貴方が前を向けますように

古日達 奏

第1話 始まり

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 きっかけは些細なことだった。

 彼女は、僕が辛い時に助けてくれた。

 もう、彼女は覚えていないかもしれないが、それでも僕にとっては大きなことだった。

 それが嬉しかったから、今度は僕の番なんだ。


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 僕は、春谷はるたに つむぐ。寮生活をしている中学1年生だ。11月ももう半ば、肌寒い日々が続き、コートを羽織る生徒も出てきた頃のことだった。

 その前の日は、同室の友人と夜遅くまでボードゲームをしていた。


「紡、起きて。そろそろ起きないと遅刻するよ。」

 可愛らしい、小鳥の囀りが聞こえる。ああ、彼女の、声だ。

 目を開けて、声の振る方を見ると、黒い髪をたなびかせて、こちらに手を振る女の子の姿が映る。パッチリした二重の瞳。ああ、相変わらず可愛いなぁ。

 彼女の名は、秋戸あきど 佳奈かな。僕の、初恋の人。

 でも、これはありえない。

 僕の通っている学校は、全寮制で、男子と女子に分かれてる。

 男子寮は、基本的には二人部屋。

 だから、相方はいないし、僕の好きな子が女子寮から来ている、なんてことはない。

 それに、明らかにおかしなところがあった。

「目覚まし…」

「え?」

「目覚まし…ならなかった。」

「もう、かけてなかったんでしょ。」

 ああ、応対まで完璧だ。

「もうちょっと寝ていたい。」

「もう、いい加減起きなさい。」

「やだー、もうちょっと寝ていたい。」

 だって、こんなチャンス、これを逃したら、もう二度と無い。

 絶対に、逃すものか。魂をかけても良い。

 全力で布団にくるまり、うつ伏せになる。完全防御の体制だ。

「もう、せっかく作ったのに、いい加減怒るよ。」

 ははは、小鳥が囀ってらぁ。良い声で鳴くねえ。

 絶対嫌だね。ここで起きたら、この幸せが、逃げるじゃないか。

「やだ、醒めたくない。」

「いや、冷めちゃうよ?」

 ?話が、噛み合わない。

 あまりの返しに、理解が追いつかない。

 背中に、軽い感触を覚える。布団越しに、背中を軽く叩かれたようだ。

「…今、何時?」

「…7時40分。」

 ああ、全然間に合う時間、良かった…のか?

「お、おはよう。」

 寝ぼけたままに、身体が覚えている挨拶の言葉を発する。

「おはよう。」

 そう返される。何処か、懐かしい感じがした。

 全身にむず痒さを覚える。


 夢から醒めて、慌てて支度する。寝癖で髪はボサボサ、顔は寝起きでガッサガッサ。こんな姿見られたら、もう、お婿に行けない。

「ご飯、用意したから、食べてね。」

 さっきちらりと見えたのは、豚肉の生姜焼きと味噌汁とご飯だった。

 そういえば、すごくお腹が空いている。

「あ、ああ。」

 動揺が隠せない。何で?疑問符と幸せが交互に浮かんでは消えていく。

「それと、私、好きな人出来たから、紡も頑張ってね。」

「はい?」

「それじゃ、私、行くから。」

 そういうなり、彼女は部屋から飛び出していってしまった。


「え?」


 朝ご飯は、少しばかり、しょっぱかった。


 振られたという実感を他所に追いやり、食器を洗い、家を出る。これなら、ギリギリ、間に合いそうだ。


 学校に着くと、にこやかに「どうだった?」と聞いてくる奴がいた。

 声の主はこの、前の席に座っている奴で、名前は夏江なつえ がく。寮で同じ部屋の、相方だ。だいぶ長い付き合いになる。常に楽観的なお調子者で、この明るさには何度も救われてきた。無邪気に笑う奴で、背は僕よりも少しばかり高い。

「どうもこうもないよ。」

 そういって、ことの経緯を話す。

「もう、そこまで言われたら、他の人にいけばいいんじゃねぇか?」

 そういう岳の顔は何処か濁っていた。

「そんなん出来ないよ。」

 だって、あれだけの出来事があったんだ。他の人なんて、いけないよ。

 岳は、それ以上何も言ってこなかった。


 そうこうしていると、時間になり、先生が入ってくる。先生の苗字は朝賀あさが。僕らのクラスの担任の先生で、年は二十代後半といったところ。黒髪のショートヘアで、ハスキーな声のせいか、生徒にからかわれることが多い。背は、僕の胸までしかない。

 今日も教室は騒がしく、先生が息を切らして注意する。そんな、いつものやり取りを終えて、出欠を取る。


 そこで、ようやく気が付いた。彼女が欠席していた、ということに。

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