第107話 小さな怪物 10
教室に近付くと、ヒサリ先生がカサン語の本を読み上げる声が聞こえてきた。
(先生からきっと大目玉を食らうだろうな……)
そう思いながらもマルはせっせとランについて歩いた。ランは一体ヒサリ先生に何て言うつもりだろう、そしておらは一体何と言って弁解したらいいのだろう……。いいや、弁解の言葉なんか思いつかない。ただ黙って下を向いたみ、せっせとランについて歩くより他無かった。
やがて、ヒサリ先生は二人に気が付いたのか、カサン語の本を読む声がピタリと止まった。
「あなた達!」
マルはビクッと震えた。ああ、ヒサリ先生がこっちを見ている! ヒサリ先生のまなざしが、冷たい宝石のように自分の胸の中に食いこんで来る!!
「あたしね、この子を連れてアロンガまで行ったの。橋の向こうで土人の男の荷台に乗せてね。土人の男はね、はじめはこの子を乗せたくないってごねてたけど、千ガロン金貨を見せたらコロッと態度が変わったの。最後には泥の中にはいつくばって金貨拾ったわ!」
「千ガロン金貨ですって! そんな大金、どうしたのよ!」
「おばさんのタンスの中にあったの。でもどうせあたしのお稽古代だからいいの! 料理だのお裁縫だの習うのクソつまんない! それでね、この汚いチビの化け物が歌ってるとこ、アロンガの学校の子達に見せてあげたの。だってそっちの方がよっぽど面白いんだもーん!」
「何だと! こいつ、いい気になりやがって!」
ナティがまるで真っ黒な鳥のように飛び出したかと思うと、ランを組み伏せた。ランは
「嫌だ! 嫌だ!」
と叫びながら喚き散らしていたが、ナティの力には太刀打ち出来ない。マルはナティの真っ赤な顔やランの苦痛に歪んだ顔を見詰めたまま、ピクリとも体を動かすことが出来なかった。
「あなた達! やめなさい!」
ヒサリ先生の声が鉄の楔のように響いた。ナティはランを押さえつけたまま、ヒサリ先生の方に体を振り向けた。
「こいつはマルのことを『化け物』って言ったんだぜ!」
「あなたが怒るのはもっともです。今回の件はランが悪い。ラン! 早く私の部屋に戻りなさい!」
「体が痛くて起き上がれなーい!」
ランは床に大の字に寝そべったまま四肢を床にバタンバタンと打ち付けた。
「バカ言うんじゃないの!」
わがままな少女は姉に一喝され、しぶしぶゆっくりと体を起こした。そして最後に大きく
「ふーんだ!」
と鼻を鳴らして、教室から出て行った。
「あなたはここで勉強しなければならないのに、どうしてあの子について行ったんです!」
ヒサリ先生のきつい言葉を聞いて、マルは黙ってうなだれた。本当は行きたくなかった。でも一緒に行かないとおらの心の秘密をヒサリ先生にばらされてしまうと思った。でもそれは決して口には出来ない事なのだ。マルはただ頭を下げて、
「ごめんなさい」
と小声で言った。ヒサリ先生の視線が自分の頭を焼く程熱く注がれている事は、下を向いていても分かった。
「マル! なんであんなガキについて行ったんだ!」
ナティの言葉を聞いた時、マルはふと思いついて、顔を上げて言った。
「アロンガの街を見てみたかったんです。彼女が連れて行ってくれると言ったから、どうしても見たくなって」
「ええ! 何だって!」
ナティが叫んだ。ヒサリ先生はじっとマルの目を見詰めながら聞き返した。
「それは本当? あの子をかばうために言ってるんじゃないの?」
マルは首を振った。自分の中にアロンガを見たい、という気持ちがあったのは間違い無い。そしてほんのちょっぴりでもアロンガの街を見ることが出来て楽しかったのも事実なのだ。
「……分かりました。自分の席に戻りなさい」
マルはヒサリ先生に怒られなかったことに驚いた。ヒサリ先生はサッと教室を見渡して言った。
「みなさん、今日のあの子の様子を見てどう思いましたか? あの子の姿形はカサン人ですが、カサン精神は理解していません。カサンの魂も持っていません。あの子はカサン帝国人とは言えません。生まれながらのカサン帝国臣民は一人もいません。誰もが学習することによって少しずつカサン帝国臣民になっていくのです。そして、いいですか? 肌の色などは関係ありません。あの子よりあなた達の方がよほどカサン帝国人なのです!」
皆、黙りこくったまま、ヒサリ先生の言葉に聞き入っていた。しかしマルはそのままこの場から消えてしまいたかった。
(ああ、先生、そんなこと言わなくていいのに! 自分の妹をそんな風に責めるのはつらいだろう、どうかやめて! 何も言わないで……! おらがもっと強い心を持っていればこんな事にならなかったんだから……!)
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