君は誰!? 揺れる二人の心【3】

「いちに。いちに。もう少し! 頑張って!」


 真昼の手に捕まって必死に足をバタつかせる彼女を鼓舞しながら、後ろ向きに水の中を歩く。

 幸いにも夕は水への抵抗が無く、難易度の低い泳法を教えるのにさして手間は掛からなかった。浮く、水中で目を開ける、水中でジャンプするホッピング、ビート板を使用したバタ足等を軽々とマスターし今に至るという訳だ。運動への適性が高いと、こうも覚えが早いのかと感嘆すると同時に、同じことをマスターするのに1ヶ月以上掛かった子供時代の自分に嫌気がさした。息継ぎのタイミングに四苦八苦しているようだが、この調子であればすぐに物にしてしまうだろう。


「OK! 本当に筋が良いね!」


 真昼が声を上げると激しく飛んでいた水飛沫が落ち着いた。そして顔から数えきれない程の水滴を落としながら夕が顔を上げた。


「キミの教え方が良いおかげ」

「そんなこと無いよ。ボクは大したこと言ってないもの」

「キミにとっては大したことじゃなくても、私にとっては分かりやすかったよ」


 そんな無垢な目で言われると照れるんだけど、もう。


 頬に熱が集まり口の中が乾いてくる。直接肌が触れているだけあって余計に体の反応が激しかった。


「ごめん、ボクちょっと喉が渇いたから何か飲み物買ってきていい?」

「ああ、構わないよ。私はここで待ってる」

「霜月さんは何か飲む?」

「じゃあ炭酸系のジュースを」

「うん、分かった」


 懸命に平静を装い、要望を聞きプールから上がる。温水プールにいたはずだが、全身を流れる血液が沸騰寸前なようで、身体全体がすっかりと熱を帯びていた。

 後方から水が破裂する音を聞きながら逃げるように競泳用のプールを後にする。膨らんでしまった右胸を手で抑えると心臓が激しく高鳴っていた。


 ボク、どうしちゃったんだろう。


 女性に対する耐性はあると思っていた。趣味や見た目の関係から昔から女の子との方が話が合うことが多く、苦手意識もあまりなかった。特に小学校高学年からは朝美と出会ったこともあり、女子を異性として認識したことは記憶を掘り返してみても見つからなかった。


 胸はドキドキしているのに頭はもやもやする。女の子になって思考まで変わってきちゃったのかな。


 理解出来ない感情に惑わされながら、温かな床を歩く。そして三十歩ほど歩いたところで重要なことに気付いた。


「そういえば飲食エリアの場所何処だっけ?」


 入場する時にリゾート内の構造図を見たものの、ぼんやりとしか覚えていない。今のぼやけた頭に案内を任せるには少々頼りなかった。


 何処かに看板。それかスタッフの人はいるかな。


 辺りを見渡してみるが残念ながら見当たらない。こうなれば自動販売機でもと探してみるがそれらしき影は無い。


「スタッフの人探す?」


 流れるプールのあるエリアまで戻る手もあるが、係員に道を尋ねる方がよっぽど確実だろう。楽観的だがもしかしたら飲み物だけでも購入出来る場所が近くにあるかもしれないのだ。


 あ……。


 ふと思うところがあり、振り返って先程までいた競泳プールの方を見るとハーフパンツにTシャツ姿の男性が見えた。首からホイッスルを下げ、帽子を付けていることから係員で間違いないだろう。


 冷静に考えてみればプールの周りに監視員がいるのは当然だよね。


 自分の間抜けさに呆れて踵を返した時である。


「こっち」

「あれ、霜月さん?」


 プールで練習しているはずの少女が横から現れ手を引かれた。彼女らしくない強引さが気になったが、真昼にとっては特に逆らう理由も無く、結果的に彼女が行く方向に引っ張られてしまっていた。


「あ、あの、霜月さん。練習は良かったの?」

「うん、君のことが心配だったから」


 やはり挙動不審な姿は迷子のように見えたのか、と真昼は沸き上がる羞恥心に思わず空いている手で目を覆った。


 彼女の行き先は競泳プールからあまり離れてはいなかった。しかしながら、ただでさえスパリゾートとしては人気の無さそうなエリアである。競泳、飛び込みが行えるといっては聞こえは良いが娯楽施設に求める物ではない。真昼の予想通り少し奥に入ってしまえば、人の姿は全くといっていいほどなかった。


 開けた空間から狭い通路へと進む。塩素の臭いが染み付いた壁に案内を見ると、更衣室への道のようだった。

 真昼達が使用したのは第一更衣室。建物の入り口から一番近い位置なこともあり利用者の数も多かった。看板の表示は第四更衣室。恐らく館内出入り口から離れた位置にあるのだろう。そもそもそこまで更衣室が必要なのかといわれると疑問も残るのだが。


 更衣室に売ってるのかな? 確かに第一更衣室には自動販売機があったような。


 真昼達が腕に身に着けているゴムバンドはバーコードが付いているため、金銭を持たなくとも買い物が出来る。館内で使用した分のお金は出る時に払うシステムなのだ。

 第一更衣室に自販機があるのだから、第四にあってもおかしくない。聡明な彼女のことであることを踏まえると、明らかに迷っている真昼を見て事前に係員に確認した可能性もあった。


「霜月さん、そっちは更衣室じゃないよ」

「こっちで合ってる」


 だが、彼女は更衣室へと続く道を歩まず分かれ道で曲がった。そしてシャワールームへと入ると四つ並んだ小部屋の奥へと入った。


「っ、霜月さんっ!」


 個室のドアを閉められ、退路を塞ぐように奥へと押しやられる。どうにか握られていた手は振りほどいたものの、彼女が放つプレッシャーにそれ以上は何も出来なかった。


「ひゃっ⁉」


 蛇口を捻る音と共に冷水が胸へと零れ落ちる。身が跳ねるほどの衝撃は続いて出た温水によって緩和されたが、対面する少女に主導権を取られるきっかけともなった。


「君は本当に可愛いね」


 言いながら愛猫を可愛がるように真昼の顎を撫でる夕。柔らかな皮膚と慣れた指使いに真昼の頭は沸騰寸前だった。


「霜月っ、さん。飲み物を買いにっ、行くんじゃなかったのっ」

「私はそんなこと一言も言ってないよ。君の勘違いじゃないかな」

「そんな──てか良い加減に、ふやっ!?」

「あはは、可愛い声が出た」


 己のものとは思えない程高音で純粋な声が出た。夕はそれを『可愛い』と表現したが、真昼には恥ずかしい以外の何物でもなく、思わず口に手を当ててしまうのは無理もない行為だった。


「もっと聞きたいな。君の綺麗な声。そして──」


 水滴を切り裂きながら少女の細腕が真昼の首を包み込もうとする。


「私の手で乱れる姿を」


 彼女の見下すような目線に戦慄が走る。

 未知の恐怖に真昼はただ身体を震わすことしか出来なかった。

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