第一章 ぶん殴ってからの、ラブレター④
「私が、あなたに何か影響しているんだったら、嬉しいことね。……もう、まだ十代じゃない」
まだ二冊目のノートをめくり、彼女の幸せは続いた。
「これは、高校生かしら、短大時代かしら。
《両親と花見をした》。
ああ、そんなこともあったわね。覚えてる。高校を卒業して、家を出るときに、近くの公園で花見をしたの。本当に簡単な花見、それらしい弁当もなくて、コンビニのおにぎりとペットボトルのお茶だったかな? ただそれだけを食べて飲んで、ベンチに座って、咲いている桜を見た。その年は暖かい日が多くて、三月だったけどもう散り始めている、花びらの嵐の中にいるようだった。右側に母が、左側に父がいて、別に親子仲が特別いいわけじゃなかったから、会話が盛りあがったわけじゃないけど。幸せだった。まぁ、両親共にその後五十年くらい生きたし、全然今生の別れとかじゃないから、そんなにセンチメンタルになることじゃなかったけどね」
記憶に残っているのだろう、丁寧に綴る説明に、情景が浮かぶようだった。そして、同じ人間が、こんなに落ち着いて話せるものだろうかと驚く。
「いままでの《幸せ》で、なんとなく検討がついているかもしれないけど、これらのノートに書いてあるものは、本当にささやかなのね。
《パックジュースを飲み終わって畳んだら、「たたんでくれてありがとう」って書いてあった》。
《空を見上げたら、鳥が気持ちよさそうに飛んでいた》。
きっと、誰にでもいつか起こる、そんな《幸せ》を私は毎日書いていたんだわ。」
愛おしそうに、ページを撫でて進めた。
「次は短大時代ね。親元を離れて独り暮らしをしていたから、貧乏だったの。
《カップラーメンにめっちゃネギのせた》
《好きな作家の新作を図書館で借りられた》
《古本をたくさん売ったら、一冊一冊は微々たるものだけど、まとまったお金になった》
もう、絵に描いたような苦学生エピソードよね、恥ずかしい。でもね、これはすごく覚えてるの。
《接客をしていたら、子どもに「お姉さんみたいな大人になりたい」と言われた》。
これは本当に、嬉しかったなぁ」
あまりにもうっとりとした瞳でノートを見つめるので、思わず僕もノートのその文字列を覗き込んだ。控えめで綺麗な、几帳面そうな文字が並んでいた。
「バイトでね、駅ナカのカフェで働いてたの。小学校中学年くらいかなぁ、お母さんと来た女の子が、カフェラテ作ったりデザートプレート運んだりしていた私のことじーっと見ててね、オーダーのオレンジジュースを出したときに言ってくれたの。そのとき私はショートヘアで、スカートが似合わなかったから、黒いズボンを履いて男子用のカフェエプロンを着けていたのね。若くて貧乏だったから、メイクもほぼしていなくて。仕事中、特別にすごいことをしていたわけじゃないから、もしかしたら、私の格好が単純にその子の趣味に合っただけなのかも知れないんだけど。そうだとしても、とーっても嬉しかった。誰かに自分の存在を認めてもらえて、なりたいって言ってもらえるって、すごいなって。そして、その女の子が、ふと思った気持ちを言葉にするって恥ずかしかっただろうに、言ってくれたこと自体が嬉しかったの」
彼女はどうして、そのことを僕に話してくれるんだろう。そんなに大切なことを、忘れないようにノートにまで記して。
僕は苦しくなってきた。
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