君は誰!? 揺れる二人の心【4】

 夕が真昼の水着の紐に手を掛けた時、真昼は残っていた勇気を振り絞った。


「ご、ごめんなさい!」


 なすがままにされていたが彼女の腕を振り払い、小さな身体を利用して壁と少女の間の空間に滑り込むように夕の束縛から逃れた。そして戸を開け一目散に外界へと脱出する。後ろで不気味な笑みを浮かべる夕を置き去りにして。

 一心不乱に走る真昼。今自分が何処にいるのかも把握しないままただただ走った。

 真昼の夕への好意は本物だった。だが、自分が今女子であること。また彼女が女の体を受け入れ過ぎているという事実が真昼に恐怖を与え、プラス感情を打ち砕いた。


 見たくなかった。

 聞きたくなかった。

 知りたくなかった。


 あの日自分を助けてくれた人に幻想を抱いていた。いや今だって持ち続けている。衝撃的で運命的な出会いを忘れるものか。

 だが、他人の感情を無視した肉欲をぶちまけてくるのは違うと、真昼は思った。


『そこの人、走らないでくださーい!』


 ぐちゃぐちゃとした思考に係員の注意が混入する。

 プールサイドを走るのは危ない。そんなことは小学生でも分かっている。しかし感情には逆らえない。吐きそうなほど胸を揺るがす重みに心が耐えられないのだ。

 一歩でも彼女から離れたくて走り続ける。だが、無我夢中に足を動かすあまり周りが見えていなかった。


「あっ、っ!?」


 段差に気付かずに派手に転倒した。

 至る所を地面に打ち付け肺から酸素が零れる。通行人にぶつからなかったのは幸いだったが、痛みによって碌に呼吸が出来なかった。


「大丈夫ですか! 怪我はないですか!」


 慌てて駆け寄ってきたスタッフに安否を確認される。また可愛い少女が派手に転んだとあって、野次馬も集まってきていた。


「……大丈夫です。すみません、ありがとうございます」


 腕や足を見ても、痛むところで血が出ている箇所は無い。ぶらぶらと振ってみても骨への痛みは皆無だ。


「それは良かったです。もし継続的に痛むようでしたらあそこにスタッフルームがありますので、訪ねてみてください。それと──」


 やや遠くの扉を指していた男性スタッフの語調が急に上がる。


「プールサイドは走らないでください!」

「ご、ごめんなさい。気を付けます」

「はい! では良きリゾートライフを!」


 接待マニュアルがあるのか、それとも男性の人の良さなのか、小気味の良い台詞を言い残し元の場所へと戻っていった。同時に、集まりかけていた群衆も散っていく。

 一人紅髪の少女を残して。


「相当慌ててたみたいだけど、どうかしたの? 大丈夫、立てる?」


 水に濡れた夕は近寄ると、心配そうな顔をしながら手を差し伸べてくる。だが、毒の無い表情が演技のように見えてやたらと気味が悪かった。

 だからこそ、真昼は考える間もなく彼女の手を弾いた。


「ぇ……?」


 予想外の行動に彼女が小さく声を漏らす。


「放っておいて」

「どうしたの。何かあった?」

「ボクは霜月さんのことを信頼してた。尊敬してた。でも今は違う。正直言って幻滅した」

「え?」


 今度は大きく疑問に満ちた声。だが、関係無いとばかりに真昼はぐちゃぐちゃを吐き出すように乱射した。


「凄い人だと思ってたのにっ! 格好良くて素敵だと思ってたのに!」


 思考を切り裂いた熱が吐き出る。

 しかし少しの言葉で冷静さが戻るほど少ない熱量ではなかった。


 違う、言いたいことはこんなことじゃない。

 何で。

 何故。

 どうして。

 「あんなことしたの?」って聞きたいのに。


「ちょっと待って。一回落ち着いて──」

「ボクはもう!」


 ダメだ、それ以上は言ってはいけない。

 止まれっ! 止まってっ!


「霜月さんの側には居られない! 居たくない!」

「っ!?」


 言った。

 言ってしまった。


 何も考えられなくなり無言で立ち上がると、俯きながらこの場を後にする。

 賑やか過ぎるほどの場所だが、真昼の耳には何も届かなかった。いや、小さく息を吐く音が聞こえたが無視したのだ。

 歩く。ただただ歩く。無意味に。訳も分からず。下を向きながら。

 床にぽつりと水滴が落ちる。一瞬立ち止まるが、気にせず歩くと更に一粒零れた。

 歩く。

 雫が落ちる。

 歩く。

 雨が落ちる。

 歩く。

 滝が落ちる。

 気付けば顔中から液体が溢れていた。

 世界が歪みに歪んで訳が分からなくなり、真昼は停止した。


「うぐ……あっ、は……ぐぅ」


 決壊したダムのように拭っても拭っても涙が出てきた。嗚咽も我慢出来なくなり、体から力が抜けへたり込んでしまった。

 自分が傷つくぐらいならば言わなければ良かった、と真昼は心底思った。人生で碌に暴言を吐いたことのない真昼にとって、性的な悪戯を受けたことよりも言葉の刃で人を傷付けたことの方が耐え難かったのだ。


 消えたい。消えてなくなりたい。


 自分に向けて呪詛を吐く。

 真昼は悪くないはずなのに、今は罪悪感に圧し潰されていた。気持ちが砕け、立ち上がる意思が消えていく。

 自身への卑下は止まることを知らずに突き進んでいった。

 運良くか、それとも無意識に人が少ない場所に移動していたのか声を掛ける人間はいなかった。ひょっとしたら、美少女が人の目など気にせず泣きじゃくる様子に二の足を踏んでしまったのかもしれない。

 そしてひたすら泣くことしか出来ないでいた時である。


「真昼?」


 親友の声がした。


「どうしたの真昼くん!」


 続いて母の慌てる音が響く。

 そして真昼が顔を拭く間も無く彼らは彼の側へと寄った。周囲から奇異の目で見られることを避ける意味もあるが、それ以上に真昼のことが真剣に心配だったのだろう。


「何でも──ひっぐ、ない」


 精一杯の強がり。しかしながら横隔膜の痙攣には耐えられなかった。


「そんな顔して大丈夫な訳ないだろ。何かあったのか?」

「何でもないっ、から」


 話すわけにはいかなかった。二人の性格からして正直に話せば怒り狂うことは火を見るよりも明らかだった。


「霜月と何かあったのか?」

「――っ!?」


 反応してはいけなかった言葉だったが頭よりも先に体が応えてしまった。

 言い訳をしたくて頭を上げる。しかし潤んだ瞳では二人の感情を察することが出来なかった。


「何があったか教えてくれ。内容によっては考えがある」


 落ち着いた声だが僅かに棘がある。長年友達をやっていることだけはあり、取り乱していても怒っていることは分かった。


「待って待って。ひとまず座れる場所に行きましょう。話はその後」


 反面小宵は冷静そのものだ。誰よりも憤慨しそうなものだが、人生経験がなせる技なのだろう。彼女の対応はまさしく大人のそれだった。


「……そうですね。すみません」

「謝ることはないわ。夜兎君が怒ってくれて私は嬉しかったもの」

「いえ、冷静が欠けていたのは事実ですから」

「そっか。うん、じゃあこれ以上は言わないわ。私は霜月ちゃんを連れてくるから、夜兎君は真昼くんを飲食エリアに連れてってくれる?」

「了解です」


 軽く答える夜兎。小宵のペースに気持ちを引き戻されたのか、すっかり何時もの調子に戻っているようだった。


「真昼くん、霜月ちゃんが何処にいるか分かる?」

「た、たぶんまだ、競泳プールのほうに、いると思う」

「そう、ありがとう」


 お礼を言い残し、小宵は真昼の元から離れていく。決して調子を崩さない小宵の姿に半分彼女の血を引いているとは真昼には思えなかった。


「さっきは悪かったな、つい取り乱しちまった」

「…………」

「歩けるか? 無理そうなら落ち着くまでここにいるぞ」


 親友から心配する言葉が雪崩のように押し寄せてきた。


「もう──ひっく。ちょっとだけ、待って」

「ああ」


 母と親友のやり取りで心が少しばかり復活したのか涙は止まっていた。しかしながら途中から発生したしゃっくりが止まらず、会話に支障が出ていた。


「先に行って水でも持ってこようか?」


 彼の提案に首を振る。

 今は誰かが傍に居て欲しかった。


「それならあそこの椅子に座ろうぜ。一応ここ通路だし」

「うん」


 今度は賛成し、気力を振り絞って立ち上がり彼の後ろを付いていく。

 何時もと変わらない接し方のはずなのに、心なしか安心した。

 夜兎に隅へと誘導され、促されるままに座る。コンクリートの塊だけあってお尻に塊を感じる。だが、ほんのりとした温かさが身に染みた。


「そういえばさっき小宵さんとスパエリアに居たんだが──」


 唐突な話題。少しでも真昼の気分を上げようと夜兎なりの気遣いなのだろう。


「電気風呂っていうのがあってさ。俺銭湯とか全然行ったことが無いから全然知らなくて、なんだそれって立ち尽くしてたらさ」

「……うん」

「小宵さんが『古来より伝わる罪人を戒めるための拷問風呂』なんて言ってきて、めっちゃびびってたの。そしたら」

「うん」

「爺さんが平然と入っていって、これは経験がなせるわざなんだと尊敬してたら子供まで入っていって、流石におかしいと小宵さんを見たら必死に笑いこらえてるの。酷過ぎないか、これ?」


 あまりに下らない話だった。下らなすぎて抱えていたもやもやを一瞬忘れるほどに。


「悪いな、話のセンスがなくて」


 彼も話のしょうもなさを自覚していたらしい。何時もと変わらない夜兎の物言いに真昼は安心した。


「そうだね。もう少し気の利いた話が良かった」


 意地の悪い言葉を返す。

 文句を突き付けられた当人ははっとしたが、すぐに年相応の笑みを浮かべた。


「言うじゃないかこいつー」

「え、ちょ、はは、ごめんて」


 乱暴に髪をくしゃくしゃにしてきたので、抵抗する素振りを見せる。

 少し前であれば普通であった一連の行動に、懐かしさと嬉しさが身体の底から込み上げて来た。


「少しは元気出たか」

「……うん」


 真昼は自信なさげに応える。

 だが、歩くだけの心は戻ってきているように感じた。


「じゃあ行くか」

「うん」


 親友が立ち上がり、真昼も続く。

 ずれたお尻の布を直しながら歩くと、唐突に今はあまり聞きたくない声がした。


「何処に行くの?」


 振り替えると、居たのは想像した通りの人物。ついさっき真昼が拒絶したばかりの少女が立っていた。

 あれだけ拒絶したはずの彼女は軽い笑みを浮かべていた。まるで二人がかわした会話がなかったかのように。


「……霜月さん」


 精一杯の勇気を振り絞って少女の名を口にする。真昼の弱々しい態度を捉えると、夕の表情が意味ありげなものへと変貌した。


「さっきはごめんね」


 不気味だった。

 シャワー室で性的行為は決して『ごめん』の一言で片付けられる内容ではない。


「やっぱり怒ってる?」


 試されているのだろうか。

 それとも拒絶したことを、キレてしまったことを覚えていないのだろうか。

 彼女の真意が分からない。ボクは今──、


 何を信じればいいのだろう。


「霜月。小宵さんはどうした?」

「小宵さん? 会ってないけれど。どうして?」

「お前を迎えに行ったんだが、そうか」


 またもや心の底に落ちようとしている真昼を気遣って会話に割り込んでくる夜兎。混乱している真昼にとっては非常にありがたい横槍だった。


「君、大丈夫?」


 顎に手を当て考え込む少年を余所に少女が言う。

 とても何気ない一言。だが、それを違和感と捉える人間が一人いた。


「お前誰だ?」


 顎から手を離した夜兎が紅髪の少女に向かって言う。


「誰って、何を言ってるの?」


 少女が質問を質問で返す。

 当事者であるはずの真昼も何が何やら分からなかった。


「だからお前は誰だって聞いてるんだよ」

「気でも狂った? 私は霜月──」

「馬鹿言うな。んなわけないだろ」

「何を根拠に」


 反抗的な目をする少女に対して嘲笑うような瞳で夜兎が言葉を紡ぐ。


「霜月は真昼に『キミ』と言う時、イントネーションが僅かに柔らかいんだよ。そんなことも知らなかったのか、偽者さんよ」

「ッ──!?」


 いや僕も知らなかったんだけどっ!?

 え? ということはまさか。


「お前ラウ人だろ。何で真昼を狙ったかは──聞くまでもないか」

「あらら、バレちゃった。でも別にこの子の精器に興味ない、って言っても信じないよね?」

「そらそうよ――!?」


 静かに怒りに燃えていたはずの夜兎が何故か固まった。

 不意に刺すような皮膚への痛みと身を焦がすほどの熱量を感じ、原因と思われる方へと顔を向ける。すると、身体中から火の粉を巻き上げながら一点を見据える夕の姿があった。


「喋らなくて良い。口を開かなくて良い。考えなくて良い。動かなくて良い。何故なら私は怒っている」


 全くもって論理が破綻している。だが、少なくともそれほどまでに彼女が激昂しているのが分かった。


「あははは……、こちらはべつに戦う気はないんだけど」

「信じられるか!」


 乾いた笑いを浮かべた偽者に対して、何処からともなく大剣を取り出した夕が攻め立てる。流石に長物を振り回せば周囲の客にも気付かれるわけで、あちこちから驚きや悲鳴が沸き上がった。

 そして館内の混乱に更に拍車を掛けるように、二人の夕の攻防も激化していく。強く飛び上がる偽者に対して本物も十メートル近く飛び追い掛けたのだ。


「おいおいあいつら、ここがセソダだと勘違いしてねーか!」


 水が蒸発する音を耳にしながら夜兎が叫ぶ。人々の悲鳴に加え、壁が軋む音、突然消える館内BGMに、焦りが伝わる放送を聞けば当然といえば当然の反応だった。


「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと夜兎君! これはどういうこと!」


 取り乱した小宵が駆けつけてくる。息を切らしているところを見ると、そこそこの距離を走ってきたようだ。


「事情は後で話すんで、小宵さんはアケボノ連れてきてもらえますか。車の後部座席の荷物の中に入ってるはずなんで。俺はこれからこの騒ぎの隠蔽に走ります!」

「や、夜兎。ボクは何を――」


 すればいい?

 愚問だ。そんなことは決まっている。

 ボクがやりたいことは一つ。


「真昼は――」

「霜月さんのサポートに行く!」 

「ちょっと待て、お前ウィルフェースは!」

「大丈夫。来て、ウィルフェース!」


 真昼の呼び声に応じるように胸元に変身アイテムが召還される。何時でも変身出来るようにと夕から教わった精役だった。


「ウィルフェース、リンクアップ!」


 人の目など気にせず姿を変え跳躍する。後ろで親友の呆れ声が聞こえたが無視して追い掛ける。

 今はただ一秒でも早く彼女に、夕に謝りたかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る