29:artbook フィキサチフ


 一方的に切られてしまった通話の訳を知りたくて、少しだけでも過去に戻れたらと思った。絶妙な距離感で後悔に寄り添ってくれるブランコの存在が有り難い。

 久遠くどおあさひは進まない心中ストーリーを放棄してスケッチブックを閉じた。漫画を描いてほたるを喜ばせようと努力したものの、人物の配置や会話の流れを形にする段階で派手に躓き、1ページめで遭難した。フィデルに助言を求められる内容ではないので、完成させた普段の絵に台詞を書き込むしかなさそうだ。

 滲むインクのような声の余韻を振り払えず、迷った末にこちらからかけ直してみたが、半ば案の定、コール音が繰り返されるばかりで誰も出ない。

 不安に監視されたまま噴水広場近くの画材店へ向かった。待っていても蛍からの着信はなく、うらぶれた回路が衰弱していく。飛田ひだのことは大丈夫だと言っていたけれど、あれはたぶん思い遣りのある嘘だ。

 雑踏のざわめきに視線を移すと、ビルに嵌められた大型液晶の前に人集りができていた。

 噴水の側で足を止めて窺ったところ、シティ・グランの刑務所に謎の紙束が投げ込まれたという報道だった。指示通りに不気味な印刷物を配布しなかった場合、リモコン操作で囚人が吹き飛ぶらしい。要求があまりにもくだらないので、軽い罪で処理されることを見越した悪戯ではないかと思う。キャスターも困惑していて微妙な空気だ。

 説明に続き、実際の紙面が登場した。冷めた気分で建造物粉々系の脅迫と戯言を読んでいく。斜め前の初等科生が爆発音の口真似をして笑い出したが、この状況でつられるのはまずいので後半の文に意識を集中した。数秒後、精神的な事故の衝撃で時間が止まる。

『追伸 Aが来なければ羽をもぎます。 新しい珈琲はお好きですか? でも、あなたたちの席はありません。』

 音を立てて血の気が引いていくのを感じた。こちらの連絡先を突き止められなかったからといって、情報伝達にここまでする必要はないはずだ。完全に遊ばれている。

 蛍はすでに汚い手口で拘束されたのだろう。いろいろと慌しいが、奴は今日『A』に会って、資料館の報復も済ませておきたいようだ。痛い思いをさせられそうな反撃のスリルが脳の中で甘くとろけて病みつきになったとしたら最高に笑える。

「いい加減にしろよ人殺し」これほど狂い尽くす前に、なぜ自分で終われなかったのか。

 意味不明なメッセージを推理していると、広場のベンチで紙袋からラテを取り出している男女が目に留まった。見慣れないデザインで、捉え方によっては『新しい珈琲』だ。満席を理由にテイクアウトした可能性もある。

 突然カップルらしきふたりに近づき、「飛田って知ってますか?」などと話しかけるわけにもいかないので、怪しまれないよう配慮しつつ購入場所を訊いてみた。隣区のショッピングセンターに本日オープンしたというカフェを教えられ、短く礼を言って噴水広場を後にする。

 とても楽しそうだが、飛田は生きている限り、蛍の冷静な胸壁を怖れて攻撃し続けるだろう。狂人に破壊できるはずのないものを暴きたがっていて哀れなほど愚かだ。


 広い駐車場を突っ切り、ようやく大きな自動ドアの前に辿り着いた。長く走ったせいか、苦しくなってふと足元を見ると、色のついたタイルが不自然に濡れていた。4歩くらいの幅の水っぽい液体と、砂のような粉末の入り混じったものが左右に延びている。物質が気化しているらしく、鉛筆画に吹きかけるあれに似た匂いが薄く立ち上っていた。

 案内板を調べ、滅茶苦茶な英語名の珈琲店を見つけて駆け込む。首に伝う汗を上着の袖で押さえながら蛍を探したが、レジ付近にも、混雑したテーブルにも彼女の姿はなかった。それ以前に、このカフェを指しているという推測事体が誤りだったのかもしれない。

 安直な自分に絶望して死にたくなったとき、店内放送の開始を報せる電子音が鳴った。

『ラッピングをご依頼いただいておりましたAさま』

 はっきりとは憶えていないが飛田の声だと確信する。現在奴が制御室を管理しているとしたら、おそらく邪魔になったスタッフが殺害されている。

『お待たせ致しました。3階西通路へお越しください。繰り返します……』

 嘲笑を交えた音声にも関わらず、周りの客は無関心だ。

 咄嗟に最寄りの非常階段へ駆け出した刹那、四方で鋭い悲鳴が爆裂する。罅割れた自動ドアの向こうで吹き上がる炎。濡れたタイルと粉末の正体に愕然とした。

 皆、この建物に閉じ込められている。外部からの侵入も阻止するようだ。

 面倒な手順を踏んで自分を呼び出したということは、早い段階で蛍を始末するつもりはないのだろう。『羽をもぎます』に要約された毒手の爪がおぞましいけれど。

 彼女が資料館での出来事を教訓とし、有効な策略を考えていたとしたら、危険を冒して飛田に接触するという行動の矛盾も理解できる。

 聞こえてきた会話によると、スタッフと客は地下駐車場経由の脱出を試みることにしたらしい。内部に侵攻中の煙で報知器が作動し、防火シャッターが下り始めている。商品が入った店の袋や飲食物が至るところに散乱していて震災さながらの惨状だ。

 緊迫と焦燥を抱えて3階のフロアを通過する際、ブックストアに蛍の愛読書が並んでいることに気がついた。こちらも長く絵と文字の世界に親しんでいるけれど、命の駆け引きをせずにはいられないほど美しく病んだ人々の戦いに憧れを刺激され、不思議な情の深さに余りある熱を分け与えて貰った。それと同時に、自分に欠けている多くのものを思い知らされてきた。

 視野の奥に西通路の入口が見える。鞄を置き、愛着のない筆を握った。飛田を殺すならこれで充分だ。クリニックでの居候生活で人体の弱みを学びすぎてしまった。

 遠くに小さく、館内の巡回に奔走している警備員の姿があった。だが次の瞬間、突棒つくぼうを持った黒っぽいシルエットが迫り、ほんの僅かな攻防の末に、ガードマンの制服を着た男性がエスカレータ横の手摺から吹き抜けに押し出された。悲痛な声が下層に吸い込まれ、聴いてはいけない音で終焉を迎える。1階から絶叫が上がった。

 必ず飛田を仕留めなければ。気怠く歩いてきた廃線路の先に無数の罪跡が散らばっている。報われない出来事ばかりで、正しさの隣に救いがあると信じることができなかった。

 何が起きても蛍だけは、自分の絵を憶えていてくれるだろう。こちらは髪や背中に残る手の温もりを忘れられずにあたたかく傷ついていく。



                               artbook:29 end.

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