お兄ちゃんが死んで、幸せでした。
到ラヌ次郞
第一章 ぶん殴ってからの、ラブレター①
目の前に小さいおばあさんが立っているなぁと気付いた次の瞬間には、ほぼ「く」の字に曲がったその腰が思いっきり入った右ストレートでみぞおちに正拳突きをされていた。激痛と吐き気でその場にうずくまる。
「やぁ~~~っと逢えました……! 自分勝手なナルシス逃亡クソちんかす○○○野郎!!」
口のなかで何度も繰り返していたかのように、よどみなく罵詈雑言を吐き出すそのおばあさんの顔は、笑っていた。泣くほど笑っていた。
涙が出た。
「待たせてしまいましたね? ババもずっとこの時を待っていたんですよ。捜しました、とーんでもなく捜しました! 自殺したらこんな辺鄙なところに来ちゃうんですね。なーんにもないじゃないですか、ここは。こんなとこにずっといたんですか? あなたが死んでから、何年だったかしら……。 ババはほら、人生大往生した系ですから、畳の上で死ねてラッキィ池田玄孫産まれておっパッピー、九十六で老衰バンザイウルフルケイスケでしたよ。ああ……老衰だなんて自分で言っといて胸が痛いですけど、しょうがないのよ。おばあちゃんですもの。自他共に他に認めようがないほど、ババはババアになったんです。あなたが知ってるババはまだ……十二歳だったかしら。さすがに忘れようがないですね、ババが中学生になる春に失踪してしまったんですから。それからあなたの遺体が発見されたのは、二年後でした。だから、えー……、単純計算して、八十二年、八十二年もこんなクソみたいなとこにいたんですね。かわいそうに……。誰も逢いに来ないでしょう、こんなとこじゃ」
自分のことをババと呼ぶそのおばあさんは、一見したら上品な部類に入る老婆だった。亡くなった季節が夏だったのか、淡い水の色の、薄い絽の着物を軽やかに召していた。折れそうなその腰は、木製の杖をついてやっと立っているように見えた。口調は丁寧でゆっくりながらも、クソとかババアとか、ついて出てくる言葉はおばあさんの年齢におよそそぐわない、やんちゃで軽妙なものだったが、そこに彼女の、かつての性格が垣間見えるようで、心地悪くはなかった。しかし、そんな彼女に、覚えはなかった。
この何もない場所にただ立っている自分が、自分ですら、何者なのかすらわからないのだ、しかし彼女の言うことを解するなら、自分は八十二年前に自殺した人間なのだろう。確かに、自分の芯みたいなところに唯一ある、痛みや悲しみや苦しみをごった煮した澱みみたいなものは、自分が生前に得ていまも持っていて、永遠に消せないものなのかもしれない。
そんな自分を見て、おばあさんはちりめんのような眉間にさらに深いしわを書き込み、哀れむ顔をした。
「あーあーあ、なんちゅう目をしてるんですか。まぁいろいろありましたね、生きている間には。人生の終わりを自分で選んだってことは、あなたは幸せではなかったのかもしれません。でもね、そんなの、もういいじゃないですか。死んでるんだし! ということで、まずはババの話を聞いてちょうだいな。今日、この日の、この時のために、ババは八十二年もがんばってきたんですよ。えーと、これです、これ」
おばあさんは、着物のその薄い胸元から、一冊のノートを取り出した。薄いピンク色の、どこにでもあるキャンパスノート。しかし表紙はボロボロで、子どもの落書きのようなものや、キャラクターのシールが貼ってあったりと年期を感じた。おばあさんはそれを大事そうに、壊れ物のように扱う。ドッグイヤーが知らせる最後の方のページを開いて、フフフと笑った。なかには文字がびっしり詰まっていたが、ノートの最後の数ページは白紙のままだった。
じっと見つめていたであろう自分の視線に気付いた彼女は、「これは、私の閻魔帳ですよ」と、開いていた一冊閉じてを左頬に寄せて、自慢げにドヤ顔をした。
「このノートはね、私が十四の歳から、書き続けている貯金? 財産? のようなものなんです。別に、何よりも死ぬほど大切な宝物! ってわけではないんですけど、これはいつの頃からか、私の生きる糧でした。何が書いてあるかって? 気になりますか? フフフ、ここにはね、私が《幸せ》だと思ったことをメモしてあるんですよ。私の幸せが、このノートのページ数だけあるの。あなたに会えたら、私が生きてどれだけ幸せだったのかを、自慢しようと思って!」
幸せという言葉を何度も口にしながら、おばあさんは、微笑んではいた。
と、思う。
そして、その表情を見せず、こちらを見て、新しく笑った。
「……ここだけの話、実は、練習したんですよ! あなたに逢えたらまず、渾身の力でぶん殴ってやって、そのあと何を話そうかって、しゅみれーしょんしていたんです。なんと言っても、あなたより八十二年も生きた大先輩ですから、あなたに逢えたときに恥ずかしくないようにしたかったんです」
そう言って照れた。
「いつ練習したかって? 年老いたらだいたいのことは予想がつくんですよね、もうすぐ死ぬってことも、だいたいわかってしまったんですよ。死期がわかるなんて、猫又っていうの? もはや妖怪の域よね。九十六歳まで生きたと言っても、容姿はどうしても衰えてしまって、特に顔や頬のこけは酷かったと思います、我ながら。そんな顔ですから、ひ孫たちに妖怪ババアって言われても、すでに怒るどころか妖怪らしさをどう演出してやろうかって境地でした。ほら、今もこれ、関係ない話に脱線ババアですよ、妖怪脱線ババア」
脱線ババアはなかなか本題に入らない。練習の成果はあったのだろうか。
というこちらの思惑を妖怪レーダーで感じ取ったのか、はっとした顔をしておばあさんは続けた。
「失礼いたしました。初めて来た場所だし、私もいつまでここにいられるかわからないから、先に進めましょうね。最後のページはもちろん、私が死ぬ間際のことよ」
話しながら、首に提げていた、年季の入ったべっこうの老眼鏡をかけた。その厚いレンズの中からは、いたずらを仕掛けようとする子どものような眼。口元も心なしか、片方の口角が上がり、悪役のような顔になっている。
「子どもや孫、玄孫にかこまれ、畳の上で死んだ私の人生が、どんなに幸せだったか。あなたに自慢したいんです、言いたい幸せ、幸せ言いたい。昔のことなんて正直覚えてないから、一番新しい記憶、新鮮な死ぬ寸前のことから話したいところなんですけど、あなたが覚えてもいない見ず知らずのババアの死に際の話なんて一番興味ないことだと思いますから、あなたの知ってるかもしれない私のこと、一番古い記憶からいきましょうか」
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