これはどういうことかな」
片方の膝をつき、ベリアルは床を見下ろす。
その場所は大量の血液によって濡れ、透明な結晶と白い羽根が辺りに散らばっていた。
結晶を拾い上げ、ベリアルはそれを指先で磨り潰した。
「霊気の結晶だ。これは多分、天使のものだね。……どうやら相当、重傷のようだ」
消えていく結晶を見つめ、ベリアルは思案する。
「傷を負った天使を、マステマが保護してたのかな。なら、そいつは一体どこにいったんだろう。それに、どうも治療をしていた感じがしない……」
ベリアルは立ち上がると、床を見回した。
よくよく見ると、血が帯のように伸びている箇所があった。
透明な結晶と白い羽根はそこにも点々と散らばり、薄闇の中でぼうっと光って見えた。
ベリアルは再び、
妖しく輝く緑の目で聖堂の奥を見つめた後、彼女は唇を吊り上げた。
「ふぅん……ちょっとは話せる奴だといいな」
視線の先には『書庫』と記されたプレートと、小さな扉があった。
扉は、薄く開いていた。血痕はその先へと続いている。
「ピザ屋でーす」
大嘘とともにベリアルは扉を蹴り開けた。
薄暗い部屋だった。がらんとした木造の空間に、空の本棚が並んでいる。古い天井の一部が朽ち落ちて、裂け目から外の光と氷雨とが注いでいた。
鼻腔を刺激するのは微かに残った本の香りと、冷たく濡れた夜の空気。
そして――天使の血のにおい。
「……おいおい、嘘だろ。とんだレアモノじゃないか」
「――騒々しいこと」
血の主は、本棚にしなだれかかるようにして床に座っていた。
長く伸びた白髪。人形めいた冷やかな顔立ち。血に濡れた小さな体躯。
体を形成するどれもこれもが細く薄く、硝子細工のように壊れそうな作りをしている。
細い手で体を支えて、天使はベリアルにターコイズの瞳を向けた。
「……貴女、悪魔ね? 教会に用があるようには思えないけど」
ベリアルは、思わずたじろいだ。
どう見ても天使は傷ついている。そしてその体躯ときたら、少女のように華奢だ。
しかしその瞳は、思わず息を飲むほどの気迫を宿していた。
「流石だな、その気迫……『神の神秘』の名は伊達じゃないと言うことか」
「……私を知っているの?」
「知ってるさ。だって君、有名人じゃないか。九つの天使の階級――その上級第三位にあたる座天使のなかで、君ほど有名な奴はいないだろう。箱入りちゃん?」
歌うようにベリアルは語りつつ、ゆっくりと歩みを進める。
「かつて天と地の全てを記した者。神の御簾の内に立つことを許された者……ソロモンに魔術の知恵を与え、ノアに箱船の知識を教えた……至高神秘の天使」
ベリアルは天使の前に立つと、膝をついた。
「こんなところにいて良い存在じゃないだろう――座天使ラジエル」
「貴女、本当に何者?」
天使は――ラジエルは眉を寄せて、ベリアルを見上げた。
「私の顔を知っているのは、天界でもごく限られた天使だけのはず。それに私は天界と地獄の大戦にも参加していない……前に、どこかで会ったことがあるの?」
「……会ったことはないよ、絶対にね。それに――」
ベリアルの顔の紋様が、ぐにゃりと歪んだ。
不気味な笑みを浮かべたまま、ベリアルはラジエルに顔を近づけた。
「君には個人的に怨みがある。……あの忌々しい王によくも魔術の知識を与えたな」
「……そう。貴女、ソロモンが使役した悪魔の誰かね」
ラジエルは嘆息し、澄んだ氷のようなまなざしでベリアルを睨み付けた。
「バティンかしら。それともアスモデウス?」
「ミカエル亜種のパシリと一緒にするなよ。それにあのおっぱいおばけと同列にされるのも心外だ。私が誰かなんてのはこの際どうでもいいんだよ。――それより聞きたい事が山ほどあるんだよ、物知りちゃん?」
ベリアルは不愉快そうな顔で立ち上がりつつ、ラジエルの首を掴んだ。
片腕一本で、細い体が浮き上がった。
「くっ、あ――!」
「天界と地獄の条約は知っているだろう? 罪ある者は地獄に――でも、どうやらその原則が破られているようでね。私達のボスがひどく機嫌を損ねてる」
「なんの、話を……!」
「最近、本来なら地獄に来るべき魂がどこかに流れてる。これがもし天界の仕業だとすれば重大な条約違反だ。知らないとは言わせないよ」
「私はっ、なにも――あぐ……っ!」
「なんでマステマが地上にいる? なんで君がここにいる? 流出した人間の魂はどこにいった? ねぇ、答えなよ。君、なんでも知って――」
ベリアルは短く問いを繰り返しつつ、さらにラジエルの体を高々と持ち上げた。
ばたばたと音を立てて、大粒の血の雫が床にこぼれ落ちた。
同時に雪片にも似た白い羽根がはらはらと散る。
ベリアルは、動きを止めた。血と羽根を見て、ようやく気付いた。
「…………これは」
ベリアルは困惑の表情で、比較的慎重な手つきでラジエルを床に下ろした。
緑の瞳を瞬かせ、しきりに首を傾げる様は戸惑う肉食獣のようだ。
ラジエルが喉を押さえ、激しく咳き込む。
その背中をベリアルは覗き込み、わずかに目を見張った。
「……翼は仕舞ってるんだと思ってた」
白い背中に、えぐれたような裂傷が四つ。
恐らく、翼を根元から切り落とされたのだろう。千切れた腱や神経繊維が微かに見え、赤い肉に羽根の名残りが残る様は痛々しいというほかない。
「なにそれ。誰にやられたの?」
ベリアルの問いに、ラジエルは答えない。
肩をきつく抱いてじっと黙り込む天使を見つめて、悪魔は腕を組んだ。
「悪魔じゃないね。君ほどの天使から翼を奪える奴は地獄でもそうそういない。少なくとも今現在、地上にいる奴ならベルゼブルしか――」
「……冗談でしょう? 魔王補佐が地上に来ているの?」
「その素直な反応を見る限りじゃ、あの食いしん坊は関係なさそうだ」
ラジエルは一瞬目を見開いてから、悔しげに目を伏せた。
「まぁ、誰が君の翼をもぎ取ったのかってのも気になるけどさ。――驚異的なのは、君が翼を失ってなお自我を保っているように見えるということだ」
ベリアルは頬の紋様を指先でさすりつつ、考え込んだ。
「……天使の翼は、飛行するための器官であるだけじゃない。真化――つまり真の力を顕現し、個体として最大の力を発揮するために必要となる器官でもある」
天使の翼には大量の神経、血管、冷気を供給する霊気管などが集中している。
最大の武器であり――最大の弱点ともいえる器官だ。
「……大抵の天使は、翼を失う痛みに耐えられない」
天使にとって、翼は象徴だ。
その喪失は、肉体と精神的の両方に強烈な打撃を与える。故に翼をもぎ取られた天使は消滅に至るか、かろうじて生き延びても発狂してしまうのが常だった。
「死にかけか、あるいはすでに狂っているのか――君、どっちなの?」
「……さぁ、わからないわ」
ラジエルはかすれた声で答え、ゆっくりと首を振った。
「それこそ、貴女の名前くらいにどうだって良いことよ。……翼は失った。けれども命までは失ってない。ならば、天使としてやるべきことをやるだけ」
「やるべきことって?」
「人を守り、主に課せられた使命を果たし、世界の秩序を保つこと」
ラジエルは顔を上げた。
ターコイズブルーの瞳が、まっすぐに悪魔の双眸を射貫く。
到底瀕死とは思えないその力強さに、ベリアルは思わず二、三歩下がった。
それをよそに、ラジエルをやや言葉に力を込めて語った。
「私は、久しぶりに地上に降りたの。だから今ここでなにが起きているのか、本当に知らないのよ。きっと貴女以上に、状況がわかっていないわ」
「久しぶりって……具体的にどれくらいなわけ? 最後に地上に降りたのはいつ?」
「はじまりの人間の魂が、楽園から追放された頃くらいかしら」
「……冗談だろう?」
今から遥か昔――神は虚無と混沌のみが存在していた空間に、物質の世界を創造した。
その後、神はあらゆる生物の魂の雛形を作り出す。
そしてそれがある程度の水準まで成長しきったところで、物質の世界に――すなわち地上と呼ばれる世界へと、神は魂を解き放った。
魂は肉体を獲得すると、その霊性を高めつつ進化を繰り返した。
その果てに――現在の地上がある。
「楽園から人間の魂が放たれた際……私は人間よりも先に地上に降りた」
ラジエルは視線を床に向けて、かすれた声で囁いた。
「そしてこの世界が人間にとってふさわしい環境がどうかを調べ、問題箇所を修正して……神に奏上した。私が地上に降りたのは、それが最初で最後よ」
「……箱入りにも程があるだろう」
ベリアルは舌を突き出すと、困惑の表情でラジエルを見下ろした。
「じゃあ、本当になにも知らないわけ?」
「えぇ。図書館には地上の資料もあるから、人間の歴史や地上の移り変わりは知っているけれど……地上の魂の動向は、私の管轄外。知りようもないわ」
「そんな……嘘だろ。君はなんでも知ってるのが取り柄じゃないの?」
「言われてるほど物知りじゃないわ――ッ、ゴホッ……!」
ラジエルが激しく咳き込んだ。口元から血が零れ、地面に飛沫を散らす。
それを抑えようと伸びたラジエルの手は、途中で力を失った。
「おい、しっかりしろよ」
地面へと崩れ落ちそうになったラジエルの体を、ベリアルとっさに支えた。
「聞きたい事は他にも山ほどあるんだ。最近の天界の動向とか――」
その時、ベリアルは緑の瞳を見開いた。
突如出現した気配に肌が粟立ち、感覚が研ぎ澄まされる。
ベリアルは顔を上げると、ポケットのライターに触れつつ、周囲の様子をうかがった。
「……この気配、マステマか? ずいぶん数が多い――」
ベリアルの呟きも終わらぬうちに、強烈な音が立て続けに響いた。
爆音。――そして、悲鳴。
その時、それまで死んだように沈黙していたラジエルがはっと目を開いた。
細い体が弾かれたように起き上がる。
その拍子に血が飛び散り、ベリアルの服を濡らした。
「うわっ! おい、ちょっと――!」
「……人が、脅かされている」
ラジエルは、それだけ言った。
かすれた、か細い声。
しかし、それには聞く者に二の句を告がせない重みがあった。
ベリアルは息を飲み、伸ばしかけた手を思わず止める。
目の前で青い閃光が弾ける。その一瞬で、ラジエルは姿を消した。
「
ベリアルは顔をしかめると、いやな軋みを建てる書庫内を見回した。
そして、自分の手を見る。
革手袋を嵌めた掌には、天使の血がべっとりと付いている。
「あんな霊威を使う力が残っていたなんて……いや、違うな」
ベリアルは身を屈めると、床に散らばる羽根を拾い上げようとした。
しかし悪魔が触れただけで、羽根はさながら雪のように消えてしまった。その様をじっと見つめて、ベリアルは緑の瞳を細めた。
「……力なんてもう残ってない。あれは間違いなく死にかけだ」
ベリアルは腕を組むと、左頬の紋様を指でさすりながら考え込んだ。
ラジエルの傷を思い出す。ラジエルの呼吸を思い出す。ラジエルの体の重さを思い出す。
そして――ラジエルのまなざしを思い出す。
その全てがない交ぜになって、胸の空洞のうちで奇妙に響いてくるような気がした。
「理解できない。意味がわからない。――でも」
ベリアルは、ラジエルの血に濡れた指先を口に含んだ。
舌の上に、芳醇な鉄錆の香りが広がる。
血は、悪魔の好物だ。鮮血は悪魔を癒やし、昂ぶらせる。
けれども何故か――それを口にする前から、ベリアルは奇妙な昂揚感を感じていた。
「……彼女に関わることだけは、避けたかったんだけどな」
革手袋に染みついたラジエルの血を丹念に舐め取ると、ベリアルは天井を見上げた。
ぽっかりと開いた穴から、冷たい雨が注いでいる。
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