ハーフェズの主、精霊王の妃となる
ラズワルドがメフラーブの養女となり ―― 年が明けてペルセア王国歴三一三年。
メフラーブの私塾に通う十代はヤーシャールとアルサランだけであった。
名家の生まれであるヤーシャールと、元傭兵で今は奴隷商人のところで働く十三歳のアルサラン。生まれや境遇はまったく違うのだが、武術に長じているという性質と、年齢の近さからすぐに打ち解けた。
「御主の子をあやす技は見事なものだな」
「奴隷の子をあやしていたら、自然に身についたのですよ、ヤーシャール」
仕事を終えたあとに食堂で待ち合わせをして、料理囲み酒の入った杯を掲げ、他愛のない会話をする仲になっていた。
「御主のあぐらの中ですやすやと眠る姿をみていると、羨ましくて仕方がない」
「ヤーシャール公のあぐらの中では、何故か激しく動こうとしますねえ。神の子同士、なにかあるのですか?」
「いや、何もない……と思う。だが仮なれど兄弟なのだから、もう少し懐いてくれてもいいではないか」
食堂で二人は一際注目を集めていた。
神の子というだけで、衆目の目を集めるのは当然だが、それ以外にも理由があった。
注目の理由は二人の容貌。
ヤーシャールはメルカルトの子特有の金混じりの瑠璃色の瞳と、青みがかった黒髪。整った目鼻立ちに、意志の強さを感じさせる引き締まった口元。
武術で鍛えた体は瑞々しくしなやか。黙っていても育ちの良さと知性が滲み出ており、貴公子然としているという言葉を体現している。
「兄弟だから甘えているのかも知れませんよ」
「ならば嬉しいが、そうではなさそうなのが」
「そうお気になさらずとも。そうだ、ヤーシャール公。ラズワルド公はそろそろ、粥ならば食べられるそうですよ」
「そうか。食べられるようになったら、是非とも食べさせたいものだ」
アルサランは黒髪に黒い瞳に白い肌。色彩だけならば、特に珍しくはないのだが、その黒髪は艶やかであり、肌は白粉を塗った女よりも肌理細か。黒い瞳は「黒みがかった茶色い瞳」とは別物で磨きぬかれた黒曜石のような輝きを放っている。
顔だちは美しいの一言に尽きる。
だがペルセア人だけの顔だちではなく、近隣諸国の人種とは全く違う。かといって更に東の薫絹国の顔だちでもなければ、西のヘレネス王国やラティーナ帝国の顔だちでもない ―― 要するにペルセアの王都ナュスファハーンでは珍しくない混血に混血が重なったものと推測される。アルサランには親の記憶はないので「混血なのかどうかも、はっきり分からない」とのこと。
手足は長く身長はその年にしては高め。剣を振るう姿はなめらかの一言で、剣舞を舞ったらさぞや美しいであろうと思わせる。
話に花を咲かせ料理を食べ終え、上機嫌で葡萄酒を口へと運んでいる最中、ヤーシャールは記憶の片隅にあったことを思い出した。
「ああそうだ、酒がすこぶる不味くなる話題だが、聞いてくれぬかアルサラン」
「なんでしょうか、ヤーシャール公」
「キアーヌーシュの刑が先日執行された。額に犯罪奴隷を表す焼き印を押して、先日王都から採石場へと送られた。ゴフラーブの耳にでも入れておいてくれ」
「分かりました。あの痴れ者、やっと王都を去りましたか」
違いに葡萄酒を注ぎ合い、満たされた杯を掲げて飲み干した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
仕事の合間を縫って私塾に通うアルサランとヤーシャールは、機会が合わなければ、半月ちかく顔を合わせないこともある。
「粥を食べられるようになったのか」
久しぶりに私塾にやってきたヤーシャールは、マリートが煮ている粥を見て、是非とも二人に自ら食べさせたいと希望した。
「お待ちくださいませ、ヤーシャール公。ラズワルドさまは、少しゼレシュクを混ぜると、よく食べてくださるのです」
そう言ってマリートは米粥に刻んだ甘酸っぱいゼレシュクを軽く混ぜて、木の器に盛りつける。
一つの器はナスリーンが受け取り、息子のハーフェズへと木の匙で運ぶ。
「……」
「どうした? ヤーシャール公」
米粥が入った器を受け取り、意気揚々とラズワルドの口へと粥を運んだヤーシャールの表情が曇ったのを見て、メフラーブが声をかけた。
ヤーシャールは空になった匙に触れ、首を傾げる。
「うあーあー」
ラズワルドは早く次を寄こせと声を上げ ―― ヤーシャールは神経を集中させて、ラズワルドの口に再度粥を運ぶ。
口を動かして粥を吸い込むラズワルド。そして疑念が確信一歩手前にまでたどり着いたヤーシャール。
「メフラーブ殿。これから、神の子を数名呼びたいのですが、よろしいでしょうか?」
「それは構わないが、なにかあったのか?」
「よからぬとは言いませぬが、少々厄介事が」
ぷっくりと膨らんでいる頬を、元気に動かしながら粥を食べているラズワルド ―― 粥を食べ終えた赤子二人は、仲良く眠りに落ちた。
そんな気持ちよく眠っている赤子を残して、マリートとナスリーンは一階の私塾教室の掃除という名目で二階から立ち去った。
二人が階下に移動してから数分後、複数の馬蹄と共に青くぬられた馬車がメフラーブの自宅前に停まる。
「呼んで参りますので、暫しお待ちください」
二人の赤子を見守っていたヤーシャールが、タイル一つ貼られていない殺風景な石造りの階段を軽快に駆け下り、急ぎ主要面子を連れてやってきた。
「メフラーブ殿。ファリドとアルダヴァーン、ボゾルグメフルとジャバードです」
ボゾルグメフルとジャバードの名は聞き覚えのないメフラーブだが、青く体を覆うほどの長さのヴェールをまとい、月桂樹の冠を被っている美しい少年だけは見覚えがあった。
「初めまして、ラズワルドの養父殿。わたくしファリドと申します」
美しい顔だちを更に美しく際立たせる装飾としか見えないメルカルト神の文様。煌めく金髪は、陽光や月光ではないが、光の輝きを持っていると形容するのが相応しい ――
その
「お久しぶりですな、メフラーブ殿」
ここまでは一応顔見知り。後の二人は、名を名乗られたが、全く覚えがなかった。
「ジャバードと申します」
ジャバードは銀製の篭手と青く染められたマントをはおり、メルカルト神の意匠が施されている剣を腰に佩いている格好から、武装神官なのはメフラーブも分かったが、どの程度の階級なのかは判断が付かなかった ―― まだ少年としか言えないほど若いので普通に考えれば一兵卒だが、この場に一兵卒がやってくるとは考え辛い。
「ボゾルグメフルといいます」
ボゾルグメフルと名乗った、アルダヴァーンと似たような年齢の男性は、格好は市民そのもののズボンに長上衣という簡素なもので、着衣から立場や階級を判別することはできなかった。
精々特徴があるとすると、顔に描かれている幾つかの模様。色や大きさ、形も違っているので、ヘナで描く魔除けの文様というわけでもないことだけはメフラーブも分かったが、それ以上は見当もつかなかった。
普通はそこで自己紹介をしてもらう所なのだが、そこはメフラーブ。必要ならば説明してくるだろうと判断して先を促す。
「お越しになった理由は?」
メフラーブは今回、彼らが腰を降ろす前にクッションを手渡すことに成功した。もっとも座ったのはヤーシャールとファリドとアルダヴァーンの三名のみで、ボゾルグメフルとジャバードの二人は、クッションを渡してきたメフラーブに感謝は告げるが「神の子と同じ高さには座らないので」と辞退する。
”そういうものなのか”と使われないクッションを自分の横に積み、メフラーブは座って事情を尋ねた。
「ヤーシャールからの手紙には、ラズワルドが精霊の妻になった可能性があるので、確認して欲しいと書かれておりました」
前回とは違い、上座のもっとも偉い人が座るところに腰を降ろしたのはファリド。だが口を開いたのは、次席についたアルダヴァーン。様々な序列があるのだろうなと思うところであろうが、彼の関心は知らぬまに現れた養女の結婚相手に集中した。
「精霊の妻? 精霊使いになったということか?」
メフラーブは現実的な錬金術師だが、神秘も精霊も否定はしない ―― ペルセア王国歴時代は、まだ神や精霊の存在が色濃かった時代である。
「ボゾルグメフル、説明を」
「はい、アルダヴァーン公。わたくしは、王家付きの精霊使いボゾルグメフルと申します。以後、お見知りおきを、メフラーブ殿。さて先ほどメフラーブ殿が仰った「精霊使いになった」ですが、わたくしの顔に刻まれているこの模様は、精霊との契約の証にございます。ですがこれは婚姻ではありません。精霊と婚姻の証は口内に刻まれます。精霊が口づけるのですよ」
「ラズワルドの口内に精霊妻の証があるってことは、いつの間にか口づけられたってことなのか?」
「はい。ラズワルド公の口内に匙を運んだヤーシャール公が、その違和に気付かれたのです」
「ふーん。で、誰がラズワルドの口内に、勝手に婚姻の証を刻んだんだ?」
「ラズワルド公の神聖にして強大なメルカルト文様にかき消されてしまい、実物を見なければ分かりません……そう言うつもりでしたが、ラズワルド公の口内を拝見しても分かりません。ですが拝見せずとも分かります」
「どういうことだ?」
「ラズワルド公を
見初められたと聞かされたメフラーブは、自分の隣でハーフェズの手を握って涎を垂らして眠っているラズワルドを見て ―― 内心で精霊王に毒づいた。
「本当か? ボゾルグメフル」
婚姻の証が刻まれていることに気付いたヤーシャールも、まさか相手が精霊王だとは思いもしなかったが、ボゾルグメフルの説明を聞き、自分が匙を通して違和感を察知できた理由に納得もできた。
「ラズワルド公の神の力は強大の一言に尽きます。これほどの神の力に消されぬ力ですので、精霊王以外は考えられませんし、精霊王以外の精霊では、勝手に契約を結ぶことはできませぬ」
最初に話を聞いた時、ボゾルグメフルは「神の子相手に、精霊が勝手に契約刻むなど。そんなこと、できるはずがない」と ―― 半分は信じていなかった。だが相手が精霊王となると話は違う。
「あの人間嫌いが、まさか人界から妃を選ぶとは……信じがたい」
ボゾルグメフルの言葉を聞いても、アルダヴァーンはまだ半信半疑であった。
「わたくしも信じられませぬが」
「メフラーブ殿、少々ラズワルドに指をくわえさせますが、よろしいでしょうか?」
ジャバードが持参していた小皿を床に置き、水筒の水をファリドの指先にかける。
「なにをなさるおつもりで?」
指の水を拭き取ったファリドは、ラズワルドの口内の契約を解除してみると申し出た。
「一方的な契約なれば、無効にする力がわたしにはあります。もっとも相手が精霊王となると、どうなるかは分かりませぬが」
精霊というのは気まぐれで我が儘で、たまに気に入った人間に対して、勝手に婚姻の証を刻むことがある。
証を刻まれたところで、無害であれば良いのだが、相手は人間とは違う存在。往々にして害があり、生活を送るのが不自由になることが多い。
精霊使いに解除を依頼する人もいるが、解除してもらったところで、再び勝手に婚姻を結ばれての繰り返しとなる。
こうして知らぬまに精霊の伴侶とされた者は、最終的に諦めて精霊と結婚するか、死んで逃げるか、もしくは精霊使いとなり、自分に勝手に口づけた精霊よりも高位の精霊と契約を結び、身勝手な求婚者を退けるかの三つの道を選ぶこととなる。
ラズワルドは精霊王の妃の証が刻まれたので、精霊使いになったところで、協力してくれる精霊はいない。
かつて精霊王に精霊界から追われた魔王ならば手を貸すかもしれないが、人間にとっては脅威の力を持つ魔王であっても、力をそぎ取られ精霊王相手には最早戦う術を持たない ―― もっとも魔王はまさしく魔であり、対極の聖に位置するラズワルドに近づくことはできない。
「どうぞ」
ファリドは片手でラズワルドの頭を撫で、もう片手の人差し指を口に差し込んだ。ラズワルドは眠ったまま、きゅっきゅっと音を立てて指を吸い ―― そして火が付いたかのように泣き出した。
「済まない、ラズワルド」
顔を真っ赤にして泣き叫ぶラズワルドにファリドは謝るが、その声は直ぐにかき消されてしまう。そしてラズワルドの泣き声を聞き眠っていたハーフェズも目を覚まし、そのままつられて泣き出す。
「どうした? ファリド」
ラズワルドを抱き上げ、あやしているアルダヴァーンの問いに、
「思いのほか強固で、痺れが走りましたよ、アルダヴァーン。ラズワルドの口内にも同じ痺れが走ったのだとしたら、驚き痛みで泣き出してもおかしくはありません」
ヘナで染められている爪を握りこみ、苦笑しながら答えた。
「ファリド公。指は大丈夫ですか?」
「わたしは大丈夫だ、ジャバード。申し訳ございませんでした、メフラーブ殿」
「いいや」
メフラーブはアルダヴァーンの腕の中で泣き止まないラズワルドを受け取り、肩に預けるように抱き、おしめに包まれている尻を小気味よく叩く。
「もうちょい大きくなったら、頼んでいいですかな、ファリド公」
メフラーブの肩を涎で濡らしながら泣き続けるラズワルドの大声に負けぬよう、大声を張り上げて話を続ける。
「はい……ですが、相手が精霊王となると、いつ連れ去られるか」
「精霊王とかいう、本人とその父親の許可なく、唇を奪っていく礼儀知らずに、ほいほいと娘を渡すほど俺もお人好しじゃない。まったく礼儀と常識のなってない野郎だ。それと今日はこんなことになってしまいましたが、何時でもお越しくださいなファリド公」
昨年末に「ファリドが会いに来るでしょう」と言われていたが、年が明けて月が変わってもファリドはラズワルドに会いに来てはいなかった。
なにせ年が明けると神殿には、新たに神に仕えようとする者たちが訪れ、使徒となるべく地下神殿入りをし、その結果を鑑みて配属先を決めたりと、かなり忙しい時期である。もちろんファリドは雑事には関わらないが、神殿入りする者たちの顔と名を覚えたり、自身が最強の武装神官である故に、新入りに稽古を付けたりと ―― 気付けば春が間近に迫る季節となっていたのだ。
「ありがとうございます。今度は寝顔と泣き顔だけではなく、笑顔を見たいですね」
泣き続けるラズワルドの口内が見える位置にしゃがみ込みボゾルグメフルは、刻まれた証を確認したが、精霊王は人間と契約を結んだことがないので、どのような紋が刻まれるのか誰も知らないので ―― それが精霊王の紋なのかどうなのかまでは分からなかった。
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