第一章 ぶん殴ってからの、ラブレター⑤

「次は、OL時代かな。


《美容院帰り》


《休み前、目覚まし時計をかけずに寝る》


《誕生日、奮発して鉄板焼きを食べに行った!》


 あは、やっぱり食べることが入ってる! 食べるの、大好きなんだよね。太らないように気をつけてたなぁ。このあと結婚して仕事を辞めて、子どもができるまで家事ばっかり、というか、ご飯ばっかり作ってたから、食欲をセーブするのが大変だったのよ。


《半日煮込んだ豚の角煮がほろほろになった》


《餃子が上手に包めた》


《ベランダで育てている大葉が死ぬほど 出来た》


《初挑戦した牛すじカレーが当りだった》


《ささっと作ったおつまみで、旦那が美味しそうにビールを飲んだ》


 美味しいのって、幸せだよね……。でも、家事もちゃんとやってましたよ?


《スーパーの割引商品を買って、帰ってからレシートを計算するとき》


 うーん、苦学生の名残が……」


 彼女は苦笑いをした。やっぱり、喋るたびに少しずつ若くなっているように見えるが、妙齢の女性の年齢は僕にはもうわからない。


「それでね、慎ましくもそうやって食い道楽やってたら、子どもが産まれたのよ。大変だった……とにかく、大変だったことしか覚えてないわ。でもね、この時期のノートが、たぶん一番濃いのよ! 子どもがいることは幸せ、それは一般論なんだけど、《子どもの存在が幸せ》なんて言えるのは、自分で気付こうと思わなきゃ気付けないのよ、それくらい、とくに乳児期の育児って大変だと思う。自分のことを考える時間がないんだもの、さらにその奥深くの《自分の幸せ》なんてものに割く時間がないのよね……。だから、濃いの、このノートは」

 そう言って掲げて見せてくれたノートの表紙をよく見ると、ボロボロというより、ぐちゃぐちゃだった。いろいろな色、クレヨン? で描かれた、なにものでもないラクガキ、貼っては剥がされたシールの跡、破れた裏表紙とセロハンテープでの修正の痕跡。彼女の育児期が壮絶だったことを物語っている。


「そうなの、まずは《幸せ》より《時間》の確保なのよ!


《乳児の昼寝中》


 もう、この字面だけで幸せ! 起きるまで五分も保たないことなんてザラだけど、この解放された感は、ノートには書ききれないわ! 子どもが手から離れて家事ができる、ご飯が食べられる、トイレに行ける、手を洗える! すべてが幸せなのよね。大げさかしら? うちの子は、みんなおっぱい星人だったから、何時間もかけて寝かしつけても、その場から私が離れたら、すぐ起きるのよ。だからこの時間の貴重さはもう力説せずにはいられないわ……!」

 そんなに? というツッコミを入れづらい勢いでまくしたてる。


「買い物すら満足にできないんだから。


《冷蔵庫にプリンがある》


《コンビニに自分のおやつを買いに行く》


《旦那がふ菓子を買ってきてくれて、夜中に一気食いした》


《旦那がいない夜中におやつを食べながらドラマを一気に消化》


 もう、笑うしかないけど、食べることって幸せなのよ。私にとっては。まぁ、産後はしっかり太ったけどね!」

 言いながら、お腹の肉をつまむ。シャツワンピースの上からはわからないが、確かに、そこに素敵なお肉は育っていたようだ。


「でもね、こんな食いしん坊でも、存在が幸せだと感じることもあったのよ! 自分の名誉のために言いますけど。


《乳児と昼寝前のごろごろ、からの一緒に昼寝》


《旦那と息子が同じ体勢で寝ていた》


《我が子が、よそのお子さんに優しくしていた》」


 嬉しそうにそこまで読み上げて、声は影を落とす。彼女は出す言葉を迷っていた。


「正直ね、私、子どもが欲しいと思っていなかった。あなたに言うことじゃないけど、あなたが死んだからね。あなたのお母さんを見ていたから。知ってる? わけないよね。テルオ、あなたの弟、結局独り立ちできなかったわ。あなたに与えなかった愛情を、テルオに与えていたんだと思っていたけど、それもしていなかったのかもしれない。詳しいことは知らない。あなたのお母さんの気持ちは、これっぽっちもわからない」

 開いたノートを膝に乗せたまま、そこに並ぶ文字列に触れながら、彼女は呟くように続けた。

「怖かった。結婚するのも、本当は怖かった。子どもができて、あなたの母親みたいになるんじゃないかって、怖かった。でも、結果的にだけど、私はならなくて済んだみたい。三人の子に恵まれたけど、どの子もとっても可愛かった。愛しくて愛しくて仕方が無かった。充分にお金をかけて、様々な教養に触れさせてあげることはできなかったかもしれない。でも、こどもたちはいま生きているし、人並みの人生を送っている。《幸せ》かはわからないけどね」

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