第一章 ぶん殴ってからの、ラブレター・終

「僕」を見た。


「……続きを読むわね。


《家事を休憩していたら、年中の娘が膝枕をしてくれた》


《家事がやっと終わったら、兄妹が仲良く遊んでいて、コーヒーを一杯飲めた》


《寝かしつけをしていたらいつの間にか先に眠ってしまっていたが、ふと目覚めると、子どもたちが自分にぴったりくっついて寝息を立てていた》」


 彼女は泣いていた。


「《入院していた子どもが退院した》


《子ども同士で旅行に行っていた》


《子どもたちが、夢を見つけて、がんばっている》」







 あたりは夕闇のように朱く、暗くなりかけていた。

 彼女は小さくなり、ランドセルを背負い、膝を抱えて泣いている。

 僕は、彼女の前にうずくまり、おさげをした小さな頭を撫でていた。

 僕は彼女を思い出している。隣の家の、小さな女の子。

 彼女の両親は共働きだった。家に誰もいなくて、寂しいと、僕の家の前で泣いているのだ。

 僕も家には居づらくて、彼女と、マンションの廊下にいたりした。

 たまに、彼女の両親が置いて行ってくれたお菓子を分けてもらったりした。

 僕の母は、家に居なかったり、居たとしても、僕を見ることはなかった。

 用意されているご飯は一人分。僕の物か、弟の物かわからなかったけど、毎日弟と二人で分けて食べた。

 僕のパジャマはなかった。

 中学に上がる前の春休み、僕の制服と通学鞄が生ゴミ置き場に投げ捨てられた夜、僕は家を出た。

 そのとき彼女は、四月に六年生になる頃だっただろう。

 僕が会った、最後の少女。


「……お兄ちゃん」


 まだ、かろうじて、痛みを知っていることは、少女の涙が証明していた。でも、たぶんここまでなのだろう。僕が会える彼女は、僕が最後に見た少女までなのだ。そして彼女もそれを知っている。


 泣きながら、諦めた笑顔で少女は僕を見つめた。


「これが最後かな。私の《幸せ》、全部伝えられなかったね。おしゃべりしすぎちゃったけど、あなたの人となりをさらけ出しなさいって、そしてきっとここまでだよって、最初から神様が決めていたんだと思う。一番伝えたいことは、一番伝えたい姿で言いなさいって。お兄ちゃん」


 ぼろぼろと目から落ちる涙をぬぐって、少女は言った。


「お兄ちゃん、ひとりぼっちだった私と一緒にいてくれてありがとう。いつも泣いていた私に優しくしてくれてありがとう。勉強を教えてくれてありがとう。ずっと一緒にいたかった。一緒に中学校に行って、高校生になって、大人になったお兄ちゃんに会いたかった。頭が良くて剣道が強くて、何でもできたお兄ちゃんは、私のヒーローだったよ。なんで死んじゃったの、なんで自殺しちゃったの? ねぇ、お兄ちゃん!」


 叫び声に比例して、少女が消えていく。隣の家に住む、素直で可愛くて明るくて、でもさみしがりやの、互いにひとりぼっちだった、僕の友だち。

 自殺した僕に会いに来て、叱ってくれた、大切な友だち。


「お兄ちゃん! 教えて! なんで死んじゃったの? お兄ちゃん!」


 もう、最後だ。僕には、泣く権利はない。彼女が欲しがった、たったひとつのものすらあげられない。


 なぜ、自殺したのか。


 死んだ僕にはわからなかった。


「……ううん、いいや、やっぱり。ごめんね。……お兄ちゃん」


 僕の顔を見た少女が、はにかんだ。


「あのね」


「ありがとう」


 そう言うのを確認して、少女は闇に溶けた。


 僕は、いつの間にか、僕に実体があることに気付いた。

 死後、記憶もなく、顔も身体も持っていなかった僕は、何もない場所にただ立っていた。

 死ぬ前、僕は地獄に行くんだと思っていた。その方がよかったのかもしれない。彼女が言うには、八十二年もの間。僕は何もせずただ立ち続けていた。ただひとつだけ生前から持っていた澱みを抱えて、ずっと変わらぬ解決できぬ暗い悲しい気持ちを持ち続けたまま、八十二年。立っていた僕を、彼女は見つけてくれた。


 あたりは暗い。彼女に殴られてから、僕のまわりは白熱灯のように白く輝いていた。彼女がいなくなって、光も消えた。でも、彼女がいた場所だけがまだ輝いていた。そこにノートがある。

 ノートを手に取る。僕にまだ手があることに驚きながらも、ノートを開いた。彼女の子どもたちが巣立ったあとの、《幸せ》が書かれていた。


《猛暑の年、我慢していた冷房をつけた》


《野良猫が近づいて来てくれた》


《孫たちのために、アップルパイを焼いた》


《焼きたてのアップルパイに、ハーゲンダッツのバニラを乗せた》


《実家の軒下にツバメの巣ができて、小さなツバメが巣立っていった》


《一時帰宅していた父と、母と、テレビを観ながらお昼ご飯を食べた》


《母と、お花見をした》


《旦那を看取った》


《自宅に帰ってきて、うつらうつらしているとき、誰かわからないけど、頭を撫でてくれた》



 彼女の几帳面な筆跡が残る最後のページはその、一番新しい《幸せ》で終わっていた。

 彼女の人生が詰まったノートを閉じかけた瞬間、裏表紙を返したページに、幼い古い文字があることに気付いた。



《あなたが死んで》


《あなたが死んでも、幸せでした》


《あなたにもきっと、同じような幸せがあったことを祈っています》



 死んでも彼女が届けてくれたラブレターは、そこで終わっていた。

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