第一章 ぶん殴ってからの、ラブレター③
いつの間にか出現していた、小さな椅子に腰掛けた彼女は、着物の袂からのど飴を取り出し舐めている。【どんより】という効果音が聞こえてきそうな空気はいたたまれない。結局、その淡いピンク色のノートに書かれた彼女の中学生時代は、ほかには何もなかったのだ。何も持っていないぼくは、悲しそうな彼女に、のど飴をあげることができなかった。
「……本当にアタシ、昔のことは覚えてないのよね。ノートを見返すこともしてなかったし。死ぬ前にちょっとは考えるべきだったわ。はぁ、アンタに思いっきり自慢しようと思ってたのに……アタシの生きがいが……」
本当にしょんぼりしていた。のど飴を口の中で転がしてもごもごしながら何かを言い続けているからよく聞こえない。
飴を舐め終わったのか、下を向いていた顔がスッキリと正面を、自分の方を向いた。
「って言っててもしょうがないし! 次のノートいくわよ! こんだけノートがあるんだから、アンタがうらやましくて死んじゃうくらいのことが書いてあるはずよ! あ、もう死んでるか! バーカ! ったく、十四のアタシも、もうホントバカ!」
急に口調が変わり、面食らった。時折唐突に入る自分への罵倒は別にしても、落胆からの怒りという感情の変化だけではなかった。おばあさんの本来の性格というものはたぶん変わってはいない。しかし、その見た目は明らかに変わっていた。
そこにいたのは、おばあさんではなかった。
「でもね、ノートはまだあるわよ。……次は、もう高校生だわ。高校生ね、なんか、もはや過去の自分に期待ができないわよ。もう認めるわ。えーとなになに、
《テスト最終日》。
ね、ほらもうバカ。テストの最終日がうれしいって時点で物理的にバカ。もうこれは、大人になったから言えることね。何で学生のときに、もっと勉強をがんばらなかったのかしらって。勉強ができていれば、いえ、知識を得てさえいれば、もっと人生は華やかになっていたわ。アタシの子どもたちもそう。勉強するのなんて、テストの前の夜だけ。アタシに似てバカだから、夜遅くまで起きてて、勉強してたのかもすら怪しいわ。それでも、アタシが得られなかった、人生を生きる上で欲しかった知識は与えてあげたから、いまみんな、大人になって、自分のやりたいことをやっているわ。立派かどうかは、他人や親である私が判断することではないからね。うん、その教育はアタシを誉め称えてほしいわね。まぁそれはいいのよ、もう、脱線話長いババァの再来ね。そもそもアタシはね、勉強できるようなタマじゃなかったのよ……」
再び現れた妖怪は、自己紹介通り話が長かった。話が長い上に脈絡もなくいろいろなことを脱線しながら延々と一人で話し続けている。彼女がいま何の話をしているのかわからなくなっていたのもあるが、彼女の見た目を整理することで自分はいっぱいだった。
三谷幸喜の流れで咳き込んでから、おばあさんではなくなっていたおばあさんは、おばさんになっていた。背筋がある程度伸び、よく見れば絽の着物は洋服になっているではないか(なぜ気付かなかった)。ゆったりとしたスカートに、しゃんとしたとは言えない、洗いざらしのTシャツ、黒いスニーカー。思い切り悪く言えば骸骨のようだった顔や頬には肉が付き、小枝のようだった手や腕はむっちりとはいかないが、ふくよかで健康的な肢体に膨らんでいた。
丁寧でゆっくりとした、いかにも上品なおばあさんというような口調も、近所のおばちゃんの馴れ馴れしいべったりとした語り口調に変化していた。有り体に言えば、おばあさんは判りやすく若返っていた。
そして話はまだ終わっていなかった。
「だからアタシは言ったの、そんなだらしない格好して行くならもう行かなくていい! 子どもがかわいそうでしょう! アタシが行くわ! って。それがあの子の作戦だったのよねぇ……で、何だっけ?」
すみません、聞いていませんでした。そこからまた、「おばちゃんっていやねぇ、話してる端から何の話をしてるのか忘れていくのよ、びっくりするわよ自分でも、ついこの間なんかね……」と始まったので、聞くしか無かった。
たっぷり話したのだろう、おばちゃんは疲れてきていた。ひと休憩入れたおばちゃんは、その手に持っていたノートを見て「あら、」とようやく気付いたようだった。
「そうだったそうだった、アタシの幸せ物語をしていたんだったじゃない! もう! すぐ忘れちゃうのもおばちゃんよねぇ、認めたくないけど、みんなそうなるのよ、歳取ったら! お隣の斉藤さんなんかね、」と脱線ババァは健在だったが、さすがに疲労もあってか、今度の脱線から戻るのは速かった。なぜなら、斉藤さんの話は三回目だったからだ。話すのも飽きたのだろう。
「ちょっと! アンタ止めなさいよ! 斉藤さんの話はもういいのよ、アタシの話をしなくちゃ! ノートよノート、どこまでいったっけ、高校生? え、まだ高校生!? ちょっと困るわ、忙しいのよアタシ、九十六歳の幸せ最終回までアンタに聞かせなきゃいけないんだから、まだ十代って! もー、じゃあいくわよ、
《好きな人と同じグループになった》
……あらっ」
あんなに喋り続けていたおばちゃんが、少し照れて黙った。でもすぐ喋り始めた。
「あったわあった、懐かしいわ~。高校生の修学旅行よ、集大成よね、学生時代の。名前何て言ったっけ、あーーーど忘れしちゃったわ。あんなに好きだったのにね、忘れちゃうものなのね。そうそう、アタシ、部活入ってないから友だちが多い方じゃなかったし、ましてや男子となんて……ねぇ? 恥ずかしくって、うまくしゃべれなかったの。いまじゃこんなに喋り続けてるのにねぇ、これの五百万分の一よ、高校時代の会話なんて。そうそう、彼、優しい人だったわ。彼も、あまり喋らない方だった。スポーツが得意なわけでも、勉強ができるわけでもなかった。別に私に話しかけたりもしないし、私も話しかけなかった。どこが好きだったのかって聞かれるとさっぱり覚えてないんだけど、でも、それくらいしか彼のことについて知らないわ。当然、付き合ったりもしなかった。そのまま卒業してしまったわ」
おばちゃんのトーンが少し落ちたように見えた。ゆっくりと大事に思い出しているのかもしれない。彼女が話す言葉よりも、楽しかったことだけではなかったのかもしれない。
「好きな人ができたのも、これが初めてだったのかしら、書いてあるってことは。初恋にしては、甘酸っぱい記憶も、修学旅行の思い出もほとんど無くて、なんだか寂しいわ……。あ、一つだけ思い出した。彼の表情。たまに見せる、顔が気になったの。一度だけ席が隣になって、少しだけ彼の横顔を見たわ。授業中、何かを諦めたかのように見えたその横顔が、好きだったんだわ」
大切なような、大切じゃないような、そんな思い出。そう言った彼女は、また、若返っていた。さっきまでの爆弾のような語りとは打って変わり、落ち着いた、でもおばあさんのときの丁寧さとはまた違う、少し距離を取るような話し方に変わっていた。そして、首筋のしわが消え、顔のシミが消え、背筋がまっすぐ伸びている。
服装も変化し、オーバーサイズのシンプルなサマーニットに、スキニージーンズを合わせ、高くはないがヒールのあるサンダル。三,四十代といったところだろうか。
本人もそのことに気付いていたのか、きゅっとした表情をして、少し考えこむ。そして笑顔で、僕に言った。
「もしかしたら、本当にタイムリミットがあるのかもしれない。このペースじゃとても終わらないから、ちゃんと、私があなたに伝えたかったことを伝えないとね」
微笑んでいた彼女は、僕を見て破顔した。僕も変化しているのかも知れない。
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