其の五 無邪気罪――、たい焼きを食べ過ぎると、お尻から茶色い尻尾が生えてくるらしい


「――はぁ~っ……」


 放課後の学校。夕方の六時を超えているというのに、七月の太陽は未だにその役目を月に渡そうとはしない。水泳部の練習が終わり、制服に着替えた私は一人プールサイドに腰をかけていた。まっ平な水面は波一つ立てることなく、一枚の透明な板のように淡く広がっている。


 ――さっさと帰ればいいのに、私、何やってんだろ……

 昼休みに言われた河合さんの台詞が頭から離れない。昨日出会った彼……、『冬麻先輩』と呼ばれるその人は、放課後屋上に行けば会えるらしい。そろそろ閉門の時間なのでうだうだしている時間はないのだが、そもそも私が冬麻先輩に会いに行く理由が見当たらない。会ったとしても、自分がどうしたいのかもわからなかった。ただ――


 ――先輩、なんで私に『近づくな!』なんて言ったんだろう。ちゃんと、理由を聞きたい――


 でも、それだけの動機でもう一度屋上の扉を開ける勇気は、私にはなかった。


 会いたい、会いたくない。

 聞きたい、知りたくない。


 思考のループにハマり、私の脳内メモリは明らかなキャパオーバーを起こしている。頭がオーバーヒートし、プスプスと煙が出そうになっていた私の肩を――



「――わっ!?」

「――っぎゃああああああっ!?」


 ――誰かが揺さぶり、私の悲鳴が夏の青空に響き渡る。


 昨日とは全く別の理由で――、私の心臓はドキドキと高鳴りが止まらない。くるっと振り返って、キッと睨みつけたその先――


「アハハハッ! 驚きすぎだろ! お前のリアクション、やっぱ何回見てもおもしれ~な~!」


 癖の強い茶色の髪がフワッと揺らぎ、『ソイツ』はくしゃっと顔を潰して笑っていた。



「――ひ、『ヒマリ』……、もう、急に声をかけるなって、アンタは何べんいったらわかるのよ」


 眼前の少年――、『天野あまの向日葵ひまり』が「わりぃわりぃ」と掌を合わせてペコッと頭を下げてはいるが、ヘラヘラとだらしなく笑っているその顔からおよそ反省の色は見えない。はぁっと露骨なタメ息を向日葵にぶつけた私は、くるっと再びプールの水面に目を向ける。


「何やってだよ、こんなところで一人で。もう練習終わったんだろ? 帰らないの?」

「帰る……、帰るわよ。ただちょっと……、た、体調が悪くて、少し休んでいるだけ……」

「……ああ、確かに、今日の練習でも調子悪そうだったもんな。陽明のノコギリザメと呼ばれるお前が」

「……変な二つ名付けるのも、やめろっつの……」


 気づけば向日葵は私の隣に腰を掛けていた。チラッと横目で彼の顔を見ると、それに気づいた向日葵が再びくしゃっと顔を潰して無邪気に笑う。


「なんか変なモンでも食べたのか? ……あ、わかった! 昨日また練習試合のあとにたい焼き食べすぎたんだろ!」

「ち、違うわよ……、その、昨日考えゴトをしていたら、あんまり眠れなかっただけで……」

「――えっ……?」


 それまでヘラヘラと笑っていた向日葵の顔が、急にスッと神妙な顔つきに直る。久しぶりに見た幼馴染の真剣な表情に、思わずドキリと心臓が動いて――、でも私は、その事実に全力で気づかない振りをした。


「な、なによ、急に真面目な顔して……」


 ぐっと向日葵が顔を近づけて――、「コイツこんなにまつげ長かったっけ」とか余計な思考が脳裏をよぎる。柄にもなく恋に悩んでいるせいか、普段は何も思わないのに、鼻先十センチメートル先の向日葵を私は異性として意識しまっている。そんな自分を認めたくない私は、浮かれた自意識を全力で押し入れの奥へおしやって――


「い、いや、モモカ……。お前でも、悩みごとで夜眠れなくなることなんて、あるんだなって……」



 ――果たして、『独り相撲』。

 妙な自意識に一人振り回されていた私は、恥ずかしさと情けなさにズシリと押しつぶされるように、ガクッと首を落とした。


「……あるわよ。アンタは私のコトをなんだと思っているの?」

「えっ? 筋肉おっぱい魔人」

「だから、殆ど悪口じゃない!」


 怒りをバネに、跳ねるように飛び上がった私の罵声が夏の青空に響き渡る。何が面白いのかケラケラと笑う向日葵を一人残して、私はスタスタと荷物が置いてある更衣室へと向かった。


「――なんだ、帰るの?」

「帰るわよ。どっかの誰かさんのおかげで、元気でてきたからね。無駄に」

「そっか、よかった!」


 皮肉で言ったつもりだったのだが、しかし向日葵は子供みたいに笑っていた。ふぅっと息を漏らした私が、「まぁいいか」と心の中で一人呟いたその瞬間――



 フワッと風が舞って、一瞬だけ世界が止まった気がした。

 まっ平な水面が少しだけさざめき、私の視界に淡いブルーが広がる。

 聴いたことがないような、でもとても懐かしいような『メロディ』が、私の記憶の『音』と重なっていき――



「――ごめん、また明日!」

「えっ? お、オイ――」


 ポカンと口を開いた向日葵を置き去りにして、私は校舎のてっぺんに向かって猛ダッシュを始める。



 ――ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ――

 膝に手をつき、中腰の体勢で荒い呼吸を整える。さっきシャワーを浴びたばかりなのに全身は汗だくで、白いシャツがべったりと肌にくっついていた。


「……ふぅっ、大丈夫、大丈夫――」


 誰に向けてでもなく、こぼす様に独り言を漏らす。何に対しての「大丈夫」なのかが自分でもわからず、とにかく私は心拍数を整えるのに必死だった。眼前には錆びついた鉄の扉。その扉の先に、きっと彼はいる。昨日と同じ、青い景色に溶け込むように、一心に音を奏でるその人の姿が――



 ――キィッ……

 鉄がこすれる音が遠慮がちに響き、少し暗くなり始めている青空が視界に広がる。 聴いたことがないような、でもとても懐かしいようなメロディが私の耳に届き、ぐしゃぐしゃに絡まっていた心の糸が一気に解きほぐされていく。


 ――やっぱり、これ、『クロユリ』の曲……

 遠慮がちに歩みを進め、昨日と同じ場所、彼は空に向かってサックスを吹いていた。愛でるように指を動かし、風に委ねるように身体を揺らし、目を細め、自分の世界に没頭するよう――


 しばらくそのまま彼の姿を見ていた私だったが、アウトロの終演と共にその人がこちらに目を向けた。私の意識がハッと現実に戻り、その人も驚いたように目を丸くしていて――


「……また、君か」


 ――声をこぼしたのは『先輩』で――、でも、昨日みたいに私を怒鳴りつけたりはしなかった。


「昨日も聞いたが、答えてくれなかったな。君は吹奏楽部の生徒ではないだろう。それに僕の知り合いでもない、君は一体、なんでこんなところに居るんだ?」


 ――なんで……。

 問われた私の脳はフリーズし、中々返事を返さない私に対して先輩が訝し気な目線をぶつけた。

 なんでと言われても、『自分でもわからない』。あのメロディが聴こえてきて、身体が勝手に動いて……、そうとしか答えようがなかったが、そんなことをそのまま言うわけにもいかない。何か答えなきゃと焦った私の心臓は再びドクドクとペースアップを始め、混乱した私の口から勝手に声が漏れ出て――


「せ、先輩のサックスを……、聴きたくなったから、です――」


 およそ五メートルくらいだろうか。一定の距離を保った二人の間を、夏の湿った風が流れる。


「……僕の?」


 数秒間の沈黙を経て、こぼすように口を開いたのは『先輩』で……、一人慌てている私は頼まれてもいないのに早口で細く説明を試みる。


「昨日も、今日も、先輩の吹くサックスの音が聴こえてきたんです。私の、大好きな、『クロユリ』のメロディ……、だ、だから、もっと近くで聴きたいな……、って――」


 言いながら、私の脳内に一つの疑念が浮かび上がる。

 見ず知らずの他人に、いきなりこんなことを言われたら、フツウどう思うのだろうか?


 ――果たして、『怖いに決まっている』。

 ストーカー扱いされてもおかしくはない自分の失態に一瞬で後悔した私は、顔を紅潮させ、思わず地面に視線を落として――


 世界が再び止まって、私の視界が音に支配される。

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