第二章 愛し方を知らない、②

 長男は特に病気をすることもなく、ミルクをよく飲んでよく寝て大きくなった。母子手帳にある成長曲線のページの、ちょうど平均をたどっていた。

 私は自分の育児に自信を持っていた。私は長男を叱ったことも注意したこともない。私を育ててくれた母と同じ、これが母親というものなんだと思った。そして長男が三歳になったとき、また妊娠した。


 ぼんやりと、今度は女の子がいいなと思っていたが、次も男の子だった。少し釈然としない気持ちで、でも堕ろすほどこだわりがあるわけじゃないしな、と思って過ごしていた妊娠四ヶ月のころ、ひどい出血をした。

 五月の陽気がぽかぽかと心地よい朝だった。夫を送り出して、リビングで長男とテレビを見ていたときだった。突然お腹が痛くなり、経血が出たような感覚があってトイレに行くと、便器が鮮血で染まった。

 恐ろしくて恐ろしくて、パニックになって血が流れる股を手でおさえ、パンツをあげるのを忘れてトイレから出た。その後どう行動したのか覚えていないが、なんとか産婦人科に行ったら、切迫流産と診断され、隣の区の総合病院に入院することになった。

 長男は有給を取った夫が見てくれることになったが、青ざめてパニックを起こした私の顔と、廊下のおびただしい血の痕を見たであろう長男の表情を、私は覚えていない。パンツも履けなかった私がどうやって産婦人科に行ったのか、そのとき長男は何をしていたのか。

 ただお腹の子を守りたくて、ただそのことを強く念っていたことだけの記憶しかない。私は、そのとき長男に何かひどいことをしたのかもしれない。


 入院生活は一ヶ月ほどだった。二十四時間点滴に繋がれ、大部屋のベッドプラスαだけの狭いスペースに閉じ込められた。

 自分自身ですら全く制御できないお腹の張りに脅え、ひたすら耐えるだけの、不安しかない途方に暮れるほどの長い時間。

 いま産まれてしまったら助からないかもしれない。

 助かったとしてもどんな障害が残るかわからない。

 大人しいとはいえ活発に動くようになってきた長男がいるのに、私に障害児の世話ができるのだろうか。ただおっぱいを飲ませておむつを替えて寝かせて、六ヶ月が過ぎたら離乳食を与えて歩き出したらサークルに入れて、何の苦労もない長男のシンプルな子育てしかしていない経験が通用するのだろうか、しないことがわかっているから、この妊娠すら後悔した。

 よその子どもの数倍いい子に育ってくれた長男だけを愛して生きていきたかった。長男と、夫と、三人の生活が幸福度100%なら、お腹の子が産まれたら120%になると思っていたのに、80%になるかもしれない。50%かもしれない。0%かもしれない。この、お腹の子さえいなければ、私の人生は100%だったのに……。

 母親として、人としておぞましいとしか思えないそんな思考に囚われるようになってきていたころ、点滴の量が減った。胎児の心拍も問題なく、まずい病院食でも平均的な大きさになり、私は妊娠六ヶ月を迎え、退院した。


 無事かどうかはともかく、退院したその後も早産の恐怖は消えなかった。子宮口にポリープができ、出血が続いていたため、感染が怖くてお風呂に入っても浴槽に浸かれなかったし、大きくなる子宮に膀胱が圧迫され頻尿になっているのに、ティッシュにつく血を見るのが怖くてぎりぎりまでトイレを我慢したりしていた。

 気持ちに余裕がなく、常にいらいらしていた。そんな私を気遣う長男がまたうっとうしくて、優しくできずにいた。公園遊びが大好きなのに、一日ベッドに伏せって外出する気もない私を起こすでもなく、一人リビングでブロックや折り紙をして遊んでいた。

 五十枚入りの折り紙なんて二日でなくなってしまうのに、長男の机の上に置かれた正方形のビニール袋が空っぽなのを見ているのに、新しい折り紙を買いに行くのがおっくうで、「買ってあげようか」の一言が言えずにいた。長男は折り目のたくさんついた折り紙を広げ、何度も折っていた。せっかく作った象は、飛行機になったり、ピアノになったりした。青いやっこさんは椅子になり、またやっこさんに戻ったりしていた。それでも、新しい折り紙が欲しい、という要求を一度もしなかった。

 たった三歳なのに、母親の顔色をうかがっている長男の顔を見るのが嫌になっていた。

 そして季節がひとつ過ぎ、次男の輝夫が産まれた。とても安産で、長男のときの半分の時間で出てきてくれた、親孝行者だった。心配していた障害は何もなかった。眉と目が私に似ていた。この子さえいなければ、と思っていた私の思惑を知らない、ただ無垢な瞳でおっぱいを求めてくる輝夫は、私の宝物になった。

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