其の三十 寂寞余韻――、突然は、突然でしかなくて、ハッとなった瞬間、それはもう突然とは呼べない


 がらんどうの屋上に広がる青空は相変わらず果てがなくて、およそ十メートル四方の灰色の地面に一人ポツンと佇んでいると、なんだか自分がとてもちっぽけな存在のように思える。マウスピースから口を離してふぅっと短く息を漏らした『僕』は、遠くのグラウンドで部活動に勤しむ運動部員に目を向け、ボーッとその風景を眺めていた。


 ――なんだか今日は、あまり集中できないな……。

 ふいに、錆びついた鉄がきしむ音が聞こえて、僕は思わずバッと後ろを振り向いて――


「……春風っ!? おま――」


 ――屋上にやってきた一人の少女の姿を発見し、漏れ出た声を慌てて喉の奥へとひっこめた。



「――ククッ……、『私』でゴメンね~~?」


 ボブカットの黒髪がフワリと揺れて、

 『御子柴あや芽』が口元を袖で隠しながら笑う。


 僕は自らの失態を覆い隠すように目を逸らし――、而してあや芽は猫のようなすり足で僕の元ににじり寄ってくる。


「……何、今の反応~? ……あ、春風ちゃんとなんかあったんでしょ?」

 ――そして、嫌らしい笑みを浮かべながら、嫌らしい声を上げる。


「別に、何もない。というか、元々何もない」

「ふ~~~~~ん……」


 ――嫌らしく伸びた語尾が耳の周りまとわりつくようで、僕の顔を覗き見ようとするあや芽と、目を合わせてやるものかと顔を右往左往させる僕との、無為な攻防が無限に繰り広げられ――、

 やがて諦めたのは『彼女』で、ガシャンと屋上のフェンスに背中を預けた。



「――昔のアンタは、女の子に優しかったのにね~~」


 鉄の網目に手をかけながら、ボーッとグラウンドを見下ろしているあや芽がそんなことを言う。とても練習を続ける気なんてなくなってしまった僕は、両手に抱えたサックスを地面に置いて、真っ黒なケースをガパッと開け放ったところで――


「……なんの話だ?」

 ――幼馴染という名の宿敵が放った台詞の意味がわからず、眉を八の字に曲げた僕がシンプルに疑問を返す。


「……シヨウちゃんさ、小学生の時、私のこと助けてくれたじゃん?」


 ふいに――、あや芽がくるっとこっちを向いて、ボブカットの黒髪がフワッと揺らぐ。

 彼女の顔はいつになく真剣で、コイツのこんな表情を見るのはいつ以来だろうと、齢十八年の歴史にグルグルと検索をかけてみた。


「私、変に頭が良いせいで、小学生の時にクラスの女の子たちから仲間外れにされてたじゃん。でも、一緒に遊ぼうって、鬼ごっこ誘ってくれたのシヨウちゃんでさ……、覚えてない?」



 ――ああ、そうか……。

 齢十八年の記憶の書庫――、検索にヒットしたのは、猫のような丸い目に涙を滲ませて、窺う様にこっちを見つめて、「いいの?」と、嬉しそうな幼子の顔で――



「――何百年前の話だ、覚えてるわけないだろう」

「……いや、つい十年前くらいの話なんですけど――」


 僕は嘘が下手だし、眼前の宿敵には特に通用しないことも知っていた。それでも忘れた振りをしたのは、ただ単に気恥ずかしかったからで――、あや芽は何かを懐かしむようにクスッと笑って、まぁいいかと、僕も釣られるようにフッと笑みをこぼした。



「……とにかくさ、今のアンタのこと好きになってくれる女の子なんて、たぶんこのあと何億光年経っても現れないんだから、泣かしてる場合じゃないっしょ」

「……泣かしてなんかいないさ、それに、僕は恋愛をしないと決めてるんだ」

「ふ~~~~~ん……」


 嫌らしく伸びた語尾が、相変わらず僕の耳の周りにまとわりつく。

 粘っこい糸が全身に絡まってしまったみたいに身体を動かすことができず、無防備な僕は台風が過ぎ去るのをただ待つことしかできない。


「ねぇ、シヨウ」

 ――ふいにあや芽が僕の名前を呼んで、真っ黒なケースにサックスをしまいこんでいた僕が、なんでもないように振り向いて――


「――さっきからなんだお前は、用がないなら早くここから出てい――」


 彼女の唇が、僕の口を塞ぐ。




 スッと身を引いたあや芽の表情は何故だか寂しそうで、唇に残った感触がほのかに暖かくて、急にフリーズしたモニター画面みたいに、僕の頭は何も考えられなくなっていて――


「――ッ!! 貴様……、な、な、な、な…………、何をするッ!?」


 現実に還ってきた僕の身体は後ろにのけぞっており、ガシャンと屋上のフェンスに背中をしたたか打ち付ける。眼前のあや芽が、イタズラ好きの小悪魔の如く笑いをこらえており――


「プっ、ククッ……、慌てすぎ。顔真っ赤にしすぎ。シヨウちゃん、かわい~~!」


 ――今一度言おう。僕が、小学校からの腐れ縁であるこの女に殺意を覚えた回数は、正直もう覚えていない。



「――殺す、この場でお前を、殺すッ……!」


 ガバッと立ち上がった僕は、屋上のフェンスに背を預けているあや芽の元へズカズカと歩みより、鼻先十センチメートルの距離――、小悪魔の皮を被ったサキュバスの顔面をギロリと睨みつけ――


「――もしこの先、また春風ちゃんのこと悲しませるようなことをしたら、今度は口の中に舌を入れてあげるからね?」

 ――首元からチクッと針を刺されたみたいに、僕の全身から蒸気が漏れ出た。



「……ど、どういう脅しなのだ……、ソレハ――」

「……なんでもいいけどサ――」


 スルリと僕の脇を抜けたあや芽が、くるくると滑稽な踊りを踊り始めた。――かと思うとピタっと回転を止め、フッと脱力するように笑う。



「……いい加減、素直になりなよ。ぶっちゃけ見てらんないよ」



 ――まただ……。

 


 またお前は、そんな顔をして――

 



「……私も、早く違う恋、始めたいしさ」

「――はっ?」


 どこぞの飴玉のマスコットキャラクターみたいにペロッと舌を出したあや芽が、腰を九の字に曲げながらわざとらしいウインクを披露する。


「……なんでもないよ~ん、じゃねっ!」


 気ままなノラネコのように、自由を舞うアゲハ蝶のように――、だらしなく手を振ったあや芽が、トタトタとだだっ広い屋上を駆ける。やがて、バタンッと錆びついた鉄がきしむ音が聞こえて――


 再び一人になった空間で、

 僕に与えられたのはうるさいくらいの静寂だった。



「……全く、どいつもこいつも……、僕のことは、そっとしておいてほしいというのに――」


 誰に向けるでもなく、そうこぼす。

 ゴロンと大の字に寝転がった僕の目に映る景色――

 視界の端から端まで覆っている青空はひたすらにだだっ広くて――、そういえば今は夏だったっけと、肌を覆うような汗がじんわりと滲む。



「……素直になれないわけじゃ、ないさ……」


 誰に向けるでもなく、再び声が勝手にこぼれて、

 湿った空気に混ざり合いながら、風のない空に漂って。

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