30:artbook 資質


 3階の西通路にひとつだけ存在するドアを開けた。中に入ると、機械部屋の事務机に置かれたカラフルなPCが目に留まる。人気ひとけのなさを警戒しつつ近づいてみたところ、液晶画面には『おくじょう』の5文字。「これ玩具コーナーの展示品だろ……」

 久遠くどおあさひは他の手がかりを求めて室内を見回した。その結果、証拠となりそうな映像記録が端末ごと破壊された痕跡に悚然しょうぜんとする。

 胸元の汗を拭って屋上を目指しかけたとき、ふと疑問が過った。警備員を突き落としたのが怪我人の飛田ひだだとしたら、移動が速すぎないか。惨事を目撃してからここに到達するまでに20秒もかかっていない。壁の見取図によると、西通路を75m直進した階段の先が屋上なので、奴がワープでもしない限り姿を捉えられたはずだ。

 矛盾に眉を寄せた刹那、背後のロッカーから囁かれる物音。振り返ると同時に扉が動き、キャップを被った黒衣の男がスタンガンを突き出してきた。咄嗟に攻撃を避け、隠し持っていた筆の軸を肘の横に刺す。武器を取り落とした男の鼻を鋭く殴った。よろめく痩躯を床に倒し、暴れる背中に重みをかけて左右の手の甲を穿つ。追跡されないよう、両膝の裏も木の棒で貫いた。警備員殺しは完全に戦闘不能だ。「自爆するなら勝手にしろ」


 屋上へ続くドアを蹴り開けると、煌びやかなジャージを着た飛田が佇んでいた。杖を持った方の足先に自業自得の怪我を固めた石膏が覗いている。走れない弱点をカバーするつもりなのか、ホームセンターで見かける火炎放射器のようなものを肩から提げていた。

「来てくださったんですね。ありがとうございます」

 飛田の両耳に刻まれた禍々しい縫合の跡が笑える。

 ほたるが生きていたことに安堵したが、彼女は簡素な椅子に縛りつけられたまま、レンガひとつ分ほどの幅と高さしかない外周の縁に危うく留め置かれていた。傾斜があり、ロープが切れた途端に津波用の防壁付近へ落下する仕掛けになっている。

 黒衣の男に作業を命じたのだろうが、飛田はこの建物の北、東、南をコの字型に囲う形で着火し、海に面した西側は放置したらしい。

 こちらを顧みた蛍は一瞬、系統違いのモッズ風コートに驚いた顔をしたけれど、教員に兄を殺された青年との遣り取りをここで説明するわけにもいかない。

 椅子を保持しているロープは短い煙突にきつく結ばれていて、安易に役目を放棄する危険性は低いと見積もった。しかし奴をどうにかしなければ救出は難しい。

 大きな手で薙ぎ払うように吹く風が、灰色の煙を薄く長く遠くの街へ運んでいく。

「……は?」身体の向きを変えた飛田を見て思わず声が漏れた。奴の脇腹後方からナイフの柄が突き出している。このふざけた計画のために違法な手段で痛覚を遮断したのだろうか。さすがに気づけよ、と呆れたい気分に蓋をする。

 苦笑した蛍が小さく頷いたので、意図を汲んで同じ仕草を返した。反撃の精神は素晴らしいけれど、致命傷を与えるには位置が微妙すぎた。

 複数のサイレンが迫るように近づいてくる。おそらく飛田を殺る最後のチャンスだ。

「目的を言え」

「暇なんですよ。刺激がないと退屈で……。少し減らしても問題はありません。人間なんて余るほどいるんですから。命を奪うことを否定しないでください。ボクたちは殺して食べてを繰り返しながら暮らしてるんですよ。家畜にも感情が、虫や植物にも生きる権利があったはずです。それを当たり前のように踏み躙っているくせに、なぜ人だけを特別扱いするんですか?」

 等しく命を尊ぶべきだが、数が多ければ好きに殺害しても構わないという思想が凶器だ。

「凡人ばかりの学院で、奇妙なプライドを持つ宇多川うたがわさんを見つけました。でも、彼女の心裡が全く理解できません。頻繁に集団からはみ出すので処分します」

 ロープに放射口を押し当てた飛田が満面の笑みを見せる。なのに片方の眉は胡乱げに下がっていて、赤と紫の斑が暴れ回るそれは、人間という生きものの表情ではなかった。

「『A』さん。あなたの慟哭する姿をボクの心に焼きつけます」

「やめろ!」奴は中指程度の直径を持つ縄が何秒で断裂するのかを計算できていない。

 全力で駆け、飛田に肉迫した刹那、放射器から吹き出す炎が視界を埋めた。代わりのない右腕で熱の強襲を防御し、ジャージの襟を掴んで身体ごと衝突する。

 1秒後には足場のない空間に放り出された。

 海と空の透き通った青。絶命の予感に恐怖する飛田の双眸。

 蛍の悲鳴が途切れた瞬間、全身を迸る衝撃に記憶の断片を砕かれかけた。


 鈍く、ゆっくりと暗闇に色が戻り、意識が再接続される。感触が幻想でなければ、津波用の防壁を越えて砂浜に叩きつけられたようだ。強打した胸の痛みが正気を蝕んでいく。

 視線を巡らせてみると、コートの表面は溶けて変質しているものの、炎が直撃したはずの右腕は燃えていなかった。受け取りを拒否されないために考えた台詞だろうが、青年の予言が的中したのは事実だ。自分には絵しかなく、これを失くせばきっと、蛍が零れた血を掬うように抱き締めてくれても生きていけない。

 砂を踏む不規則な足音に目を向けた。こちらに接近していた飛田が膝立ちのまま、燃料の外れた火炎放射器を振り翳している。苦しげな息継ぎをしながら青褪めていて、撲殺を遣り遂げられるか心配だ。「急がないと死ぬぞ。地獄で償うのか?」

「死にませんし、誰が何を喋っても捕まりませんよ。親が弁護士なので。血は繋がってませんけど……。最後にいいこと教えてあげます。うちの学院で一番綺麗な女子が宇多川さんです。なぜあなたみたいな能なしと出会ったのかはわかりませんが、よかったですね」

 今なら飛田の腹を斜めに貫くナイフの刃先にさわれそうだ。落下の打撃で進路が変わったのだろう。シティ・グランの乾いた陽射しが容赦のない天罰を嘲笑う。

 短い静寂の後、頼りなくふらついていた猟奇犯の身体がかしぎ、人に似た重みが胸にしかかってきた。

「…………。……嘘だろ」

 間近で見ると、飛田のクロームイエローに染めた短髪の根本が穏やかな紅茶色をしていて、波音を覆い隠す悲しみを言葉にできない。

「死んだ理由訊かれたら、俺に殺されたって言えよ……」



                              artbook:30 end.

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