我慢の前に我儘を



 星冠軍事警察、能力専門部隊本部は今日も忙しない。


「スピリア、この件だけど――、」


 その施設で副本部長という立場である、腰に刀を差した青年が書類に目を落としながら自らの上司へと歩み寄った。

 スピリアの碧眼が、部下であり友人でもあるナオトの声掛けにより僅かに上を向く。書類から目を離したナオトの黒眼も、スピリアの視線に吊られるようにゆるりと動いた。ばちりと絡み合う視線。


「あっ」


 そんな間抜けな声を漏らしたのはナオト。冷や汗をかきつつも絡み合った視線を解くように書類へ目を戻し、

「は、判子頼むわ」と用件だけを吐いて、背を向けた。

 そんなナオトの背中を見ながら、スピリアは机に置かれた書類に指先を伸ばす。


「わかった」


 その返事も何処と無くぎこちないが、ナオトよりはあからさまな動揺はない。ナオトは早歩きで部屋のドアまで行くと、スピリアの顔が見れないギリギリの角度で後ろを振り向き、捨て台詞を吐くように言った。


「そ、…そろそろ鍛錬場行ってくるわ、今日は指導する日だからな」


 そそくさと。そういう表現が相応しい、立ち去り方で。ナオトはそのままドアの向こうへと行ってしまった。ぱたんと音を立てて閉まるドア。しん、と静まり返る部屋。

 思わず長い溜息が漏れた。

 意識しない方がおかしいといえばおかしい。今まで友人として過ごしてきた二人だが、つい先日、スピリアはナオトから告白を受けた。断りもしなければ受け入れもしなかった、返事を先延ばしにするという卑怯な手段を用いて、スピリアはその場を凌いだ訳だが。


「…どうしたものか」


 視線が合うだけで、こうも動揺してしまう相手を見ていると、可哀想な気さえしてしまう。そうさせてるのが自分ならば尚更だ。

 答えは簡単な筈なのだが、踏み出せない。それこそ今すぐにでも後を追い掛けてやればいい。それでも枷のようにしがみつく過去がそうさせてくれない。

 仕事に逃げている事は自覚している。が、今はやはり目の前の書類から片付ける方が精神的にも楽だった。判子を取り出す為に引き出しを開けたその時、ドアをノックする音が響いた。


「どうぞ」


 スピリアの承諾から一呼吸置いて、ドアが開かれる。やってきたのはユースだった。仕事がら連日のように顔を合わせるのでそう不思議ではないが、今は少しばかり見たくない顔でもあった。


「どうかしたか」


 そんなスピリアの心境を察したのか、それともわかりやすく顔にでも出ていてしまったのか、ユースがそう問い掛けてきた。ぐ、と息が詰まる。スピリアは一瞬躊躇いこそ見せたものの、


「いいえ、なにも」


 と、極力冷静な声で返した。そのつもりだったが、スピリアのデスクまで近付いてきたユースは、わざわざ机に手をついてスピリアを威圧するようにその顔を覗き込んだ。


「ナオトでは、満足出来んか」

「!」


 そのユースの言葉に、心臓が跳ねる。スピリアは咄嗟に顔を背けたものの、目の前のこの人物からは、逃れられないのも理解していた。無意識に左手が自分の耳朶に触れる。小さく揺れる、十字架のピアス。


「……いいえ、そんな、事は…」


 唇が震えた。気付かれていたのかと。いや、ナオトの挙動不審な態度に、気付かぬほど鈍感ではないか、とも思う。しかし、ユースは、スピリアのかつての恋人であり、ナオトの友人であるレイの、叔父だ。そんな彼の前で、『レイへの未練が断ち切れません』なんて、そんな事、直接口に出せる筈もない。


「女々しいな」


 ユースは呆れたように言った。ゆっくりと机から手を退けると、スピリアを見下すような視線を向ける。スピリアに、顔を上げるな、そのまま下を向いてろと言うように。


「わかっています」


 それでも、スピリアは声を発した。以前の彼ならば萎縮して口を噤んだだろう。その事に驚いたのか、ユースの眉が僅かに動く。


「レイを、喪った時。辛かったのは、私だけじゃない。それは当然です。レイは誰からも愛されていた。特にナオトとは、兄弟のような関係だった事は、私も知っています。私なんかより、ナオトの方が、レイと過ごした時間は、長かった。」


 スピリアの目が、上を向く。


「それでも、ナオトは、友を喪い傷付いた自分の心よりも、私の心の隙間を埋める事を、選んでくれました。支えになると言ってくれました。だったら私も、せめて、ナオトの想いに、応えたい。そう思うのに、どう言えば、伝わるのか。わからないんです」


 ユースを真っ直ぐに見つめながら、スピリアはそう口にした。現状、迷いがある自分のせいで、ナオトを困らせてしまっていると。だからどうしたと言われれば終いだ、それでも良いと思って、スピリアは今、喋っている。誰かに叱ってほしいと思ったのかもしれない、誰かに背を押してほしいと思ったのかもしれない、そうすることで、この現状から抜け出せるのなら、と。


「私にとってナオトは、とっくに、レイの、恋人の代わりなどではないのです。それでも私は、ピアスを外すことが出来ない。レイを忘れたくない。その想いが、強い。」


 スピリアは正直にそう言ったが、その事はユースにどう思われるのだろうと、変な興味も湧いた。複雑なのだろうか、嬉しく思うのだろうか、それとも鼻で笑うのか。死んだ身内の事をずっと好いていますと伝えているのも同じ事だ。それと同時に『未練です』とハッキリ口に出しているのも同じだ。

 ああ、殴られるだろうか――、そんな思考に辿り着いて、スピリアは両の瞼を下ろす。しかし飛んできたのは拳ではなかった。


「捨てる必要があるのか?」


 予想しなかった言葉。目を開き、ユースを見れば、そこには変わらない仏頂面がいる。


「お前は、過去を捨てなければ、他の誰かを受け入れることさえ出来ないのか?」


 責め立てるように吐き出されていく言葉。スピリアは何も言うことが出来ない。

 未練にしがみつき、鬱陶しいと言われるのも覚悟していた。だからこそ、呆気にとられた。それでも貴方はいいのか?と、問いたくなる気持ちも出てくる。

 ユースは今更思い出したように、スピリアのサインが済んだ報告書の束を机の上から数枚取り、軽く目を通しながら言葉を続ける。


「死人は口を聞かない。お前を慰めもしない。それでも飽きずにうじうじと縋るのは、己の妄想に浸り欲望を満たす、自慰となんら変わりない」


 涼しい顔でつらつらと言葉を吐いて、当の目的であった仕事を済ませ、ユースは最後にこう言った。


「自慰をしたけりゃ勝手にしろ。ただ、これ以上俺の甥の事を口にするな。吐き気がする」



___


 ドォン!と、

 人間が床に叩きつけられた、大きな音が響いた。


「ぐっ…」

「次っ!」

「お願いしますっ!」

「よっしゃ来いっ」


 訓練場にて。

 汗で前髪を額に貼り付かせながら、ナオトは次の相手に木刀を向けた。ナオトは副部長の立場でありながら、新人の教育係も務めている。今日は、その訓練の日だ。

 個人の能力を高める訓練も勿論だが、能力だけでなくその他の武力を上げる事も重要だ。現在はその訓練中であり、能力を扱う事は一切禁止されている。恐らく能力を扱わない戦いならば、組織内でナオトに敵う者はいないだろう。


「遅いっ!」


 ナオトは素早い動きで相手の頭を木刀で叩く。

 因みに互いに防具などつけていない。攻撃を受けて痛みを覚えさせるのが、ナオトなりの教え方だった。


「痛…っ!」

「お前は隙がデカイッ!次っ!」


 しかし、新人の訓練と言うよりは、ナオトの百人斬りの相手をしているような、そんな雰囲気だった。ナオトの周囲には既に疲労で倒れ床に寝そべっている者も多く、辛うじて残っている者も汗だくで息を乱している。


「じゃ、次俺ーっ!」


 そんな中、元気いっぱいなのは、イービルだ。いつもの上着を脱ぎ、黒のTシャツといったラフな格好で、木剣を片手にナオトの前に飛び出してきた。


「よっしゃ来いガキンチョーっ!」

「俺ガキじゃないしーっ!」


 二人は大声で言い合う。

 普段からナオトとイービルが仲が良い理由もこの訓練にある。唯一上司と部下を気にしないで本気でぶつかり合える時間だからだ。(イービルは普段から上下関係を気にしないが)

 ついでに言えば、イービルは隊員の大半がへばる訓練の後半でも元気いっぱいなので、教える側のナオトもやりがいがあるのだろう。


「おりゃぁーっ!」

「勢いだけじゃ勝てねぇぞ!!」


 突っ込んできたイービルの一撃を避け、ナオトはイービルの脇腹に木刀を叩き込む。


「いっ…たぁ!」


 その痛みにイービルは目をきつく閉じ、涙を浮かべながら叩かれた場所を押さえて叫ぶ。


「訓練なんだからちょっとは手加減してよ副ぶちょーっ!!」

「甘ったれた事言ってんじゃねーよっ! 本気でやんなきゃ身につかねーだろうが!」


 パシンッ


「いたぁーっ!」


 更に頭に一撃を受け、イービルはその場にしゃがみ込み頭を押さえた。


「うぅーっ、これ以上馬鹿になったらどーすんだよーっ!!」

「やったぁって思う」

「嫌な大人!!」


 大人気ない台詞を吐き、ナオトはきゃんきゃん鳴く犬のように吠えるイービルを見下ろして「あーあ」と大袈裟に溜め息を吐いた。そして周りを見渡す。

 今日は少々やり過ぎた。それは自覚している。想いを告げた相手から逃げ出すようにこの場に来たのだ、自分の感情を誤魔化す為にも声を出して、暴れて、ちょっとスッキリしたい気分だった。それでもそれは叶わない。ナオトはこの組織でも上位の実力者。張り合いがいのある相手などそう簡単には見つからない。


「だっらしねぇなぁ……お前ら。もっとやる気のある奴いねーのか?」


 ナオトは眉を下げて言ったが、荒い呼吸を繰り返すばかりで立ち上がる者はいない。基礎体力を身に付ける訓練でも追加するか、なんて考えていると。


「じゃ……俺が相手してやろうか?」


 とてつもなく愉快そうな声がナオトの背後から聞こえた。声の主に覚えがあるナオトはピシッと固まる。そして、ギギギ、と音が聞こえそうな程固い動きで、首だけを振り向かせて背後の人物を確認した。


「し、し、し、師匠ぉぉおおっ!!!!」


 そして叫んだ。そこにはナオトの師である、ブシがにんまり笑顔で立っていた。しかも、普段持ち歩いている刀の鞘を抜き、その刃の切っ先を向けて。ナオトが叫ぶのも無理はない。


「おら、久し振りに稽古してやるってんだよ逃げんなゴルァ」

「ぴゃぁあああ!! 師匠本物向けちゃイヤァァアンッッ!!」

「懐かしいだろ? ……ついでにテメェらも躾てやるよ」


 高い声を上げて大騒ぎするナオトとは裏腹に、低い声で、尚且つ不気味な程優しげな声でブシは言う。ギラギラした目付きで周りを見渡すその姿は、猛獣に狙われた獲物の気分でした(隊員達の心の呟き)。


「ぜ、全軍撤退ーー!!」

「逃がすか」

「ぎゃぁぁああああっ」


 ナオトの断末魔が建物中に響いた。


 それから暫くして、数時間後。

 死屍累々とはこの事か。訓練場には先程とは比べ物にならないほどぐったりした隊員達が倒れ込んでいた。恐らくしばらくは立ち上がれないだろう。

 そんな中、一人ピンピンしてるのは勿論ブシである。「このくらいでだらしねぇなぁ」と涼しい顔で笑っていた。最早化け物である。


「し、しょ……俺達、仕事出来なくなったらどうすんすかぁ…」


 一番酷くコテンパンにやられたナオトは、仰向けに倒れつつ息も絶え絶えに呟いた。


「知るか」

「うぅっ。師匠酷い…」

「テメェの責任だろ」


 興味なさげにブシは言うと、軽くナオトの頭を拳で小突いた。ふざけ半分に「ぎゃう」とかなんとかナオトが呻いたが、ブシは無視して会話を続ける。


「おい馬鹿弟子」

「はい…?」

「面貸せ」


 まるで不良の喧嘩の呼び出しのような言葉に、ナオトは目を丸くする。怠い体を起こし、改めてブシを見上げれば、そこには笑みひとつない真顔の師の姿。いつか何処かでも見た、真面目な話をしたい時の表情だった。

 別室に移動した二人は、互い壁に寄りかかるように隣に並んで立つ。背の高い二人が並ぶと中々威圧感があるが、片方は落ち込んでいるように顔を下に向けていたのでそう圧倒されるものはなかったが。


「ししょう、」


 そう声を掛けてみるも、ブシはむすっとした表情を崩さない。


「太刀筋が荒い」


 返ってきたのは、そんな言葉だ。ナオトはぐっと押し黙る。隊員達には気付かれなかった心情を、師であるブシには気付かれた。長い間離れていたというのに、何も変わらないな、と。そう思いながら、ナオトは右手で頭をぐしゃぐしゃに掻き毟る。


「俺いま、頭ん中ゴチャゴチャなんすよ」


 そう言葉を吐き、後頭部を壁にゴンと叩きつける。横目でブシを見れば、ブシも目だけをナオトへ向けていた。


「師匠、俺の事、恨んでますか?」

「は?」


 唐突な問い掛けに、間の抜けた声が盛れる。そんなブシの様子を気にする間もなく、ナオトは言葉を続けた。


「俺がいなかったら、師匠はもっと早く、ユースさんに会いに来れたのに」

「……」


 ブシは複雑そうに眉を寄せる。そんな言葉を吐くナオトの顔は、今にも泣きそうだ。

 ナオトがいようがいまいが、ブシが国に束縛される運命は変わらなかっただろう。ブシは『兵器』と呼ばれ国の所有物だった男である。その兵器となるために狙われたナオトを逃がしたのは、人間として生きて欲しかったから。ただそれだけの理由だ。しかしナオトは、自分のせいで、と。責任を感じているようだ。無理もないが。

 確かにナオトを逃がしたせいで、身代わりのようにブシが国から出られなくなった、という事実はある。しかしこの通り、ブシは今海の向こう側であるこの国、ゲネラールに辿り着いているのだ。少しばかり遅くなっただけで、ナオトを憎むまでの理由にはならない。


「そんなことを、うだうだ悩んでるようには見えなかったが?」


 ブシは溜息を吐きながら、話題を逸らすように言った。確かにこの事も悩みのひとつだろうが、今、剣が乱れるほど悩んでるのは違うだろうと。

 ナオトは少し迷う素振りを見せたが、息をひとつ呑むと、小さな声で呟いた。


「……俺、師匠とおんなじ真似は出来ねぇなって思って」


 ブシは思わず目をきょとんと丸めた。ナオトはしょんぼりと眉を下げたまま言葉を続ける。


「何年も、何年も。ずっと離れ離れなのに、……誰かの傍にいたいって思えんのかな、って」


 ナオトの声が震え始めた。

 ぐっと何かを堪え、息を詰まらせながらも、言葉を続ける。


「俺、この前、告白したんす。でも、返事はまだ待ってくれと言われました。だから今、待ってるんですけど。怖いんです。俺、そんなに待てんのかって。」

「あの金髪の兄ちゃんか?」

「なんでわかるんすか師匠ぉおもぉおお」


“誰に”告白したとは言ってないのに、と顔面を両手で覆うナオトだが、数日前に『スピリアは俺のだ』と叫んだことは忘れているらしい。てんやわんやの騒ぎの中で、どさくさに紛れて、の叫び故か。ブシはちゃっかり覚えていたが。仕切り直すように顔をぱんぱんと両手で軽く叩きながら、ナオトは言葉を続けた。


「レイって、知ってますか。ユースさんの、甥っ子なんですけど。それと、俺の好きな奴は、くっ付いてました。でも、レイは、ある事件で……、亡くなりました。その事が、ずっと、引き摺ってて」

「ああ」

「俺は、本当に、あいつの。スピリアの傍にいたいのかなって。思いました。レイっていう大きな存在が、消えちまったスピリアなら、俺を必要としてくれるんじゃねぇかって、期待しちまってんのかもしれねぇって。…利用、してんじゃねぇか、って…。だから、この、好きっていう感情が、嘘か本当なのかわからなくなって。……そう、考えてたら……」


「……怖くなったってか?」

「っ、」


 図星を突かれ、ナオトは言葉を詰まらせる。ブシははぁ、と溜め息を吐いた。


「こんの馬鹿。馬鹿弟子。本当テメェは生温いな」


 思わずブシはそうぼやいた。

 生温い、と、いうよりはナオトは、優しすぎる男なのである。常に相手を気遣う。それは死者でさえもだ。スピリアの傍にいる事で、レイの居場所を奪ってしまったのではないか、と気遣ってしまっているのだ。

 罪悪感、というのもあるが、何よりナオトはスピリアを気にしている。本当は俺じゃなくてレイの方が良かったんじゃないかと。

 ナオトは他人を気遣い過ぎる。ナオトには、自分の意志というものが足りない。つまり我が儘を知らないのである。


(……無理もねぇか)


 思えば、ナオトは他人に縋らなければ生きていけない人生を送ってきた。幼い時に両親を亡くし、ブシと共に暮らした数年後に、ユースの元へと行った。長い間居候生活をしたナオトは、せめて迷惑を掛けないようにと、無意識のうちに自分の意志を殺していたとしてもおかしくない。


「だって、こんな、たった数日、待ってただけで、こんなに不安になって、馬鹿らしい考えぐるぐるさせてちゃ、俺……」

「あ"ーうぜぇ。惚れた理由で悩むくらい脳味噌花畑なんだろうが、それで相手に冷めてちゃ確かにてめぇは最低な野郎だが」


「…うぅ」


 ブシは無造作にナオトの頭を乱暴に撫でる。わしゃわしゃ、と髪を乱すように。


「たく……本当お前は馬鹿なガキだよ、…ナオト」

「ししょう」

「何時までもそんなんだとなぁ……」


 名を呼ばれ、ナオトはビクリと肩を揺らした。ブシはそんなナオトに顔をぐっと近付け、至近距離で呟く。


「俺が先にあの金髪美人を犯すぞ」

「……っ!! それは駄目です!!」


 ナオトは慌てて首を振った。今までの眉を下げた情けない顔から真面目な顔になり、焦りと怒りの表情を見せた。弟子の顔つきが変わった事を確認すると、ブシはクッと喉を鳴らして笑い、ナオトの頭からゆっくりと手を離す。


「いつの間にそんなツラするようになったんだか」

「っ、師匠…?」

「……ったくよ」


 とぼけた顔をするナオトを見て、ブシはひっそりと溜め息を吐いた。


(この俺に殺意まで向けたか、無意識だろうがな)


 一瞬、ではあるが、確かにナオトは師匠であるブシに殺意を向けた。スピリアを犯してやる、と発言したその瞬間、一瞬だけナオトの目が憤怒に変わった。それほど本気、だろうに、その自覚がないのは、実に皮肉な話だ。


「まあゴチャゴチャ考えててもよぉ、」


 ブシは口元をにやつかせながら言葉を続けた。何故だか笑えてきたのである。色恋沙汰に真剣になる弟子が可愛い、なんてうっかり思ってしまったからだろうか。


「今。テメェが相手に惚れてる事は変わりねぇんだろ?」

「……っ」


 ナオトは一瞬黙り、やがて決心したかのように口を開く。

 漸く自覚したかのように。


「…惚れて、ます。好きです。その感情に偽りは、無い、です……」

「……ならよ」


 それでいいじゃねぇか、とブシは言い放つと、ゆっくりとナオトに背を向ける。


「あんまり悩みすぎんなよ、馬鹿弟子」


 そしてクス、と笑った。


「ししょう、」

「……後で酒でも飲むか?」


 泣きそうな顔になっているナオトに、ブシは普段とは違った声色で話し掛ける。優しげに、慰めるように。ただ、振り向かない。その方が遠慮なくみっとない姿を曝け出せるだろう。涙でも鼻水でも垂れ流せばいい。


「……っ…」


 ナオトが息を詰まらせる。

 落ち着くまで、ブシは待った。相変わらず口元はにやけている。

 馬鹿な、ガキだ。と、笑っているのだ。

 その子供は、相手の幸せが自分の幸せ、もしくは相手が幸せなら自分はそれでいいなどと、自虐的な愛が格好いいと、信じ込んでいるのだ。本当に、そんな愛で幸せになれるなら、誰も愛なんて望まないだろう。

 ただ相手の事を想うだけじゃ、幸せになれないと、気付けばいい。

 ただがむしゃらに、相手の幸せを願う馬鹿が、今後は自分の幸せを願う強欲な男になればいい。

 やがて聞こえてきた嗚咽を聞きながら、ブシはひっそりとそう思っていた。 


 ___


 カチコチと、時計の針の音が、鳴り響いている。


 スピリアは積もる書類の一枚にペンを走らせながら、チラリと時計に目をやった。もう訓練の終了時間はとっくに過ぎていたが、ナオトは戻って来なかった。何時もならもう既に戻ってきている筈なのだが、少し訓練に熱でも入ってしまったのだろうと、スピリアはそんなことを考えていた。実際、間違っていなかったりもする。ただし熱が入ったのは指導者であるナオトではなく、とある乱入者だが。


(……妙に、緊張する)


 先程からスピリアは時計を気にしてしまっている。理由を言うなら、時間通りにナオトが帰って来なかった、というのがある。

 早くナオトに帰ってきてほしいのと、

 もうちょっと遅くに帰ってきてほしいのと、両方がスピリアの中でグルグルと渦巻いていた。


 独りは寂しい。


 ナオトの明るさにスピリアは何度も救われていた。こんなちょっとした時間でも、離れるのが嫌なくらいに。今はぎこちなくもあるが、例えそうだとしても、独りで過ごす時間よりマシだった。


(自分は……何を望んでいるのだろう…)


 そんな考えは、何度も何度も頭の中を駆け巡って、もう、結論は、出ている。だからこそ、今日。ナオトにあの日の答えを伝えるつもりでいた。そう決心したからこそ、こうも緊張し、時計をひたすらに気にしているのに、当の本人が帰って来ない。

 だから、早く、と願ったり、いや、まだ先延ばしでも、と、グルグルと考えてしまってるわけで。


「……珈琲でも煎れるか」


 思わずそうぼやき、カップ片手に席を立った所で、部屋の扉がキィと開いた。

 どくん、と心臓が跳ねる。

 ただ、部屋に入ってきたのは、待ち人ではなかった。


「本部長本部長! 事件事件!」

「……は?」


 スピリアは思わず呆けた声を出してしまった。部屋に元気よく飛び込んできたのは、待ち人の部下である紅髪の少年。ぱたぱたと部屋を走り回り楽しそうな笑みを浮かべている。


「だーかーらー! 事件だってのスピリアのおっさん! はやく来てっ」

「いや、ちょっと待て。内容は? 場所は? 私が出向く必要があるのか?」

「出向く必要ありありだって! 場所は訓練所の隣の休憩室っ。内容は……知りたい?」


 ニヒヒ、と八重歯をちょっぴり覗かせて笑うその仕草は、まさしく小悪魔だ。楽しそうなイービルに手を引かれているスピリアは、ただ困惑するばかりである。これが漫画ならスピリアの周りに?マークが沢山浮かんでいたことだろう。そんなスピリアの様子を見て面白がっているのか、イービルは上機嫌で言葉を続けた。


「副部長がブシのおっさんに泣かされてるっ」

「……いつものことじゃないのか」

「ちょっ! 確かにそうだけど……違うって! 部屋に二人っきりしかいないとこでだぜ? しかもいつもみたいなふざけ半分の泣き方じゃなかったもん!」

「……え?」


 その無邪気な言葉に、ざわ、と胸がざわついた気がした。

 目の前の幼子の顔が直視出来ない程に。


「なんか怪しいだろ? へへ、これ事件だよな~…って、本部長っ?!」


 気付けばイービルの手を振り払い、スピリアは駆け出していた。走り去る直前にイービルが何か喚いていたが、振り返る余裕もなかった。

 ただ、心配だった。

 ナオトは普段のじゃれあいなどで泣いたりするお調子者だが、それ以外では決して涙を見せなかった。どんなに悲しい事があっても、明るく笑って、それを乗り切ってしまう男だった。

 無理をしているんじゃないか、と自分が心配しても、「大丈夫だ、俺のことよりお前のが心配だよ」と苦笑して返されてしまう。そんな気遣いに、いつも自分は甘えて。

 どんな理由でナオトが泣いてるか、なんて、どうでも良かった。でも、咄嗟に思った。

 抱き締めてやりたいと。

 いつも自分を支えてくれる彼が崩れそうになっているなら、もう無理はしないでくれと伝えたい。そう思いながら、スピリアはただ、走った。


「…っと」

「……!」


 途中、すれ違ったのが彼の師匠だったと気付いたが、スピリアは立ち止まりはしなかった。

 そんなスピリアの姿を見て、ブシはクク、と楽しそうに笑う。


「若いねぇ」

「あー! ブシのおっさん! 何してたんだよ!」

「あぁ?」


 聞こえてきた騒がしい声に視線を向ければ、そのスピリアの後を追ってきただろうイービルの姿があった。ブシは一瞬不機嫌そうな顔をすると、そのイービルの頬を軽くつねる。


「なにひゅんだよっ」

「野暮な真似した罰だ。……ま、結局良い方向に向かったみてぇだがな」

「……ふぇ?」


 何もわかっていない子供の阿呆面を見て、ブシは思わず吹き出して笑った。「なにわらってんだよっ」と、イービルが怒ったのは言うまでもない。



 ―――


 休憩室に辿り着いたスピリアは、ばんっ! と荒々しくその扉を開ける。軟弱な体質に見えるスピリアだが、あれだけ走ったにも関わらずあまり息は乱れていなかった。 


「ナオトっ、」


 部屋の中には、呆けた顔をしたナオトが此方を見ていた。


「スピリア…?」


 目を丸め、どうしたんだ? と今にも聞いてきそうな視線に、スピリアはナオトがそう口を開く前に心配そうに問い掛けた。


「大丈夫…なのか?」


 その問いに、ナオトは一瞬言葉を詰まらせる。そして自分の目をゴシゴシと擦った。泣いていたのがバレたのだと思ったらしい。見た目はさほどいつもと変わらなかったので、ぱっと見ただけじゃ今まで泣いていたなんてわからなかったが。


「…ああ…。大丈夫、だよ」


 そしてナオトは、困ったように笑う。ナオトの癖でもあった。

 ナオトは本当に辛い時ほど「平気」だと口にする。スピリアとはまた違った無茶をするタイプなのだ。笑って、誤魔化そうとする。実際、それで乗り切れる時もあるが、

 いつもの、覇気というか、元気が足りないのをスピリアは感じ取っていた。


「……」


 スピリアはそろりとナオトの頬に触れる。びくり、とナオトの肩が揺れた。


「……なぁ、ナオト」


 スピリアは静かに言う。


「私は知らずのうちに、お前に負担をかけていないか」

「……!…そんなこと、ねぇよ」


 スピリアの問いに、やはりナオトは少しだけ困ったように眉を下げて言う。スピリアはぐっと下唇を噛んだ。


「なぁ、頼む、ナオト」


 泣きそうな声でスピリアは言う。


「もっと、お前の事を教えてほしい」

「……え?」

「いつもお前は、誰かの事ばかりだから」


 いつも誰かを、気にかけているから。

 スピリアが、知らぬはずもない。ナオトはそういう男だと。自分よりも他人を優先する、男だから。だから、スピリアは望んだ。


「お前の気持ちを教えてほしいんだ」


 聞いていたようで、聞いていなかった、ナオトの気持ち。

 ナオトは優しさから、自分の気持ちにも無意識のうちに嘘を吐く事があったから。


「……俺は…」


 ナオトが、ゆっくりと口を開く。

 スピリアはその目を、じっと見つめた。


「お前の一番になりたい」

「……っ」

「代わりじゃ、なくて、お前に誰よりも愛されたい」


 死者には適わないというけれど、

 それよりも強く、愛してほしいと。

 それが、ナオトの心からの望みだった。


「ナオト…」


 スピリアはそっと、目を閉じた。

 ずっと、二人の間にあった、埋まりようのない溝の正体。

 最初からわかっていたこと。

 レイという存在は、それ程までに二人の中では大きかった。


 スピリアは、自分の左耳に手を伸ばした。そこにあるのは、未練の片割れ。かつて神が磔にされた十字架のピアス。スピリアは迷うことなく、慣れた手付きで、そのピアスを外した。ころりと手のひらの上で転がるピアス。


「――…?…スピリア…」

「……」


 その行為にナオトは目を見開く。

 スピリアはじっ、と自分の手のひらに乗る小さなピアス を見つめ、そしてそれをポケットの中に入れた。


「私はレイを忘れないと決めた」

「……」

「でもそれがお前を苦しめる枷になるなら、私はその枷を外そう……すまない。ナオト。私は決して、レイが恋しくてピアスをしていたわけじゃないんだ」


 スピリアは悲しそうに、目を細める。


「それでも私は、弱いから。レイが消えた事実すら忘れるのが怖かったんだ。だから。捨てるのは、やめた」

「……」

「大切な思い出、だから」


 そしてスピリアは薄く笑う。そう、大切な思い出だ。レイと恋人として過ごした時間はとても短かったけれど。そこにナオトもいて、レイもいて、三人で、友として、過ごした時間もそこにはある。


「私だって、罪悪感がないわけじゃないけれど」


 それは、レイを失った責任は自分にあるということ。いくら周りが「お前のせいじゃない」と慰めても、実際にレイの血を浴び、レイの体温がなくなる瞬間をその身で味わったスピリアにとって、それは“罪”と呼ぶに相応しい出来事だった。


 それでも、スピリアは、その罪に苦しむことは止めた。

 それは、ナオトがいたから。


「レイは……私が、私達が苦しむ事なんて、望まないと思うから」


 スピリアは、躊躇いながらもナオトにゆるりとした動作で両腕を伸ばし、ぎゅう、と力を込めて抱き付いた。紅く染まった頬を隠すようにナオトの肩に顔を埋めて。


「好きだという気持ちくらい、素直に言いたい」

「スピリア……」

「…ナオト……、私はお前のことが好きだ。他の誰よりも、自分を犠牲にしても、誰かの為に動こうとするお前が…」


 漸く吐き出した、告白の答え。あの日躊躇った言葉。


「レイを忘れたくないと言いながら、お前を好きだと抜かす私を、許してくれ」


 まるで懺悔のように、スピリアは言葉を吐き出した。不思議と先程までの緊張は何処かに行っていた。羞恥心も薄れていた。それよりもやっと伝えられた、満足感の方が大きかった。


「……」


 ナオトは暫く何も言わなかった。腕の中に感じる温もりをじっと見つめ、瞬きを繰り返していた。ふと、目に入る相手の左耳。ぷつりと空いたピアスホール。ナオトはほぼ無意識にゆっくりと顔をかがめ、スピリアの耳元へ近付けた。そして、舌先をちろりと覗かせる。


「っ!…ひゃ…」


 突然の行為にスピリアは声を上げ、びくり、と肩を震わせる。ピアスによって空けられた小さな穴に舌を這わされ、穴を抉るように器用に舌先で弄ばれる。


「……っ…!」


 スピリアは真っ赤な顔をしてぐっと身を縮めると、ナオトの肩にしがみついた。そんな可愛い反応を示すスピリアを見て、ナオトはくすりと微笑む。


「……すき」


 小さく、小さく耳元で囁く。

 未練の十字架がなくなったその耳元で、自分の想いを吐き出す。


「スピリア、好き」


 過去に誰を愛していたとしても、今は。

 顔を移動させ、互いの唇と唇を合わせる。


「……んっ…」


 触れるだけの、キス。

 僅かに開いた唇から、互いの舌先が触れる。


「俺だけのものになって」


 きっとそれが、ナオトの一番の願いだった。

 どこかで、スピリアの魂は死者のレイのものになってしまってるのではないかと思っていた。

 ならば肉体だけでも、と思った時もあったけれど、そんなのは虚しいだけだと気付いていた。

 だから。


「スピリアの全部を俺に頂戴」


 初めてだったかもしれない。

 ナオトがここまで、何かを強く“欲しい”と望んだのは。


「……っ…!」


 スピリアは、その目にうっすらと涙を浮かべながら、ゆっくりと、頷く。


「やる。やるから、だから……ッ」


 そして、再び触れるだけのキスをする。

 直ぐに離れる唇を見て、スピリアは潤む目でナオトを見た。


「ナ…オト…」

「ん……?」

「その…」


 カァア、とスピリアの顔が紅く染まる。

 その間にも、ナオトの唇がスピリアの白い首筋に移動して、ちゅ、と音を立てて吸い付いた。


「……っ!」

「……我が儘をいうなら」


 ナオトはふと思い出したかのように、スピリアにぎゅう、と抱き付いた。ピアスを捨てるな、なんて言わないし、レイを忘れてくれ、なんて言わない。自分は元恋人の代わりではないのだとわかっただけで、それ以上に相手に想われてると気付かされただけで。幸せな気持ちだった。


「たまにこうやって甘えさせて」


 ナオトは気持ちよさそうに目を閉じる。

 スピリアはそんなナオトを見て――優しく、微笑んだ。


「これくらい……いつでもいいぞ」


 急に、その甘えてくる仕草が可愛くて堪らなくなって、スピリアは思わずそのナオトの頭を撫でる。


「あーあ」


 馬鹿みたいだ、なんて、ナオトは口に出さずに心の中でぼやいた。


「最初からこうすれば良かった」


 我儘も必要だなと思った、ただ、それだけの話。

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