第一章 ぶん殴ってからの、ラブレター②

 八十二年の歴史を刻んだそのノートは、さすがに骨董品だ。ボロボロに崩れ落ちそうな表紙を繰り、最初のページを開く。

「十四歳ですよ。あなたに最後に会ったのが十二歳だったから、それから二年後を想像してくださいな。ぴっちぴちの中学二年生ですよ。エヴァンゲリオンに乗れます」

 懐かしい思い出を手にして、おばあさんは少しうきうきして見えた。

「私ってば、書いたっきり読み返すことをしていないもんですから、何を書いたのかさっぱり覚えていないんですよ。だから、昔の私が何を書いたのか、ちょっと楽しみでね。さて、一番若いアタシの幸せは……」

 興奮からか、言葉が少し速くなるおばあさんの頬が紅潮して。 


《ご飯が美味しかった》


 紅くなった頬がすんと元に戻った。

「……。んん、まぁ、うん。ご飯が美味しいのは、幸せですよね。このときの私、何を食べたんだったかしら? 次は、


《八宝菜にうずらの卵が二つ入ってた》


……うれしいわよね。うずら。わかります。何歳になってもうれしいわ。うずら。


《アイスを食べた》


…………」


 おばあさんは不本意な顔をして少し沈黙をした。過去の自分の幸せの内容に納得がいかないようだ。

「……なんか、思っていたものと違うわ……。食べることばっかりね。子どもだったからかしら、アホの子みたいでお恥ずかしい。もっとこう、明らかにあなたが羨む、素晴らしい、あからさまな、幸せ! ……とまではいかなくても、まともなことをメモしていたはずだったんですけど。もう一世紀近く昔のことだから、すっかり忘れちゃって」


 憮然とした表情で、先を読み進めるというより、聞かせる前に自己確認するように小声で呟く。


「《急いでいるとき、信号が青だった》

 ええ、幸せって言うよりは、ラッキーなことよね。

《公園の花壇に花がたくさん咲いている春》

 まぁ、明るい気持ちになるわね。春は」


 過去の自分の幸せに自分でフォローをして、おばあさんは浅くため息をついた。まるで期待を失った低い声で、続きを読む。

「《テレビの音楽番組で、AKB48のセンターになって『Beginner』を歌っている三谷幸喜を観たとき》


……!?!?」


 言ってみても死人とは言えお年寄りなので、呼吸が荒くなり気管に唾が入り込んでしまったような咳き込み方をしたおばあさんを見るのは胸が痛んだ。ないと思っていた右手で、激しく上下するおばあさんの背中をさすった。えほげえほんふひゅう~と、涙目になって「三谷幸喜って、げほ、嫌いじゃないけど、幸せ……? 私って幸せだったのかしら……」と、自分自身に問い始めた。

「まぁ、箸が転んでもおかしい年頃ってことかしら、ごほん。若い女子ならそういうこともあるってことね。我ながら幸せの基準が謎だわ」

と、目が泳いでひとりごちた。


 幸せの定義が、今の自分のなかにはないので、彼女の言う「幸せの内容」に対して感想とか、どうこう思うことはなかった。ただ、ノートの中身に疑問を持ちながらも、楽しそうに報告してくれる彼女の言葉を聞くことが、義務だと思った。


 だいぶ落ち着いて来たおばあさんの肩を撫でながら、気付いた。出会ってすぐ、ボディにブローを入れられたとき、肩からお尻のあたりまで、アルファベットのCを描くように丸く胎児のようだった彼女のシルエットが、首をかしげた小文字のfに変わっている。


 呼吸の乱れがなくなり、「はぁ、」とセリフで呼吸をしたおばあさんは、次の言葉を紡いだ。

「ごめんなさい、続けるわね。十四歳のころのアタシのことはこれで終わり。なんか、自慢にならないどころか、自分の小ささを晒しただけの内容だったわね。急に三谷幸喜なんて言われても、ねぇ? いや、好きよ、その作品も人柄も、尊敬してる御仁だわ。じゃあ次は、中学生・高校生のころね」


 彼女は一度ノートと目を閉じた。


「アタシは自分のやりたいことがなくてねぇ。部活もやらずに、図書委員会のない日はまっすぐ家に帰っていたわね。趣味と呼べるものもなかったから……家で何やってたかしら、アタシ。でも腐っても花の十代、幸せだらけのはずよ」

 そう言って目を輝かせて開いたページには、


《咳をしたら知らない人がのど飴をくれた》


と一行だけ書かれていた。彼女の落胆っぷりは見ていられなかった。

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