第111話 アディの恋 4
二人でそんな話をするうちに、立派な建物が立ち並ぶ集落が目の前に現れた。
あの辺りに住んでいるのは地主様だの役人様だの立派な方々ばかりだ。アディはそういう所に行って便壺をきれいにする仕事をしている自分が誇らしかった。こんな所にめったに来る事のないマルはきっとびっくりしてるだろうな、と思いつつマルの方を見ると、マルは案の定、
「はあーっ」
と小さな感嘆のため息をついている。アディはそんなマルに対し、おずおずと言った。
「あのさ、マル……」
立派な人達の家のそばまで来たのだから、醜いイボだらけの顔を隠して欲しい、そう言いたかったが、自分がここまで誘った以上、言い出しかねていた。
「ああ、分かったよ!」
マルは自分から気が付き、サッと白い頭巾を頭に被った。
目的の家まで来ると、アディはマルに座って待っているように言って、自分はいつものように便壺の中身をかき出し始めた。
「その子の名前は何て言うの?」
「ハーラって言うらしい。家の人はそう呼んでる」
「ハーラ? ステキな名前だね。英雄エディオンの恋人とおんなじ。ハーラには兄弟はいるの?」
「いないと思う。他の子の足音を聞いたことないから。だいたいハーラの足音もとっても静かなんだ。あまり体が丈夫じゃないみたい。食べ物もあんまり食べてないみたいなんだ」
「どうしてそんなことが分かるの?」
「便壺の中の妖怪見りゃ分かる。家ごとに違ってるんだ。この家の便壺には、体が弱い人の便壺に住み着く妖怪がいる」
「へえ! そうなの」
アディはマルが自分を感心したように見ているのに満足した。
「おらはここで歌ったらいい?」
「うん。きっとここからなら中のハーラに聞こえると思う」
「どんな歌がいい?」
「歌のことはよく分からないから、マルがいいと思うのにして。一番いいと思うのを」
「うん、分かった」
マルはそう言って歌い出した。それは古い歌物語の一節で、貧しい漁師が水浴をするお姫様の姿をうっかり見てしまったために思い乱れる心を描いた恋の歌だった。その歌はあまりにアディの今の気持ちとぴったりなので、アディはなんだかいたたまれなくなった。
歌の間、心が波間に浮かんでいるようでどうも落ち着かずいつものように手際よく仕事が出来ない。歌が終わったとたんアディはすかさずマルに言った。
「おら、ちょっと二つ、よその家の汲み取りもしてくるよ。ここで待ってて」
「うん、分かった。ハーラはこの歌気に入ったかな」
「さあ、どうかな」
アディは袋を抱えて床下から出た。ふと振り返ると、なんと、家の入口の階段の所にハーラが座っていた。歌がよく聞こえるようにそこに出て来たのだろう。アディは勇気を出してハーラの顔を見詰め返した。その時、アディにはハーラが微かに微笑んだように見えた。
(ハーラ……ハーラがいる……こんな近くに……嘘だろ……)
アディはそれ以上ハーラの顔を見詰め返すことが出来なかった。興奮の余り小石にすら躓きそうな足取りで隣の家に向かった。
アディはそれから三軒の家を回り、便壺の中身を空にした。そして再びハーラの家に向かった。やがて、アディの耳にマルの歌声が飛び込んで来た。その歌の言葉を聞くなりアディは仰天した。マルはこんな歌を歌っていた
「ああ、おらは汲取りの子 あなたに触れる事など出来ません 触れない代わりに聴くのです 愛しいあなたの足音を 花びら地面に落ちるより 軽い足音聞きながら 壺の中身を汲む腕に 熱と光がこもります」
(マルは、お、おらの事を歌ってるんだー!!)
アディは恥ずかしさの余り、両脚が地面に生えている竹のように止まった。しかしアディは次の瞬間、走り出していた。
(あんな歌、すぐ止めさせなきゃー!!)
しかしアディが床下にたどり着いたとたん、アッと声を上げた。なんとハーラが床下まで降りて来ていて、マルから少し離れた位置にしゃがんでマルの歌を聞いているではないか! アディは驚きの余り、身動き一つ出来なかった。あまりに恥ずかしくて耳をふさぎたいのにそれすらも出来ないのだ。マルが歌い終わるとハーラはパッと目を開いた。その目とアディの目がぴったりと合った。アディはハーラの美しい目を数秒間見詰めていたがやがて恐ろしくなって顔を背け、マルの方に向き直った。
「さあ、行こう」
アディはマルを促した。マルがイボだらけの足でゆっくりついて来るのを置いてアディは速足で家から遠ざかった。しかしその間も、ハーラの視線が自分の背中にじっと注がれているのを感じていた。
やがて集落を離れてからアディは立ち止まり、マルが追いつくのを待って言った。
「どうしてあんな歌うたったんだよ! おら、恥ずかしいよ!」
「ごめん……アディが行ってしまってから、しばらくはじっと黙って待ってたんだよ。でも、背中でスヴァリが何か歌え歌えって言うもんだから、まあ歌う位はいいかなって思って、カサンの古い歌を歌ってたんだ。そしたらね、あの子がここまで降りて来たの! もうびっくりして、おらは歌うのをやめて黙ってたんだよ。そしたらあの子が、アディがどんな子なのか教えてほしいって言うもんだから……でもおら、何て言っていいのか分かんなくて、やっぱり黙ってたの。そしたらスヴァリが歌い出して、あとはおらの口から歌が勝手に飛び出してきたんだ……」
アディはマルの弁解を聞き終えると、再び歩き出した。
(マルの歌を聞いた時、ドキッとしたんだ。マルがなんでこんなにおらの気持ちが分かるんだろうって。でもそれは、歌の女神がマルの口の中に歌を放り込んでるんだ。いや、もしかしたら恐ろしい魔女のしわざかもしれない。魔女はマルをイボイボ病にする代わりに特別な力を授けたってみんな言ってる。魔女に言葉を口に入れられちゃマルだって歌うしかないだろうな……)
しばらく歩くうちに、アディの胸にマルの今言った言葉が蘇ってきた。
「ハーラがおらの事を知りたがってる……? 本当か? 本当か? 本当か!?」
アディは自分の心臓が勝手にグルグル踊り出したような気がした。
「もし、悪いことしたんならごめん……」
「ううん。マルは悪くないよ。歌が勝手に口から出ちゃったんだよな? それならしょうがないよ」
アディはマルに言った。
集めた糞は、以前は全て橋の向こうの「森の際」地区まで持って帰っていた。しかし今はそんな事をしなくてもいい。全てラドゥの家に持っていけばいいのだ。ラドゥは畑の肥やしにするために糞を集めて、それを農民達に配っているのだ。そのおかげで作物がたくさん取れるようになったらしい。その他にもラドゥはいろんな工夫をして、村人たちに喜ばれている。ラドゥは言った。「俺達はカサン人から学ぶ事はたくさんある」しかしこうも言った。「だからと言って、俺達がカサン人よりも下ってわけじゃない。いつまでもカサン人にああしろこうしろと言われるんじゃなくて、自分達で何でも決めるようにならなくちゃ」。アディには分からなかった。カサン人がすべて決めるような世の中が良いのか悪いのか。ただアディが願うのは、ハーラと好きなだけお喋りしたり、一緒に並んで美味しいものを食べたり出来る世の中になればいい、ということだけだった。
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