第二章 愛し方を知らない、①

 母はとても優しい人だった。文字通り、ただ優しい人だった。幼い私が家の壁に落書きをしようが、母の嫁入り道具の桐箪笥に安全ピンでひらがなの練習をしようが、昼寝をしている母の髪を線香で焼こうが、怒ることはなかった。

 父には叱られた。公務員の父は、子どもが悪いことをしたら叱る、普通の父親のようだった。

 しかし、三度を超えても笑みを絶やすことのなかった仏以上の母も、私には普通の母親だった。私は母が好きだった。でも、私は母のようにはなれなかった。


 短大を出て、三年ほどつまらない事務の仕事をして、結婚をした。つまらない男が夫になった。勤めた運送会社の上司だった。私に甘い男で、夫婦関係と言うより、主従関係だったように思う。もちろん私が「主」だ。

 厳しい父の目の届かないところで思う存分甘やかされ、当然のようにわがままに育った私が選んだこの夫は正解だと当時は思っていたが、選択権を持っていたのは私ではなかった。いま思えば、ただ歳を食っただけの男しか、私を妻にしようとはしなかっただけのこと。その男もまた、母同様に、仏を超えた笑顔を常にたたえていた。私の子どもに、その顔を向けていたかは興味がなかったから知らない。


 結婚して三ヶ月後に、長男を出産した。いわゆるデキ婚だった。妊娠しなければ結婚なんてしなかったし、そのときたまたま付き合っていただけの夫と一緒になろうなんて思わなかっただろう。

 ただ、私は子どもは好きだった。検査薬が陽性を示したのを見たとき、独身だったが、堕ろそうなんて全く考えなかった。私に意見をしない母親はもちろん、意見しかしなかった父親は反対しただろうが、そのときには両親は離婚して父はいなくなっていた。

 友人の前では、若いのに思わぬ妊娠をしてしまった悲劇の女を演じ、会社では被害者を装った私を咎める者はいなかった。妊娠中期まで続いたつわりは辛かったし、ただのデブのような動作しかできないことがうっとうしかったが、産婦人科で胎児が動いている映像を見たときは、涙が出た。安定期を超えた頃の、控えめな胎動が愛おしかった。

 大きなトラブルもなく、三十九週を過ぎた。まる一日続いた陣痛を乗り越え、長男が産まれたとき、何もかもが満たされた気がした。私は幸せだと感じた。


 長男は手のかからないいい子だった。新生児の頃から、おっぱいを飲ませれば五時間はすやすやと寝てくれたし、夜中の授乳も、一時頃に一回起こされるだけだった。

 通っていた地域の赤ちゃん教室で会うママたちが言う、


「もう、すぐおっぱいおむつ、おっぱいおむつできりがなくてー、出産してから三ヶ月、二時間以上連続して寝たことないのよー。横で旦那がいびきかいて寝てるの見て腹立って腹立って」


「この子、日中ずっと泣き止まなくて……夕方なんて特にギャン泣きで、ずっと抱っこなの。隣の家に聞こえないかドキドキしちゃって。ご飯なんて片手で食べれるおにぎりが精一杯で、泣き声で頭痛くなるし、抱きすぎで腱鞘炎になっちゃった」


「うちはうんちが出なくて、毎日綿棒でおしりの穴突っついてるのよ。それでこないだ、勢いよく出過ぎちゃって、自分にかかるわベッドのシーツとマット全取り替えだわ、大変だったー。で、午後マスクして買い物行ったらなんか臭いの。何かと思ったら、あごにうんちついてた!」


というような愚痴は、どれも私には理解できなかった。

 ちゃんとやれば赤ちゃんは泣かないし抱っこをせがまないし、いい子なはずなのに、みんな怠慢してるんじゃないかと思った。しかし、みんなが盛り上がるような愚痴がない自分が少数派で、長男と同じ月齢の赤ちゃんを抱えたママたちは、何かしら問題を抱えているのが当たり前のようだった。

 それでも、だいたいの人は幸せそうで、目の下にクマを作り、やつれた、もしくは産後太りが解消されない顔でため息をつきながらも、笑顔で話をしていた。

 それが少しうらやましくもあった。私の子みたいにいい子で何の問題も心配もなく、出産後からぐっすり寝かせてくれてご飯も普通に食べさせてくれて、家事も思うようにできて自分の時間もあって、というのが子を持つ母親の幸せだと私は思っていたのに、それらが何もないママも、幸せを感じているんだと思うとなにか納得がいかない気がした。

 そう思っているのが顔に出ていたのかもしれない。私にはママ友というものができなかった。


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