31:artbook 右腕


 久遠くどおあさひはベッドに寝転んだまま、くたびれたスケッチブックに海辺の景色を描いていた。夜明けの薄青い光を避けて胸の痛みに手を遣る。

 昨日の屋上以来、ほたるとは会話をしていない。落下の際にフォンが壊れたらしく、画面が割れて電源が入らない状態になっていた。

 飛田ひだは確かに死んだのだろう。不愉快な刑事に加害者扱いをされかけたが、駆けつけた奴の両親から真実が語られたことで檻行きを免れた。

 彼らの話によると、海外で収容しきれなかった震災孤児がシティ・グランの施設にも移送され、その中にいた飛田を養子として引き取った。過去に生まれたばかりの長男を失くしたため、兄がいることを連想させる興二こうじという名をつけたようだ。

 しかし、当時初等科高学年の飛田と暮らし始めてから、近所の幼児が立て続けに事故死する不審さに疑念が募っていく。生徒が世話をしていた飼育小屋の動物が圧殺された日、表面上は綺麗な通学用の革靴の裏に、大量の血肉と毛が貼りついていた。その出来事で奴の犯行を確信したらしい。こちらは署内のロビーで廃人化していたので夫妻の姿は見ていないけれど、会議室でなされていた遣り取りが重く漏れ聞こえてきた。『ですが、私共の前では明るくて、誰からも好かれる優秀な子でした』という台詞が精神に波紋を広げる。

 普通に生きて、彼らを悲しませない選択肢はなかったのだろうか。蛍は飛田の正体を知ったかもしれないが、奴の身内であるフィデルとグレースを罪悪の槍で苦しめたくない。

 できるだけ早く、猟奇犯の血で汚れた服を洗わなければ。

 今日以降、蛍は後ろ暗い絵描きとの関わりを断ち、主義主張を持った女子高生として暮らしていけばいい。飛田の件が片づいたので、会って話をする理由がなくなってしまった。

 だいぶ前からこうなることを覚悟していたのに、なぜ折られた鉛筆のように傷つこうとしているのか。

 砂浜の血痕を描いている途中にインターホンが鳴った。どうせ聞きたがりな刑事かクリニックの元患者だろうと思い、上手く死ねなかった悲痛を抱えてベッドの中で静寂を待つ。

 昼頃に玄関ドアの方へ立ち寄ってみると、ポストに珍しいものが挟まっていた。若干潰れているが、袋に入ったパンと手紙だ。蛍の大人びた字で『旭、生きてるでしょ? いつもの公園に来て』と書かれている。フォンが繋がらなかったので、目を見て直接言うつもりかもしれない。焼き立てのあたたかさが残るパンは、きっと穏やかな餞別だ。

 その他に封筒が1通届いていた。宛名も消印もない。操られるように内容物を取り出す。

 寂しい音が手の中に溶け、何かが終わろうとしている気配を察した。

 3枚ほど重なった紙を開いてみると、装飾のない便箋に硬い文字が並んでいる。陰気なダイアリーと同じ人物の筆跡であることがすぐにわかった。

「……は?」律儀な文面の割に話が酷すぎて唖然とする。始めに、代理人を通じて依頼してきたバイトは、自分の母親である久遠サナが筆を執り、『近宮ちかみや一喜かずきの悪心』と称してしたためたフィクションであること。そしてそれを、彼本人が清書するに至った経緯が打ち明けられていた。「挿絵いらないだろ。嫌がらせかよ」

 作中の『私』が、以前声をかけてきた医師の近宮。『さくら』はサナで、『のぼる』が父の恭介きょうすけ。どうでもいいが、描写は事実を基にしているらしい。

 続きを読むと、恭介が近宮を差し置いてサナと結婚するという、裏切りともとれる行為が暴露されていた。やがて子の出生に黒い疑惑を抱いた恭介が、熱心に研究していた記憶移植の実験に幼少期の自分を酷使した前科に加え、激しさを増す彼の異常性に恐怖を感じた近宮とサナが、車に細工をして恭介の殺害を企てた一部始終が記されている。

 残念ながら決行の朝、予期せぬ悪夢が起きた。キッチンで怪我をしたサナを強引に車に乗せ、恭介が医療センターへ向けて出発したところ、坂道の曲がり角で街路樹に激突し、彼女だけが重傷を負った。すべてを悟った恭介は、サナを海外の実家へ送り返して一切を遮断した。あまり憶えていないが、おそらく面倒見のいい平間ひらま医師に自分の養育を任せたのも近宮だ。サナからは連絡がなく、居場所や生死が掴めていないらしい。

「俺も知らねえよ……」

 想い合っていたはずのふたりはなぜ結ばれなかったのか。過去が変われば自分は生まれずに済んだかもしれない。人は皆、やり直しのできないゲームの配下だ。

 彼らに与えられた末路には意味があり、自分と蛍も同じだと思いたい。

「灰色の街は捨てるしかないな」

 そのうち彼女はまともな命と言葉を交わし、ブランコで絵を描いていた美大生を忘れていく。初めから存在していなかったみたいに、顔も声も、よく着ていたトレーナーの柄さえ記憶に残らないだろう。

 いつかはこれでよかったと思えるはずだ。辛くても簡単に壊れてはいけない。

 孤独に敗けて、もうひとつのルートを選んだ自分を想像できた。地面に膝を着き、ブランコの囲いに腰掛けた彼女に縋りつく姿が、惨めで、哀れで、とても幸せそうだ。

 このまま浅い夢のように閉じていけばいい。出会った瞬間に奇蹟の欠片を使い切ってしまった。信じてくれる唯一の灯が、自分の小さな世界から失われようとしている。

 長く憎悪に殴られてきた胸の奥に、水色に光る花びらだけが残った。それもやがて暗い血に侵されていく。

 塞いだ感情に添え木をしなければ。新しく知り合った者は、「旭」と下の名前では呼ばせない。今後、市民が死ぬほど困っていても絶対に助けないと決めた。

 本当は、宇多川うたがわ蛍という澄んだ青空を絵の中に閉じ込めてしまいたい。傷つけ、苦しめるとわかっているのに、誰にも触らせず側に置いて、自分ひとりのものにしたかった。受け取ったやさしさや、白く清潔な指先、凛とした声も、不器用すぎる美術の課題も全部。

 重なっていて気づかなかったが、手紙には4枚めがあった。

『私は、皆の救いのために恭介を葬れなかった過去を悔やみ続けている。せめてもの償いとして、君が愛のある女性に抱き締めて貰えることを祈りたい。不遇な幼少期のせいで投げ遣りな心に振り回されていないか心配だ。もしも今、かつての私と同じく、一時いっときの迷いで大切な人を諦めようとしているのなら、旭、君は間違っている。』



                              artbook:31 end.


                         stay who you are. thank you!

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旭、君は間違っている satoh ame @midnight-blue

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