第2話 願い
この物語は、僕の、夢を叶える、物語だ。
僕には、夢がある。好きな子に前を向いてもらいたい。昔のように明るく笑ってほしい。
彼女が昔のような笑顔を見せることはないと、嫌でも理解してしまった。それでも、僕はもう一度笑ってほしいと思ったんだ。
秋戸さんが、あれから3日間連続して休んでいた。先生は体調不良で休んでいると言っていた。どこか嫌な予感がした。
彼女は、簡単に説明すると、胸の辺りまで伸びた黒く透き通った髪、芯の通った瞳を持った女の子。背は僕よりも、頭1つ分小さいくらい。ただ、気になることが一つだけ。それは、彼女がクラスから浮いていることだった。
彼女とは、いわゆる腐れ縁で、子供の頃はよく遊んでいた。小学校の中学年になったあたりから、友人と遊ぶ機会が増え、徐々に疎遠になってしまったが、それでも心のどこかで気にはなっていた。それに、あんなことがあった訳だし...
元気だと良いんだけど...
得体の知れないもやもやが、胸について離れない。
くそ、考えてても仕方ない。
皮膚を刺すような寒さから、逃れるように布団に顔を埋める。
気付けば深い眠りについていた。
ジリリという甲高い音が頭に響く。うるさいなぁ。布団に頭を埋め、ベルを止める。これで、大丈夫。
いや、それ駄目でしょ。寝ぼけてたんだ。マジで許してほしい。
慌てて食パンを頰に詰め込み、バッグを背負い、形だけの挨拶をして、部屋を飛び出し、学校へ向かう。ハムスターのようになりながら懸命に走る。
学校に着くと同時に、始業を告げる鐘が鳴る。
HRが始まる。急いで、昇降口で上履きに履き替えて、教室へ向かう。
教室のドアを恐る恐る開けると、先生は俯いていた。
いつもは甲高い声を響かせてふざける生徒を注意しているのに、何故俯いているんだろう?
嫌な予感がした。前の席から後ろの席に、メモ紙のようなものが配られているのが目に入る。胸の鼓動が、速くなるのを感じた。秋戸さんは、今日も休みのようだ。
朝賀先生は、僕の方に気付いたようだ。
「春谷君、遅れそうなら連絡入れるように。それと秋戸さんが入院してるから励ましのメッセージを帰りまでに書いておいてね。」「え?」
心が凍てつくのを感じる。今、先生何て言ってたんだ?
「どうしたの?」
「いえ、別に。失礼しました。次から気を付けます。」
思いとは裏腹に、身体は奥の自分の席へと向かう。気が気じゃなかった。
どういうことなんだ?首元を汗がつたう。
気がつけばHRは終わっていた。
「また寝坊か?紡。」
「ああ、布団が離してくれなくて。」
さっきまでの不安を押し殺し、作った笑顔で答える。
「はは、んだよそれ。まあ、気持ちはわかるけど...」
「てか、起こしてくれよ。起きてたならさぁ。」
「いや、起こすの悪いかなぁ、って思って。」
そういう岳は、何処か歯切れが悪かった。
「酷い。それよりもさ...」
胸が、締め付けられる。何で彼女が入院してるのか、それを聞くのは大きな勇気がいることだった。
それを察したのか、岳に遮られる。
「その前に、宿題、見せてくれ。英語の終わってないんだ。和訳、見してくれ。」
「はいはい。」
しぶしぶノートを取り出す。他愛のない会話で、落ち着きを取り戻す。
「落ち着いたか?」
そういって、ノートを岳に取り上げられる。
「ああ。朝賀先生が言ってた、秋戸さんの入院ってどういうこと?」
右腕で強く胸を押さえる。ごまかしても、鼓動の早まりは抑えられない。
「安心しろ。事故や事件じゃない。ちょっと体調を崩して、入院してるらしい。」
「病気?」
「そんなんじゃない。」
彼女は身体が弱いようだった。体育などは結構な頻度で休んでしまっていた。その時の寂しげにこちらを見つめる顔が、今でも胸に残っている。
「命に別状はない?」
「…大丈夫、全く命に別状はないってよ。」
一瞬深刻そうな顔をしたように見えたため、血の気がひいたが、その一言で安堵した。
「そうか、良かった。」
ほっと胸を撫で下ろす。
「悪いな、先にそれを言うべきだった。」
岳は、申し訳なさそうに目を伏せる。
「いや、言ってくれてありがとう。手術だったりとかじゃないよね。」
それでも、不安だ。もし、何かあったら...
「ああ、そんなんじゃねぇ。すぐに良くなるさ。」
そういって、岳はこちらの肩を叩く。
「何処に入院してるか言ってた?」
「言ってなかった。」
「そっか。メッセージってことは、お見舞いは難しい、ってことなのかな?」
それは困るなぁ。いや、でも、好きな人がいるっていってたし、どっちにしても行かない方が...
そう考えていると、岳に小突かれる。
「勝手に悩んで、うじうじすんなよな。」
「あ、ああ。そうだよね。」
教室のドアが開く。
もう授業の時間だ。岳は前に向き直り、軽く左手をふる。
身の入らない授業を終え、岳と共に昼食に入る。
「テニスラケット買って金欠でさー。」という岳に合わせ、同じ狐うどんを注文し、席につく。口早に食前の挨拶を済ませ、うどんをかきこむ岳に意を決して尋ねる。
「ねぇ、メッセージどうする?」
「無難に、早く良くなってね、と書くかな。」
「そうか。」
「そっちはどうする?」
「僕は、僕もそうしようか...いや、でも...」
「迷ってるなら、先生に伝えればいいんじゃないか。一晩くらいなら、待ってくれると思うぞ。」
「ああ、そっか。」
「それに、そんなに気になるなら、見舞いに行ってもいいと思うぞ。」
「え? それは、相手に嫌がられない?」
流石に、あんなことを言われて、見舞いに行くのもなぁ。
「好きな人がいるって、言われただけだろ?逆の立場で考えて見たらどうだ?」
「いや、それは...」
僕だったら、そりゃあ、すごく嬉しいけど...
「お前は、好きな人に好きな人がいたら諦めるのか?」
「え?」
いや、相手が自分では敵わない相手だったら…
「仕方ないんじゃないかな。」
相手が幸せなら…それでも良いんじゃないかな。
「ふざけんなよ。じゃあ、その人よりもお前の、彼女への愛は薄いのか?」
「ち、違うよ。」
考える前に、言葉が出ていた。
「じゃあ、それで良いじゃねえか。」
「え?」
「誰よりも愛してるなら、彼女を幸せにできるのは、お前だけだろ。」
言われて気付く。確かに、そう言われてみると、そんな気がした。
岳は、勢いのまま言葉を繋ぐ。
「惚れた相手がどうしようもない駄目男(だめお)だったりしてみろ。」
「だめお?」
「酒、ギャンブル、タバコ、すべての依存症。酒買ってこいよ、って毎日怒鳴りつける奴。」
「そ、そんなの絶対嫌だ。」
「じゃあ、絶対行けよ。」
「う、うん。」
熱いパッションに押され、肯く。圧倒されるばかりだった。
「ただ、周りに気付かれないようにしろよ。」
「あ、ああ。」
確かに、周りに気付かれてしまったら、本格的に嫌われてしまうかもしれない。彼氏持ちなんて噂が立ったら、彼女も告白出来ないかもしれない...
「それよりも、腹空いてないのか?」
「え?」
気付けば岳はもう半分以上食べてしまっていた。慌てて食前の挨拶をし、食べ進める。
「大事なのは心の問題だからな。よく考えろよ。いつでも手を貸す。」
岳にそう言われ、肩を叩かれる。
岳と分かれ、食堂に背を向け、職員室へ足を向ける。
入室の辞儀を済まし、職員室に入り、先生の姿を探す。
目立たないように気配を消して周りを見渡したが、見つからない。
諦めて教室に戻ろうとしたところ、後ろから声をかけられる。
「どうしたの?春谷君?」
振り向いた先には探していた先生の姿があった。不意のことに、伝える文言を忘れそうになりながらも、言葉を拾う。
「じ、実は、秋戸さんへのメッセージの件で相談したいことがありまして...明日の朝まで待ってもらってもよろしいでしょうか?」
そう告げると、先生は軽く手を組んで、顎の下に右手を添える。
「うーん...そっか。仕方ないね。よく考えたら突然だったね。じゃあ、全員明日の朝までにして、書き上がった人だけ回収することにします。」
「ありがとうございます。それと出来れば...」
お見舞いに、と言いかけたところで、こちらに来るクラスメートを見かけ、途中で言葉を噤む。
どうしたの?という先生に、伝える用件を忘れてしまった、と誤魔化す。職員室の入り口で長話をするのも周りに迷惑と考えたのか、はたまた忙しいのか、先生からは、思い出したら話すよう言われ、その場を後にする。クラスメートに、聞かれたくはなかった。
授業の合間に、冷静に状況を分析する。自分が、何をすべきか。
チャイムが鳴る。もう今日の授業はこれで終わり。
気が気じゃなかったが、岳のおかげで少し冷静になれた。
朝賀先生が入ってくる。
「席についてー。帰りのHRを始めるよ。ちょっと、皆ふざけないで。」
朝の時とはうってかわって賑やかな教室だった。
静まるまでだいぶ時間がかかりそうだった。
「ま、まずは朝に配った物を回収するよ。一番後ろの席の人は集めて持ってきてね。」
先生は一人一人ふざけた生徒を名指しで注意したせいか、息を切らしていた。
回収した紙を渡す。
「皆、書いてくれてありがとう。これは先生が送っておくからね。提出していない人は、明日の朝までに先生のところに来るように。」
「大丈夫か?」
前に座る岳が、こちらに向き直る。
「ああ、ありがとう。バッチリだ。」
「そっか。じゃあ、頑張れよ。」
そういってカバンを持って、教室を出て行こうとする。
「いや、お前もだろ。一緒に頑張ろうな。掃除のこと、とぼけるなよな。」
回り込んで進路を塞ぐ。
岳は、観念した様子で両手を軽くあげる。
掃除を早急に終わらせる。教室は、それほど時間かからないのが救いだな。
岳は、掃除が終わるや否や部活に向かった。
「さて、ここからだな。」
そう呟いて、自分の席に着き、メッセージを考える。
周りの人に気づかれないよう、今日宿題の出た教科の教科書とノートを出す。
早く良くなってね、頑張って、元気を出して、など様々な言葉が浮かんでは消えていく。
こんな、ありきたりな言葉では駄目だと感じた。
「なにやってるの?」
不意に話しかけられて、心臓が止まりそうになる。
「え?し、宿題。」
顔をあげると、そこには職員室の前で見かけた女子生徒がいた。どこまでも澄んだ、まるで子犬のような眼をしていた。髪は栗毛色のはねっ毛で、背は俺よりも少しばかり低いくらい、といったところか。名前は…なんだっけ?
「嘘。全然進んでないよ。もしかして、言い辛いこと?やましいことなの?」
「いや、そんなんじゃ...」
「なーんて冗談。秋戸さんへのメッセージ、考えてたんでしょ。なかなか思いつかないよねー。どうしても無難な言葉になっちゃうっていうか。」
余計な勘ぐりを入れられる。こういうタイプの人に、僕の想い人を知られたら…考えただけでも背筋が凍る。
「いや、そうじゃなくて...」
必死に否定する。相手に迷惑はかけたくない。
「朝賀先生から聞いたよ。」
頭が真っ白になる。何を聞いたんだ。
「図星だったんだー。」
最悪だ。外見に騙された。迂闊だった。血の気がひいていくのを感じる。
「他の人には言わないでくれ。」
「言わないよ。私も同じだもん?びっくりしたよ。先生に、思い浮かばない、って言ったら他にもそういう子がいるって言ったんだもん。それで、君が職員室から出てきたのを思い出して、カマかけてみたの。」
僕は、墓穴を掘ったのか...
「で、そんなに考えてるってことは、顔馴染みなの?」
「か、顔馴染みって何ですか?」
「べっつに〜。深い意味はないよー。」
相手が満面の笑みを浮かべる。いい性格してるなぁ。
「ただ、小学校が一緒だっただけ。そんな勘ぐるようなことはないよ。」
そっぽを向いて答える。
「そっかー。残念。何か特別な関係だったら、二人の思い出に答えはあるわ、とか言えたのにな〜。」
何でそんなにいい笑顔なんです?
「僕の語彙力が足りなくて、言葉が浮かばないだけ。勘ぐられて変な噂流されて、相手の迷惑になるようなことはやめて下さい。お願いします。」
平謝りに謝る。これでそうなったら、死んでも死に切れない。
「そんなことしないよ。私、学級委員だし。でも、ちゃんと考えてる人がいるみたいで良かった。お見舞いとかは考えてる?クラス全員でお見舞いに行けたら、って思ってて先生に提案しようと思ってるんだけど...」
驚いた。そんなことを考えている人がいるとは、思わなかった。
その思いは嬉しかった。ただ...
「いや、それは相手の迷惑になるかもしれない。体調を崩して、ってことは体力がない可能性が高い。そんな時に、菌やウイルスを持ち込むリスクを、大きく増やすのは良くないと思う。」
完全に、それを肯定することは、出来なかった。今は冬、インフルエンザの流行に合わせて見舞いを制限する病院があってもおかしくはない。
「でも、それって寂しくないかな?」
「理想と現実は違う。もし、それで彼女が死んだら最悪だろう。」
最悪の想定ばかりが浮かんでしまう。
「それは...そうだけど。でもそれって、本当に幸せなのかな。」
彼女が病室に一人寂しく佇んでいる姿が、脳裏に浮かぶ。
「だから、リスクを下げないといけない。」
「少人数で行くってこと?」
「ああ。」
「ふーん。じゃあ、これを機に一人で行くんだ〜。したたかー。」
そんな視線を、向けないでほしい
「からかうのはやめてよ。男一人が見舞いに行くなんて相手にとったら恐怖でしかないでしょ。」
「そうだね〜。じゃあ、お姉さんと行こっか。」
「大丈夫なの?」
「元々私一人で行くつもりだったし。それに、せっかく一緒のクラスになってみんなと仲良くしたいのに、それとなく避けるんだもん。」
ああ、そうだろうなぁ。
「許してあげてほしい。」
「え?」
「ずっと、そうだったから。」
彼女は察したのか「そっか。」と呟いて、その場を立ち去った。
胸がキリキリと痛む。
辛いといって欲しかった、悲しいといって欲しかった。
結局、どんな人に対しても同じ扱いだったんだな。それは、僕に対しても。
重心を前に傾けて、進まない足を前に出し、帰路に着く。
途中でコンビニに寄り、夕食と可愛げな熊の書かれたノートを3冊購入する。キャラモノのノートを買うのは恥ずかしかったが、他に無かったのだから仕方がない。
倒れそうになる体に鞭を打ち、自室に着く。岳は、まだ部活なのか、まだ帰ってきていない。
声を出す気力はなかった。リビングの両親の写真に目礼する。食事をとり、風呂を沸かす。
疲れが押し寄せる。お風呂が沸くまでの時間にシャワーを浴び、身体を洗う。
このままでいけないことは分かってる。気持ちの整理もおぼつかない。鏡に写る自分の顔は酷くやつれていた。
湯船を見るともう6割ほど沸いていた。お湯につかり、気持ちを切り替える。
学級委員との会話を思い起こす。二人の思い出か...
長いこと忘れていた。いや、避けていた。
ふと、ある言葉が浮かんだ。それは自分が言われて一番、安心した言葉。僕を救ってくれた言葉。
心に明かりが灯る。そうだ。僕は、あの時のお礼を返したい。
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