其の六 沸点越え――、「熱っぽいな」と思ったら、体温を測る前に想い人に連絡するといい
――あっ……。
曖昧で難解な歌詞が多い『クロユリ』の中では珍しく、男女の恋を真摯に綴った一編、『夏ぐれ』――、大好きなメロディが私の耳に流れ、先輩は空に向かってサックスを吹いていた。湿った風が頬を撫でつけ、淡いブルーの景色に身体が溶け込んでいく。目を瞑ると、力強い呼吸音が肌にまとわり、私は先輩が創った世界を全身で感じていた。
ワンコーラスが終わったところで、ピタリとメロディが鳴りやむ。パチッと目を開けると、私の視線の先、ふぅっと短い息を吐き出した先輩が、誰に向けるでもないように、灰色の地面に声を落とす。
「――君、夏は好きか?」
「……えっ――」
急な問いかけに、私の口から思わずマヌケな声が漏れ出た。フッと先輩がコチラを向き、私たちの視線が交錯する。夏風にさらわれた先輩の前髪がなびき、彼の声が湿った空気に混じる。
「僕は、季節の中では夏が一番好きなんだ。うだるような暑さに全身が火照り、じわじわと皮膚の表面に汗が浮かび上がっていく感覚が……、なんだか、僕は生きているんだなって……、生命を活き活きと感じることができるから」
距離にして、約五メートル――、遠くから私を見つめる先輩が、必死に喉を絞り、低いトーンの声を私に届ける。
「――だからね、僕はこうして、夏の空の下でサックスを吹いている時が、一番……、『今、生きているな』って、感じることができるんだ」
そこまで言うと先輩は再び地面に目を落とし――、私たちの間を流れたのは、『沈黙』。
先輩が、何故急にそんなことを言いだしたのかはわからない。先輩が言ったことを自分も同じように感じられるのかと問われると、自信がない。
――でも、想いを綴る先輩の顔はハッとなるくらい真剣で、そして、唯一自分でも共感できた感覚――
「――私も、夏が一番好きです!」
先輩の真剣に答えるようにと、私も全力で喉を振り絞って叫んだ。
「夏の空の下、プールに飛び込んで、視界に透明な青が広がって、太陽の光が水の中に差し込んでいて、音が聴こえなくなって、全身が宙に浮かんでいる感じがして……、その感覚が全部大好きで、だから、もしかしたら、その瞬間に――」
「――自分は今生きているって、感じているのかも?」
私の言葉を最後に紡いだのは『先輩』で――、夏風にさらわれた先輩の前髪がなびき、彼はフッと口元を綻ばせた。
――あっ、先輩……、笑うんだ――
なんでもないことだ。当たり前のことだ。
人は悲しければ泣くし、嬉しければ笑う。
――『先輩が笑った』。そんな『なんでもないこと』なのに、私は世紀の大発見をしたように嬉しかった。胸の中を暖かい気持ちが急ピッチで広がり、私も思わず口元を綻ばせて笑う。
「そういえば君、名前はなんていうんだ」
ふいに投げられた先輩の声が、風を伝って私の耳に届き――
「――は、春風です、春風、杏々香……」
返事を返した私の声が、湿った空気へ拡散していく。
「春風か……、僕は冬麻というんだ。『
「あっ……、ホントですね、フフッ……」
遠慮がちに笑った二人が、互いの顔に目を向ける。先輩と同じ感覚を持つことができたのが妙に嬉しくて、なんだか生ぬるいお湯に半身だけつかっているような感覚が心地よくて……、この空間にずっと居たいと思っていた私の耳に――
「春風、僕は毎日ここでサックスを吹いている。お前が来たいのなら、いつでも来ればいい」
「――えっ……?」
私の心臓をひょいと持ち上げるように、先輩が『そんなこと』を言った。
「い、いいんですか……、この前は、邪魔になるから出ていけって――」
「――うるさいな、この前はこの前だ。別に来たくなければ来なければいい」
「そ、そんなこと! また、来ます……、いえ、『毎日』来ます!」
慌てたように大声を上げた私が面白いのか、再び先輩がフッ口元を綻ばせて笑う。
――先輩、また笑ってくれた。……や、ヤバイ……。
――果たして、『沸点超え』。
嬉しさと恥ずかしさのパラメーターが限界突破した私は、フラフラとした脳で立っているのがやっとだ。ドクドクと高鳴る心臓は誇張無く飛び出しそうで、どうにかなってしまいそうだった私は思わず「失礼します!」と大声をあげる。――そして、脱兎のごとく踵を返し、がらんどうの屋上から無様に退場した。
――バタンッ……
錆びついた鉄が軋む音が響き、私は扉を背もたれにその場にへたりこむ。ドクドクと心臓の音が鳴りやむ気配はなく、その理由が思いつかなかった私は、観念するように一人声をこぼした。
「これ……、もしかして――」
――ホントに好きになっちゃったの……、かも――
心の中に反響した言葉が、私の体温を一気に加速させる。パタパタと首元を掌で扇いでいる私は――、しかし止まる気配のない汗に一人困惑していた。
※
――バタンッ……
錆びついた鉄が軋む音が響き、逃げ出すように屋上から出ていった彼女の背中を、僕は呆けたように見つめていた。
「…………はぁ~っ――」
身体中に溜まっていた息が全身から放出され、手に持っていたサックスをゆっくりと地面に置いた僕は、大の字になってゴロンと地面に寝そべる。
――君、夏は好きか――
――僕は毎日ここでサックスを吹いている。お前が来たいのなら、いつでも来ればいい――
自分で言った言葉が心の中で反響し、僕は自らの視界を奪うように両腕で目を覆った。何故あんなことを言ったのか、自分でも未だにわからない。
――『アイツ』以外の女子と話しをするなんて、何年振りだろうか……
普段、口数が多い方ではない僕は、初対面の人間と話すのが極度に苦手だった。特に、異性は何を考えているのかが全くわからず、突然屋上に現れた彼女も例外ではなかった。
――僕の、サックスを聴きに来ただと……、プロでもなんでもない、ただの高校生である僕の演奏を……? 信じられない……、そもそも、彼女はどうやって僕のコトを知ったのだろう――
グルグルと頭の中に浮かぶのは幾多の疑問符。而してそれらの解は一つも見当たらなかった。なんだか身体が鉛のように重く、目の上を覆っていた腕を解き、のそりと起き上がった僕の眼前――
猫のように丸い目がくりくりっと輝き、ボブカットの黒髪がフワリと揺れる。
「――って、『ラブコメ』かっ!」
――『ソイツ』がドンッと僕の身体を突き飛ばし、僕は固いコンクリートの地面に背中をしたたか打ちつけた。
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