9.「だからなに?」
ベリアルは、地上に降り立った。
背中の翼が揺らめき、消える。
髪の青い部分をいじりながら、ベリアルは辺りを見回す。
アーケード街は、崩壊していた。
戦いの果てに天井は崩落し、あちこちに押し潰された死体が埋もれている。
わずかな生者は血と炎の中にうずくまり、あるいは呆けた顔で中空を見上げていた。
そんな彼らを無視して、ベリアルは歩く。
「やぁ。まだ元気そうだね」
ひらりと手を振った先で、ラジエルがベリアルを睨み付ける。
「……好きに暴れてくれたものね」
かすれた声を零すラジエルの周囲には人間達が集まっていた。
人々はみな跪き、一心不乱にラジエルに祈りを捧げている。ラジエルはひび割れた手を広げると、ベリアルに向かって彼らを示して見せた。
「人間を巻き込むなと言ったはずよ」
「無茶言うなって言ったはずだよ。それに――ほら、リセットが始まった」
その瞬間――天使と悪魔を除いた全てが、時を止めた。
炎が、静止する。
嘆きや祈りの声も唐突に絶え、人々は彫像のように動きを止めた。
そんな静寂の中で、巻き戻しが始まった。
鉄、ガラス、コンクリート――瓦礫の数々が、黒い奔流と化して空へと昇っていく。それらは独りでに組み合わさり、アーケード街のガラス天井を再構成していった。
炭化した木片は街路樹に、水と石片は噴水に――全てが、復元されていく。
そして巻き戻しは、生物にも及ぶ。
「――君も知っての通り、この世界には修復作用がある」
ベリアルが語るそばから、骨肉が寄り集まり、組み合わさっていく。
そうして完成するのは、目を閉じた無傷の人間だ。
それが次々に現われる光景を見つめつつ、ベリアルは忌々しげに顔の紋様を歪めた。
「これによって、人ならざるものが成した破壊や殺戮は修正される」
仮に殺したところで、その事象は修復作用によってなかったことになる。
修復によって犠牲者の肉体は復元され、記憶さえも抹消される。
「だから、天使も悪魔も人は殺せない」
ベリアルは嘆息し、赤いキャンディを口に運んだ。
「おかげさまで、こっちは新鮮な霊魂を一つ手に入れるだけでも一苦労だ。契約を結ばせて霊魂の所有権を地獄に移すか、あるいは破滅の道に進むよう唆すか……」
「……修復作用は万能ではないわ。一度経験した死の衝撃は、人の精神に影響を残すのよ」
「命が戻るだけで十分だろう」
「戻らない可能性だってあるのよ! この規模の破壊では、一人か二人は死んだままになるかもしれない。最悪の場合、因果の歪みを解消させるために――!」
「同規模の破壊を、この世界に存在する力で発生させるかもしれない」
キャンディを口の中で転がして、ベリアルはかくりと首を傾げた。
「――で? それが?」
ラジエルの青い瞳が、大きく見開かれた。
凍り付いたように停止する彼女を面白そうに見つめて、言葉を続ける。
「人間が大勢死ぬ。だからなに?」
「貴女――ッ!」
青い瞳を憤怒に燃やし、ラジエルはベリアルに向かって一歩踏み出す。
直後、その体がふらりと揺れた。
「おっと」
ベリアルはとっさにラジエルの体を抱き留め、その顔を見た。
一瞬前まで怒りに染まっていたはずの青い瞳は、虚ろに宙を映している。
「……気絶か。まぁ、当然か。あそこまで無茶をやった天使は見たことがない。しかし、ずいぶん軽いな……どこもかしこも薄いし、細いし、柔らかいし……」
とりあえずベリアルは指先を伸ばすと、慎重にラジエルの瞼を閉じさせてやった。
そしてあまりにも繊細な肢体に困惑しつつ、それを抱え直す。
「――さて。ルシファーにバレたら、なにを言われるかな」
笑う悪魔の背中を、一羽のカラスがじっと見つめていた。
ガラスビーズにも似た赤い瞳が、雨に濡れた闇の中で煌々と煌めいている。
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