ハーフェズ、主のお供をする

 メフラーブはラズワルドとハーフェズ、ナスリーンとマリートを連れて王都の東側へとやってきた。

 王都の東側は王宮があり、貴族の住居が建ち並び、知識を求める者たち垂涎の的である蔵書が十万を超える王立図書館があり、ペルセアの繁栄を支える学術院があり、メルカルト神を祀る神殿の中でも、もっとも由緒ある本神殿があり、真神殿がある。

 本神殿とはメルカルト神やその他の神が祀られている神殿で、一般人でも正面から立ち入ることができる。この場合の一般人は、神の子以外で奴隷から王族まで指す。

 真神殿とは神の子たちが住んでいる場所で、大通りに繋がる青い石で舗装された一本の道のみが、真神殿正面に繋がっており、正面から入れるのは神の子と、彼らに招待された者が正式な手順と儀式を経て通ることができる。

 むろん神の子が一人で出歩くことは無いに等しいので、護衛や従者たちも付き従って青い道を通るが、従者はどれほど急用があろうとも、この道を通ることはできず、大回りして神殿から入り、真神殿の裏側から入ることしかできないと決まっている。


「いやあ、立派な道ですなあ、旦那」


 御者がメフラーブに声を掛けてきた。


「そうだな。お前さんも初めてか」


 馬車にはメフラーブたちだけだが、これは貸し切り馬車ではなく、乗り合い馬車。

 朝早くにラズワルドを連れて馬車に乗り込み「真神殿でファリド公にお話したいことがあってな」 ―― 軽く世間話をしたところ、他の乗客たちが、この馬車で早々に向かわれたほうが良いのではと言いだした。

 御者も乗り気で、終点で全員を降ろすと客を乗せずに広場にいる元締めの所へと行き、神の娘ラズワルドを真神殿までお連れすると告げた。

 ラズワルドを見た元締めは拝跪し「どうぞご自由にお使いください」と ―― 青い道へと続く、メフラーブの家十件以上はある大きな正門を守っている衛兵たちの所で一度止まり、メフラーブがラズワルドを抱いて降り、ファリドに会いに来たことを伝えると、衛兵たちはすぐに道をあけ、先ほどの元締めと同じく拝跪する。

 彼らはラズワルドが乗った馬車が見えなくなるまで拝跪した後、警備に戻った。

 正門を抜けると、庶民は王都城郭外から眺めることしかできない、青いドーム天井を持つ神殿が正面、その両脇に尖塔に現れた。


「そりゃそうですよ、旦那。いやあ、旦那のおかげで、いいもの見れましたわ」


 乗り合い馬車の御者は本当に楽しげに語り、そして真神殿前で停車する。

 真神殿の両脇に控えている衛兵は、いきなり現れた年季の入った馬車に対して警戒し、腰の剣に手を伸ばす。

 馬車から降りたメフラーブは、ラズワルドの顔が彼らにはっきり見えるよう掲げて、あちらこちらを向いた。

 ラズワルドの姿を確認した衛兵は、正門を守っていた衛士たちと同じく一斉に拝跪する。


「お前、凄いな。ラズワルド」


 握り拳を口に突っ込み涎を流しながら笑っているラズワルドの顔を見て、メフラーブはしみじみと呟いて正面から真神殿へと入り、しばらく歩いて見つけた侍女に訪問理由を告げる。

 ファリドたちが来るまで、こちらでお待ち下さいと通された部屋の基本は当然青で、ドーム状の天井から壁、床にいたるまでモザイク技法で幾何学模様が描かれていた。手の込んだモザイクが施されている床の上には、赤く分厚いシルクの絨毯。もちろんメフラーブの家の絨毯とは違い、どこもすり切れていなければ、色褪せてもいない。中央のメダリオンの細かいことといったら芸術品もかくやといった精巧さ。神の子が座る場所には、滑らかな絹製のクッションが置かれている。


「あー」

「ああー」


 ラズワルドとハーフェズはその絨毯ので涎を垂らしながら腹ばいのまま移動し、一目で高級と分かる絨毯を汚していったが、メフラーブはそのままにしておいた。機嫌良く二人が「あーあー」「うーあー」で意思疎通し遊んでいると、一人の神の子が入室した。


「お待たせして申し訳ない」


 ナスリーンとマリートは入室と同時に平伏し、


「いいえ。いきなり来たんで、待つのは当然ですので」

「初めましてメフラーブ殿。わたしはメフルザードと申します」


 メフルザードの供人たちも、入室してすぐに絨毯が敷かれていない部屋の端で平伏する。

 やってきた神の子は額の他に目を引くところがある。それは長さが胸の辺りまである、美髯という言葉がまっさきに思い浮かぶ、手入れの行き届いた髭が顎にたくわえられていた。


「これはご丁寧にどうも」


 神の子に詳しくなかったメフラーブだが、ヤーシャールが通ってくるようになってから、神の子の名と年齢、その人物が普段どのようなことをしているのかを教えてもらっていたので、いま自分の前にいるのがゴシュターブス王太子に付いている、三十過ぎの神の息子だということは分かった。


「急なご用とはなんでしょう」


 メフラーブの前に腰を降ろしたメフルザードに、ラズワルドとハーフェズの二人が近づく。メフルザードは二人を抱き上げ胡座に乗せた。

 二人は目の前で揺れる、メフルザードの首から下がっている青いストラの両端に、各々食いついた。シルクの舌触りが気に入ったのか、二人はずっと咀嚼し続ける。二人が吸っているのは、遠く薫絹国から運ばれた極上の絹だが、吸っている方も吸われている方も気にはしていない。


「精霊王が婚姻の証について言い訳しにきましてな」


 立派な髭には手を出すなよと、念じながらメフラーブはいきなりの訪問理由を告げる。


「精霊王が言い訳……ですか」


 ラズワルドが精霊王の嫁に選ばれたこと、それに関して養父メフラーブが非常に怒っていたことは、全員知らされていたが、まさか精霊王が言い訳に来るとは思ってもみなかった。

 精霊王のような超越した存在がわざわざ弁明する ――


「その言い訳を、皆さんにもしたいとのことです」

「はあ。ラズワルドを連れてきた理由は?」

「精霊王の依り代に必要なのだそうですよ。実際わたしに説明した時も、ラズワルドの体を使いましてね。そこでメフルザード公のストラを吸っている赤子が、突然若い男の声でしゃべり出した時、驚きました」

「若い男の声ですか」

「いやまあ、実際はわたしより随分と年上ですがね」



 精霊王は初代ペルセア王に封印された魔王より早くに誕生したと伝えられている ――



 二時間後、腹がいっぱいになって眠ったラズワルドを神の子たちが取り囲んだ。場所は総青大理石製の六角形の部屋。この部屋は以前、メフラーブに謝罪する人員を選んだり、ヤーシャールが私塾に通うことを言いつかった際に使われた部屋で、顔ぶれもほぼ同じ。違うのはホスローと入れ替わりにウルクから戻った神の娘バナフシェフがいて、最年長のマーカーンではなくストラの両端を吸われ続けたメフルザードがいること。

 白いクッションが積まれた中で眠っていたラズワルドが目を開く。そこには神の子特有の金を散りばめた瑠璃の瞳ではなく、漆黒の瞳があった。


「この体勢のまま話させてもらうぞ、メルカルトの子たちよ」


 横になり襁褓をつけた歯の生えていない赤ん坊の口が、メフラーブの言った通り若い男の声で語り出した。ただ若いが精霊王の声と言われると納得できるくらいの落ち着きもあった。


「代表してわたしが話させていただきますが……お久しぶりですね、精霊王」

「ファリドか。大きく、そしてなにより美しくなったな」

「あなたに美しいと言われるのは、面映ゆいことこの上ありませんが、褒められたと受け取っておきます。そして大きくもなりますよ。なにせもう六年は経っておりますので。あなたにとっては、瞬くに満たない時でしょうが、人にとってはそれなりの歳月なのですよ、精霊王」

「なるほど。では少々急いで説明しようか。とは言っても、お前たちならば気付いているであろう。先日ラズワルドの滅魔の能力が開花した」

「周囲に被害が及ばぬよう、力を制御するために、あなたの妃にした……ということですか?」


 魔を屠る能力と滅魔の能力は、魔に対して攻撃することができるので似ているが、大きく異なる部分がある。

 それは前者魔を屠る能力は、生まれついての魔物か、魔に取り付かれたもの、食屍鬼などを葬る力なのだが、後者の滅魔は魔であれば全て消滅させる。

 魔というものは、何処にでも存在しており、幸か不幸か人間は誰しも魔を持っている。むしろ魔を内在して生まれるからこそ人間であり、魔の存在しない人間はいない。それを生涯押さえ込むか、罪人になるかは地上に生まれた人間の自由 ―― だが、この滅魔の能力は、人間が持って生まれた僅かな魔に対しても容赦はしない。

 魔は人間を構成するのに必要不可欠なもの。それを消滅させられたら人は死ぬ。

 上位の武装神官たる神の子たちは、滅魔の能力を魔を討つのだが、目覚めたばかりの時は原液状態で、さらにラズワルドのような赤子の時点で目覚めると、それを垂れ流している状態。


「滅魔の能力が垂れ流しどころではなく、暴風のような有様だ」

「理由は後付けですね、精霊王」

「いや、後付けではないのだが、ファリドよ。ラズワルドの養父も、信じてはくれなかったがな」

「ふふ。あなたの人間嫌いは、有名ですからね。ラズワルドの力で人間が何万人死のうが、あなたの知ったことではないはず。さらに死ぬ大多数がペルセアの民ともなれば、あなたにとってはこれ以上ない愉悦ですから、ラズワルドの力をせき止めるはずもない」

「人間嫌いが浸透していて嬉しい限りだよ、ファリド」

「まあ特別に信じて差し上げてもよろしいですよ、精霊王。ただし条件があります」

「なんだ?」

「ラズワルドが成長し、能力を制御できるようになったら、口内にある婚姻の証である刻印を消すと、メルカルト神に誓うのでしたら信じて差し上げます。どうです? 精霊王」


 歯のない乳幼児の口元に相応しくない笑みが浮かぶ。


「ファリド」

「分かっておりますよ。精霊は気まぐれなものですが、ひとたび心を奪われたら、その者以外を愛することはないことを。教えて下さったのはあなたですが。それで、これからどうするつもりなのですか?」


 精霊王であれば、神の子であっても意思を無視して精霊界につれて行くことができる。そうするのかとファリドは言外に尋ねた。


「養父から条件が出された。成長したラズワルドがわたしのことを気に入り、結婚しても良いと言ったら許してやると言われた」

「魔王も敵わぬ力を持つあなたが、なんの力も持たぬメフラーブ殿の言いつけを守るのですか?」


 人間嫌いの精霊王とも思えぬ答えに、ファリドだけではなく、その場にいた神の子全てが「何故」と。


「守るというか、気に入ってもらえるよう努力してみようと考えている」

「おやおや。精霊は相手の気持ちなどお構いなしだとばかり思っていましたが」

と同じだとは思われたくはないのでな」

「そうですか。ところで精霊王、一瞬だけラズワルドの力を解放することはできますか? 能力の強さを見たいのです」

「できるが、周囲に控えている人間たちを遠ざける必要がある」

「分かりました。少々お待ちください」


 アルダヴァーンが立ち上がり、部屋の外に待機している彼らの護衛に離れるよう指示を出し ――


「大分遠ざかったようだな。おそらく大丈夫だとは思うが……ジャバードの小僧が死んでもラズワルドを恨むなよ、ファリド」


 神の子たちは再びラズワルドを取り囲んで座った。


「恨みませぬし、ジャバードは死にませぬよ。ジャバードは人間ですので、あなたからしたら殺したいのかもしれませんが、わたしにとって大事なものなので、殺さないでいただきたい」

「わたしは殺さないが、あの小僧が……まあいい、それでは解くぞ」


 精霊王のが消え、ラズワルドの力が怖ろしい速さと密度で広がった。それは普通の人間には、音が聞こえることもなければ、輝きを見ることもできないが、取り囲んでいる神の子たちには、辺りを切り裂くような鋭い力の奔流がはっきりと見て取ることができた。


「暴風……ですか。少し違うような気がするのですが」


 一瞬にして邪なものが死に絶える力を浴び続けながら、ファリドは何事もなく精霊王に語りかける。


「お前たちに分かりやすいように暴風と言ったのだ。この感じ、正確には隕石が衝突した時の衝撃に近い」

「隕石の衝突……あの粘土板に記されているコフェルス衝突のことですね」

「そうだ。地面と隕石が衝突すると、強い衝撃が生じ、建物をなぎ倒す。ラズワルドが放つ力は、隕石衝突の時に起こる現象に似ている」

「そうですか。力に封をして下さい。……ありがとうございました。たしかにあなたが封じてくれなければ、北の下町は全滅だったかもしれませんね」

「そろそろラズワルドが目を覚ましそうだ。ファリド、最後に話がある。近くへ」

「分かりました」


 ラズワルドを取り囲んでいた彼らは離れ、ファリドはラズワルドに覆い被さるようにして、精霊王の言葉を紡ぐ口元に耳を寄せる。


大厄災ラーミンはお前のことを諦めていないぞ、ファリド」

「そうですか……どうしたものか」

「わたしは助けてやると言ったぞ、ファリド。それを拒んだのはお前だ」

「ええ、分かっております」


 ファリドが起き上がると、ラズワルドの瞳の色が徐々に黒から瑠璃へと変わり始める。


「ファリド。精霊王に話したいことがあるのだが、いいだろうか」

「構わんよ、ヤーシャール」


 ヤーシャールは駆け寄り、ラズワルドの文様で覆われている青い耳朶に囁く。


「そうだ。さすがに鋭いな、ヤーシャ……うあーあー」


 ラズワルドの声が天井の高い室内に響いた。

 その後、喉が渇いたらしいラズワルドは、ナスリーンの乳をいつもの倍ちかく飲み、メフラーブとファリドが話している側で、またハーフェズと「あーあー」だけで意思を通じ合わせずりずりと絨毯の上を這い回って遊んでいた。


「ジャバード、なぜ言いつけを守らなかったのですか」


 メフラーブがラズワルドについての説明を受けている頃、ファリドは体調不良に陥ったジャバードの元へと足を運び、自業自得を軽く非難する。


「精霊王が来ると思ってな」


 ジャバードの体調不良はラズワルドの力を浴びたことが原因。神の子たちが盾となり、あまり広がらぬように手段を講じたが、同質の聖なる力同士なので、反発するようなこともなく、抑えきれないそれは隙間から流れ出し、少々外に漏れた。それらを警戒して、人払いをジャバードに命じたのだが ―― ジャバード以外の人間は、建物から一定の距離を保っていたので、被害を被らなかったのだが、事情を知っているジャバード本人が、なぜか建物の近くにおり、体調不良に陥ったのだ。


「たしかに現れましたよ。久しぶりだと挨拶もされましたが……前にも説明しましたが、精霊王はわたしに興味はありません。わたしを精霊界に連れ去ったのには理由があるのです」


 ジャバードが言いつけを守らなかったのは、過去にファリドが精霊王にことが原因。数日前にメフラーブの家を訪問した際も、精霊絡みなので警戒し、側を離れようとしたなかったためであった。


「理由を教えて下さったら、心配はいたしませぬが」


 もっとも「拐かされた」はジャバードから見た場合であり、当事者であるファリドは、そう感じてはいない。


「理由を聞くと、もっと心配したくなるでしょうね。だから教えられませんよ……さあ、眠りなさいジャバード」

「少し側にいていただけませんか」

「わたしが側にいないほうが、早く治ると思うのですが。ジャバードがそういうのでしたら」


 ファリドはジャバードの額に手をそっと乗せた。


「さあ、目を瞑りやすみなさい。目覚める時まで、側にいますから」

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