28: record リビング


 ページを捲る度に乾き始めた手首の傷が引き攣れるけれど、怪我が治るまで漫画を読み続けられるのは幸せだ。

 宇多川うたがわほたるはカーテンの開きを調節してソファに戻った。先生方が熱意を込めて送り届けてくれた作品に感謝しながら、幼い頃、漫画の登場人物たちもこの街の近くで暮らしていると、頑なに信じていたことを思い出す。参加できなくて本当に申し訳ないが、学生世代の瑞々しい立場にも関わらず全力で戦っている皆を応援したい。

 次の巻に手を伸ばす前にフォンを確認してみたけれど、あさひからの連絡はなかった。あれからずっと、彼を協力者のように扱ってしまったことへの罪悪感がさざめいている。別れ際にこちらを眺めて苦しげな表情をしていたので、自暴自棄になって爪を剥がしたり、餓死したりしていないか心配だ。

 騒々しい出来事が絶え間なく打ち寄せてきて、これから起こりそうな何かを想像するのが怖くなる。

 悲惨な状態で血溜まりに横たわっていた飛田ひだがどのようなルートで医療センターへ行き着いたのかは知らないが、あの程度の受傷で薄らぐ生温い狂気ではない。断崖まで追い詰め、弄びながら命を奪うことへの異様な執着が遺伝子に刻み込まれている。

 先ほど学院から生徒宛に飛田の失踪を報せる通知があったので、自業自得のダメージを抱えたままどこかに身を潜めているのだろう。

 未だに『A』の正体を探ろうとしているのなら、旭の素性を暴かれる前に必ず阻止しなければ。この件には本来、ブランコでスケッチをしている美大生は関係なかった。軽はずみな行動と中途半端な協力要請の罪が、旭の死という予告に形を変えて戻ってきただけだ。彼を失うことも、鉛筆を持つ手にあれを嵌められることも避けたいのなら、飛田を葬る以外に選ぶ道はない。関わってしまった時点でこちらの負けだ。

 いつも側で旭の絵を見ていると、自分自身との闘いを軸に生きてきた険しさが伝わってくる。夜の色が沁みた花のように、暗く美しい芸術を秘めた彼を共犯者にしたくない。


 再び読み始めた漫画をフォンの鳴動に遮られた。小さな液晶画面に見覚えのない番号が点滅している。

 全く暇ではないので端末を放置し、本を開き直したが、二度めの着信音に邪魔をされた。

 同じ13桁の番号だ。飛田対策でデータを消してしまったけれど、家族や学院からではなかった。旭でもない。誤ってかけてきたのか、それとも自分に話があるのか。

 更に2分後、4分後、6分後に繰り返され、応答しなければ呼び出しを続けるという挑発的な態度にうんざりする。仕方なく雑に受話ボタンを押した。

「…………」

『宇多川さん、ですよね?』

 覚悟はしていたが、最も害のある相手だった。

「どこで調べたの? 答えなくていいから用件を言って」

『先日はすみませんでした。信じて貰えないかもしれませんが、宇多川さんに何度も交情を拒絶されたショックで重度の錯乱が起きたみたいです……。それでもボクが酷いことをしてしまったのは事実なので謝る機会をください。近くにTVはありますか?』

 妄想じみたくだらない嘘を現実とすり替えるつもりらしい。好青年ぶった口調が可笑しくて、いかれ狂った精神を業務用ミキサーに突っ込みたくなる。

『チャンネルFを点けてください。ローカルニュースが映ってますよね』

 何がしたいのだろう。面倒だがリモコンを探して番組を確認する。

 隣区の大型ショッピングセンターに新しくオープンしたカフェの紹介。店内は明るく賑わっていて、飲食をイベント化している家族やカップルで満席のようだ。

「これがどうかしたの?」

『急いでこのセンターの非常用通路に来てください。3階の西側です。建物を囲うようにガソリンと化学薬品を撒きました。通報したり、断ったりした場合は着火します。誰も入れない状態にした後、閉じ込めた客を殺す予定です。今の説明で理解できましたか?』

 意味がわからない。「とにかく無関係の人たちを巻き込まないで。もちろん『A』も」

 逡巡するような間があった。

『あの男のことは放っておきましょう。頭がおかしくて手に負えません。残念ながらボクは脚と耳の激痛で正常な判断力を失ってしまいましたが、元を辿ればすべてあなたのせいですよ。でも、ひとりで来てくれれば許すつもりです。健全に話し合いましょう』

「わたしと引き換えに人質の無事を約束してくれるなら。放火もやめて」

『いいですよ。不要な騒ぎは望んでいません』

 自分が現れなければ、飛田は容赦なく客を皆殺しにするだろう。こちらも生きて帰れる保障はない。だが、そろそろ限界だ。対立から逃げてはいけなかった。

 ファッションを楽しむ気分ではないので制服に着替え、傷口にガーゼを貼った。ふと思いついて、アウトドア用の小さな折り畳みナイフを腕時計のベルトに挟み、ブラウスの袖を被せる。計算したアクシデントで狂人が絶命してくれたとしたら最高の風向きだ。

 フォン越しに旭の気怠い声を聞こうと思い、彼の番号にかけてみる。すぐに繋がったが、こちらが喋るまで黙っていて、少しからかいたくなるけれど時間がなかった。

「公園にいる?」

『飛田が接触してきたんだろ。言えよ』

 指先が描き出す線は驚くほど密やかで潔いのに、感情の表現が大雑把で不器用すぎる。

「心配しないで。その件は大丈夫だから。……図書館で読んだ本に書いてあったんだけど、『明日死んでもいい』って言葉、裏側に満たされた夢があって好きだった」

 スケッチブックに鉛筆を置く微かな音が聴こえてくる。なぜか強く、ひとりにしないでくれと言われている気がした。

 悲しいけれどこの世界は、心の繋がりの多くを保ち続けられないようにできている。

『俺の絵の中で殺されてみないか。一緒に……』

「ふたりで死ぬの? 試してみてもいいけど」

 絆が深まるほどに終わりを憂い、いろいろな永遠を掴みたくなるのは、彼の身体を抱き寄せた両腕への罰なのか。



                               record:28 end.

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