第59話 湯煙の向こう
コロナの自粛が終わり、旅行へ出かける方も多くなりましたね。
Aさんも学生時代の友人たちと、旅行へ出かけたそうです。
その日は少しばかり張り込んで、山間のちょっと高級な温泉宿に泊まりました。そこの売りは露天風呂と美味しい食事で、Aさんたちも風情のある温泉を楽しみ、手の込んだ夕食に舌鼓を打ったそうです。
一段落すると、仲間のうち、AさんとBさんはもう一度露天風呂に入ることにしたそうです。
廊下の灯りは間接照明で柔らかい光を投げかけており、耳をすませば近くの川の流れる音や葉ずれの音が聞こえてきます。(BGMだったのかも)
都会であれば、そんなに遅い時間帯ではありませんが、旅館というより、宿という響きがぴったりのこじんまりとしたその温泉宿は静寂に包まれて、まるで時間が止まったような、どこか別世界にいるような感じがしたそうです。
もう少しで大浴場の露天風呂につくという時に、Bさんはハタと立ち止まりました。
「あ、タオル忘れた。取りに行ってくるから、お前、先入ってて。」
「わかった。気をつけてな。」
AさんはBさんの背中を見送ると、脱衣所の暖簾をくぐったそうです。
Aさんは軽く体を洗うと、露天風呂のある、庭園に続くドアを開けました。
目隠しの竹垣の障壁を通り抜けると、濃紫の山々に囲まれた、満天の夜空が目の前に広がっています。
研ぎ澄まされた外気はひんやりと濡れた裸の体に冷たく、Aさんはそそくさと湯煙の立つ露天風呂に身を沈めました。
「あぁ……生き返るなぁ!」
思わず感嘆の声を上げたAさんは、その声に応えるように温泉の隅の方から聞こえてきた笑い声に、驚いて振り向きました。
「ああ、失礼。あんまり気持ち良さげな声だったもんで。」
声の主は軽く水音を立てて、湯船の屋根に掲げてある、やわらかなオレンジ色の光の下の方へ移動してきました。
それは60前後の、柔和な笑顔の男性だったそうです。
「てっきり誰も居られないと思ったもんで、こちらこそすみません。」
「いえいえ、本当に気持ちの良い湯ですよね。どちらから来られたんですか?」
その男性は、周辺の地の見所や言われなど、深い知識をもっておられ、タオルを取りに行っていたBさんも参加して、3人で楽しく会話をしたそうです。
「僕らはそろそろ上がりますけど……」
すっかり長湯になったとAさんが切り出すと
「そうですか。私はもう少し入っていますよ。名残惜しいですが、お気をつけて。」
その人はニッコリ微笑んでいったそうです。
「あの人、大丈夫かなぁ?かなり長湯じゃね?」
脱衣所で服を着ながら、AさんはBさんに話しかけました。
「う〜ん」
気になるけど、余計な世話かもしれない。
二人が顔を見合わせたそこへ、Cさんが入ってきました。
「あ〜、もう上がるんだ。」
「お前、いいところに来た!」
AさんとBさんは、Cさんに浴場におられるおじさんの話をし、心配なので様子を見てくれるように頼んだそうです。
「えぇ?」
Cさんは気が進まないようでしたが、ちょっと気にかけるくらいならと、浴室へむかいました。
そしてすぐに出てきました。
「露天風呂の方には、誰もいないぞ?」
「え、どういうこと?」
2人は露天風呂の方へいくと、Cさんが言った通り、あの男性の姿はありませんでした。
露天風呂の周囲には石垣や竹垣が巡らされており、そこから外に出るのには、脱衣所の方へ戻るしかないのです。
「もしかしたら、従業員用の出入り口があるんじゃないの?」
茫然とするAさんとBさんに、Cさんが言いました。
上手に隠されているのか、3人にはそのドアを見つけることは出来ませんでした。
「多分、ここの人なんだよ。風呂の出入り口なんて、客に分かるといけないから、分からないようにしてあるだけだよ。」
Cさんは、不可解そうな顔の2人に言い聞かせるようにいいました。
そうです。そうとしか考えられません。
ただこれを教えてくれたのはBさんは、後から風呂へ入って行った時に、Aさん1人しかいないように見えたのだそうです。
別に霧のように、湯煙は視界を塞いでいた訳でもないのに……
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