其の七 小悪魔子猫――、泣く子と地頭と幼馴染とはいくらやりあっても勝てないらしい
「……つぅっ……」
なんとか絞り出たのは呻き声で……、『ソイツ』が覆いかぶさるように僕の顔を覗き込んだ。にぃっと口角を不気味に吊り上げ、掌を覆っている袖で口元を隠し、使い魔のように妖しい『ソイツ』の笑顔が、僕の視界から青空を奪う。
「――なになに~? 今の子、誰なの~? っていうかシヨウ……、何めっちゃ青春しちゃってんの~~?」
「あ、あや芽……」
――性格非道、陰険邪道、この世のすべての『悪意』を混ぜ込んで三日三晩煮こんだ鍋から産まれた女、『
小学校からの腐れ縁であるこの女に殺意を覚えた回数は、正直もう覚えていない。
寝転んだ体勢のままずずっと後ずさるように彼女から距離を離した僕は、屋上のフェンスにガシャンと身を寄せながら、今度こそ身体を起こした。ペタンと女ずわりで地べたに座り込んでいるあや芽は相変わらず袖で口元を覆っており、クスクスと不愉快な笑いを止めようとしない。
「貴様……、いつからココに居た……?」
「えっ? お昼休みから。一人でひなたぼっこしてたんだけど、気づいたら寝ちゃってたんだよね~」
「……どういうコトだ。僕は放課後になってずっと屋上にいたが、お前の姿なんてついぞ見かけなかったぞ……?」
「いや、アソコの上に居たからね」
言うなり、カーディガンに覆われた右腕がピーンと伸ばされ、彼女は入り口部分にあたる四角い建物――、屋上の塔屋に目をやった。
「……お前、もしかして、さっきのやりとりを――」
「……なんだっけ、『君、夏は好きか?』……、だっけ? プププッ……」
「――ぶっ殺すぞ」
――人生最大の汚点だった。最も見られたくない姿を、最も見られたくない人物に見られた。死にたい。僕は今、自分が生きているという感覚が一切なくなっていた。地球の重力が何倍にもなったかのように身体が重く――、しかしあや芽は大口を開けながら一人愉しそうに笑っていた。
「――いや~、でも『あの子』には、アンタの臭い台詞もグッときてたみたいだからさ~、いいじゃん! シヨウちゃんにもようやく春がきたんだね~、今は夏だけど」
「お前……、何を言っているんだ? あの子は僕のサックスを聴きに来ただけで、僕たちは別にそういう関係ではないぞ」
宇宙人を見るような目を向ける僕と、
異星人を見るような目を向けるあや芽の、
視線が交錯し――
「……いや、そんなのとっさのでまかせに決まってるじゃん。シヨウ、本気で言ってるの?」
僕の口から、「えっ」とマヌケな声が漏れ出る。
「……違うとしたら、どんな理由があるというのだ。彼女は吹奏楽部じゃないんだぞ。ココに来る理由が一つも見当たらないじゃないか」
「――ダ・カ・ラ~~、誰がどう見ても、シヨウちゃんに惚れてるでしょ、あの子? 適当な理由でっちあげて、アンタに会いにきたんだよ」
「…………はぁっ?」
新種の虫を見るような目を向ける僕と、
新種の深海魚を見るような目を向けるあや芽の、
視線が交錯し――
「――どこをどう考えたらそういう結論になるのだ。彼女と僕は昨日が初対面だし、ろくにに会話すらしたことないんだぞ?」
あや芽の口から、ハァッと大仰なタメ息が漏れ出る。
「……理由はわかんないけど、一目惚れでもしたんじゃないの? あの子、めちゃめちゃ乙女チックな表情してたじゃん。『恋』って文字をグーグル検索にかけて、トップに出てきそうな」
「――バカな、お前は少女漫画の読み過ぎで、しかもネットのやりすぎだ」
「いやいや、シヨウちゃんが鈍ちんなだけだっつの。ってかラブコメ見せつけてきたのはアンタらの方でしょうが」
――果たして、『平行線』。
彼女がココへ来た理由……、『僕のサックスを聴きに来た』という点に疑問を抱いているのは一緒だったが、『僕に惚れているから』という荒唐無稽な解答には断固賛同できない。とりわけて容姿がいいわけでもなく、ましてや人付き合いの悪さからどちらかというと人からの評判は悪い方だ。僕に惹かれる女がこの世に居るとは思えない。それに――
「――シヨウちゃんも、まんざらじゃないんでしょ? あの子のこと」
ハッと意識が戻った僕の眼前、御子柴あや芽が不敵に笑う。
「……何を言っている。さっきも言ったが僕と彼女はほぼ初対面だ。そんな浮かれた感情が芽生えるわけないだろう……」
「え~~? じゃあなんであんなキザな台詞が飛び出してきたの~? 普段のシヨウちゃんなら、絶対言わないじゃん!」
「そ、それは――」
――それは、自分でもわからなかった。
だがしかし、ここで言葉が詰まってしまえばあや芽に負けを認めてしまうことになる。それだけは絶対に嫌だった。……いや、これ勝負なのか? ――とにかく慌てた僕の口から、脳に浮かんだ言葉がそのまま流れ出て――
「き、昨日見たドラマの台詞を、言ってみたくなっただけだ……」
――果たして、『ジト目』。
明らかに僕の言葉を信じていない目つきのあや芽が、ニマリと口角を不気味に吊り上げる。
「――なんて名前のドラマ?」
「えっ! ……き、『君と僕のひと夏のサマー』……、だったかな?」
「――女優、誰が出てるの?」
「えっ! ……な、『なつのもり なつこ』……、だったかな?」
「――シヨウ、ウソは、よくないよ」
「……スマン」
――果たして、『完敗』。
僕は両手両膝をコンクリの地面につきながら、もうウソは吐くまいと雲の上の祖父に誓った。
「シヨウ、実際のところ、どうするの?」
未だに四つん這いのポーズで己の敗北を噛みしめている僕を尻目に、グッと伸びをしたあや芽がそんなことを言う。日照時間の長い夏とはいえ、夜の七時に差し掛かっている青い空はさすがに暗がりが帯び始めてきていた。
「……どうするもこうするも、先ほども言ったが彼女は別に僕に惚れてないし、僕も彼女に対して特別な感情はない。何も、しないさ」
ムクっと起き上がった僕は、地面に置いてあったサックスを持ち上げてケースにしまい始める。何の気なしに放った台詞だったが、あや芽はなぜかきょとんと不思議そうな顔をしていた。
「あ、いや……、まぁ、その件に関しては百歩譲ってそうだとしても、あの子、毎日来るって言ってたじゃん、大丈夫なの?」
「……何がだ?」
――嫌な予感がする。
ザワザワと、夏の湿った風が頬を撫でつけ、僕の胸の中に黒い記憶がよみがえってくる。
「……あの子、遠目から見てもバッチリわかるくらい――、かなりの『巨乳ちゃん』だけど――」
――果たして、『予感は当たった』。あや芽とは小学生からの腐れ縁だ。
……つまり、あや芽は僕の過去をすべて知っている。
「……貴様、何が言いたい?」
――聞いておきながら、僕は彼女の次の言葉を知っていた。自分で言わなかったのはシンプルに自分で言いたくなかったにすぎない。
「シヨウちゃんさぁ、あの日以来……、苦手なんでしょ? 巨乳の子……、それこそ、近くにいるだけで顔真っ赤になっちゃうくらい――」
ザワザワと夏の湿った風が頬を撫でつけ、眼前の少女――、御子柴あや芽が、まっ平な自分の身体を両腕で覆いながら不快に笑う。
その仕草が妙に癪に障った僕は――
でも彼女が放った台詞が図星だと気づいていた僕は――
「フ、フフ、バカを言うな……、巨乳が……、苦手だと――」
行き処を失った負け惜しみを、
明後日の方向に向かって全力で放り投げる。
「むしろ……、大好きだよ! ハァーハッハッハーーッ――」
空威張りな大声ががらんどうの屋上に響き渡り、あや芽のジト目が僕の心臓を貫いていたが……、
僕は気づかない振りをするのに必死だった。
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