其の二十九 青春輪廻――、人の気持ちなんて、しょせん人の気持ちでしか動かせない


 ゆらゆらと流れる川の流れを見つめながら、時折耳に入るのは陽明の生徒たちの雑談だった。傾斜の緩い河川敷に腰をかけ、そういえば最近、一人で居るときはいつも先輩のことばかり考えていたなと、恋の呪いに溺れまくっていた昨日までの自分を、乾いた顔で眺める。


「――いいのかな、このままで……」


 先輩に気持ちを伝えられないまま、双葉には呆れられたまま――


 陰鬱がモヤモヤと心の中に溜まり、耐え切れなくなった私は思わず口を開く。

 はぁっと、本日何度目かもわからないタメ息が漏れ出ようとした寸前――




 ――ブニャッ……


「~~~~ッ!?!?」



 唐突な『熱さ』と、正体不明の『甘味』が口の中に広がり、

 私は思わず、声なき声で叫んだ。




「――アハハハッ!  ……モモカのリアクション、やっぱサイコーだわ~! お前将来、リアクション芸人目指せよ!」


 食事中にかんしゃく玉を鳴らされた鳩の如く――、バタバタと両手両足をばたつかせる私の眼前、癖の強い茶色の髪がフワッと揺らぎ、イタズラ好きの子猿が腰を九の字に曲げて爆笑していた。


 ――そして、私は全てを理解する。


 難波屋のどら焼きを急ピッチで購入してきた『向日葵』が、

 河川敷で一人たそがれる私の背後にそっと忍び寄り、

 アツアツのたい焼きを、口の中に無理矢理突っ込んだという悪行を――



 全神経を喉元に集中させ、マグマのように煮えたぎるあんこを気合で呑み込んだ私は、しかしその目には大粒の涙がうるうると滲んでいる。

 ――獲物を狙う鷹のような目つきで、私は『ターゲット』をキッと睨みつけ……



「……だ・れ・が……、目指すかぁぁぁぁッ!!」



 ――果たして、癖の強い茶色の髪がフワッと揺らぎ、私に頭を引っぱたかれた向日葵の身体が、夏の青空に孤を描いた。



「――っていうか向日葵、わざわざこんなことするために難波屋まで行ってきたの……?」

「……い、いや、イタズラを思いついたのは『買った後』でさ……、単純に、最近食ってなかったから、久しぶりに食いたくなって……、ホラ、お前と一緒に帰ってたときは絶対寄ってたのに、最近一緒に帰れなかったから――」


 ホクホクと湯気の立つ焦げ茶色の甘味を頬張りながら、傾斜の緩い河川敷に並んで腰をかける。向日葵の制服は泥だらけだし、その顔は擦り傷だらけだったが……、その件に関して、私は全く謝るつもりはない。


「……そうだっけ、ヤバ、自覚ないかも――」

「……お前、無意識にたい焼き買い食いしてたの? ……やっぱ病気なんじゃ――」

「……その顔、やめろっつの」


 大袈裟に口をあんぐり開けているのは『向日葵』で、フッと空気が萎むように笑ったのは『私』で――

 無邪気な少年のイタズラにすっかり心がほだされたしまった私の口から、世間話でもするように、心の声がこぼれた。



「……先輩と、双葉に、嫌われちゃった……」


 リスみたいにたい焼きを頬張っている向日葵が、一瞬だけ固まって、一瞬だけこっちを向いて、でもすぐにまた、もぐもぐと口を動かし始めて――


「……なんで?」

 なんでもないような、声を返す。


「……私が、自分のことばかり考えていたから――」


 淡々と紡がれたその声は、自分が思っていたよりも冷静だった。フフッと自嘲気味に私が笑って、隣に座る向日葵は相変わらずもしゃもしゃとたい焼きを頬張っている。


「……そっか」

 そして、なんでもないように、そうこぼした。

 


「……まぁ、あとでちゃんと、謝ればいいだろ」


 幾ばくかの静寂を経て、ふいにそよいだ夏風が私たちの前髪を揺らす。ボソッと呟いた向日葵の声は、とりわけ優しくも、とりわけ冷たくもなく――、でも、確かに私に向かって掛けられた言葉だった。


「……許して、くれるかな?」

「……平気じゃない? たぶん、だけどさ――」


 ぶっきらぼうにそんなことを言う向日葵が、焦げ茶色の甘味をゴクンと呑み込む。



 しばらくの間私たちは何もしゃべらず、傾斜の緩い河川敷に腰をかけたまま、ボーッと川の流れを眺めるか、雲一つない青空を見上げるか、とにかくたゆたうような時間を過ごしていた。

 ふいにボソリと、前置きもなく向日葵が声を上げる。


「夏だな」

 実に返答の困る発言で……、

 とりあえず私は聞き流していたが、向日葵はボソボソと言葉を繋いでいく。


「……夏ってクソ暑くて、来るたびに早く終われって思うんだけど……、終わっちゃうと、早くまた来ないかなって感じるから、不思議だよな」


 これまた返答の困る発言で……、

 でも向日葵が言いたいことがなんとなくはわかったので、私はその気持ちをそのまま返した。


「……わかるようで、わかんないかも」

「……わかんねーのかよ」

「いや、少しはわかるってば」

「でも、全部はわかんねーんだろ?」

「うん、全部はわかんない」

「……そうかよ」


 ――そして、私たちの間に、再びたゆたうような時間が流れる。


「なぁ」

「……うん」

「いや、俺ってお前のこと好きじゃん?」

「……うん」




「――――はっ?」

「だから、やっぱお前には元気でいてほしいっつーか、……あんまり、しょげた顔してて欲しくないっつーか――」

「――ちょっ、ちょっと待って!」



 世界が一瞬だけ止まって、

 私の視界に映るリアルが、

 急ピッチで高速回転を始めて――



「アンタ、今なんて言ったの?」

「……いや、夏ってクソ暑くて――」

「――戻り過ぎ戻り過ぎっ!? ……そのあとよ、……アンタ、なんて、言った?」

「……いや、『俺お前のこと好きじゃん』って――」




 ――果たして、『はぁっ???』。

 きょとんとした顔で私を見つめているのは『向日葵』で――、っていやいやいやいや!?

 『何驚いてんの』みたいな顔してるけど……。



 隣りを座る幼馴染から飛び出してきたその台詞が、

 まごうことない事実で、ゆるぎない真実であるとしたら、

 およそそのまま、聞き流すことなんてできるわけがなく―― 



「お前、なんて顔してんだよ……、瞳孔開きまくってるし、口からよだれ垂れてるぞ……」

「……ウソ、でしょ? 私のこと、好き……、とか――」

「……さすがに、このタイミングで冗談なんか言わねぇよ」

「な、なんで……、いつ、から――」


 淡々と、呆れたように言葉を返す向日葵とは対照的、相変わらず瞳孔が開きまくっている私の口からは、およそゾンビの唸り声しか出てこない。


「いつ、だろうな……、小学校高学年か、中学校の時か……、気づいたらだよ。……一緒の高校に行けるってわかった時、スゲー嬉しくてさ、ハッキリと確信したのは、そんときかな……」

「あ、あれ……、でも、こないだの夏祭り……、彼女と一緒に来てたじゃない?」

「……彼女? ――あーっ、あれ従妹だよ。五つ年下の……、ませて見えるけど、アイツあれでまだ小学生だから」

「……ぇ、そうなの……?」


――果たして、『納得』。

 勝手に同い年くらいだと思っていて、妙に子供っぽい喋り方をするのでイライラしていたのだが……、得てして、本当にまだ子供だったとは――



――えっ、っていうか私……

 驚愕の事実の裏側に隠された驚嘆の真実……、自分が犯したとある『過ち』に気づいた私が、ハッとなり――


――私のことを好きな相手に、自分の恋愛相談してたの……!?




「あのっ!?」


 蒼白の面持ちで、ガバッと立ち上がったのは『私』で――、しかしそのあと、なんて言っていいのかわかるわけもなく、


「あの、私ッ――」

「――あー、いいっていいって……」


 勘の良い幼馴染は全てを察したらしく、明後日の方向に目をやりながら、罰の悪そうに頬を掻く。


「謝るなよ。……謝られたほうが、みじめだろ」

「――で、でも……ッ!」

「――それに、言ったろ? 俺、嬉しかったんだよ。好きな奴できたって、お前から聞いて。……もちろん、ガッカリした気持ちもあったんだけど、どっちかっていうと、なんか安心してさ……」

「へっ……?」


 ヘラッと力なく笑った幼馴染の顔は、強がりを言っているようには見えなかった。勢いよく立ち上がった私は、しかし行き処を完全に失っており、そんな私を見かねたように、おもむろに立ち上がった向日葵と私の視線が重なって――


「――いやさ、一昨日の夜、お前に偉そうなこと言っておいてアレなんだけど……、たぶん俺、自分の気持ちをお前に伝えることなんて、一生できなかったんだわ。……お前のことだから、ぜってー気づいてないのも知ってたし、でも、変なコト言って関係が壊れるのもイヤだったし……、どうすっかなーってずっと考えてたんだけど、お前と一緒に居られるだけで楽しかったから、まぁとりあえずこのままでいいかな……、なんて先延ばしにしてたら、あっさり冬麻先輩に先越されちゃって、だせぇよな、ハハッ……」



 幾ばくかの静寂を経て、ふいにそよいだ夏風が私たちの前髪を揺らす。



 目の前につきつけられた幼馴染の思慕を、「ああ、そうだったんだね」と速やかに受け入れられるほど私の頭は柔軟にできていなくて――、向日葵が発した一つ一つの言葉が、私の耳から耳へとただ流れていく。


ボーッと突っ立っている私は、自分でも今どんな顔をしているか想像もできなくて――


「――だからさ……、お前が前に進もうとしているなら、俺も進まなきゃって思ったんだよ。いつまでも、昔の自分の気持ちに固執しててもしょうがねぇよなって……、いいきっかけだったんだ。だから、気にすんな、でさ――」


 ――でも、珍しく真剣な顔つきになった向日葵が言ったその言葉は、ハッキリとした輪郭を以て、私の耳の中に響いた。


「……お前も、けじめだけはつけろよ……、俺だってできたんだから、お前にも、できるだろ?」



 だだっ広い河川敷の直路が地平線の向こうまで続いており、癖の強い茶色の髪を揺らす幼馴染の顔は、いつもより大人っぽく見えた。

 私は、等身大の姿で、等身大の気持ちを伝えてくれた向日葵に対して――


「……約束、する。……私、もう、逃げないよ」

 ギュっと握りこぶしに力を込めて、人生二度目の決意表明を宣誓した。



「……自分の気持ちをちゃんと先輩に伝えるまで、この恋は、絶対に終わらせない――」



 ふいにそよいだ夏風が、私たちの前髪を揺らす。

 こぼすように笑った向日葵が、「そっか」と一言、なんでもないように呟いて――


「……あっ、『たい焼き三つおごる』って約束……、さっきのやつ前払いってことでカウントしていい?」

 そんなことを言うもんだから……。


 夏の青空に向かって、

 私は一言「ドケチっ!」と叫んだ。

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