27:artbook 絵筆
親交のあった公園がカナヅチの襲来で封鎖されてしまったので、久しぶりに第2候補まで足を運んだ。元気なブランコに座り、美大に連れて行った鞄を傍らに置く。スケッチブックを捲ると、映画などでサイコキラーの異常性を知らしめるために一瞬だけスポットライトが当たる死体写真のような状態になっていた。
資料館の事件から5日も経ったのに、気がつくと傷口の絵ばかり描いている。
通り魔と連戦した直後に轢かれたとしか思えない姿のまま
あの日、一旦ホテルに避難することを提案したが、彼女の姉が出張でしばらく家を空けるというので、治るまで欠席しろと言って自宅へ帰した。本人は初めからそうするつもりだったらしく、好きな先生の漫画を読み継ぎながら籠城するのを楽しんでいる様子だ。
あれから飛田がどう動いたのかはわからないが、報道がないので死んだ可能性は低い。手枷と首枷のタトゥーを気に入ってくれていると嬉しいけれど、残念ながら20日ほどで威力を失う教材のインクだ。それなりに重傷だったはずの肉体的なダメージについては自作自演を装うか、悪い仲間に薬を盛られたせいで何も憶えていないとでも言えばいい。
今、絶妙なタイミングで、『医療施設から消えた飛田の行方を尋ねる文書が生徒宛に送信されてる』と報せがあった。手負いの猟奇犯が反撃を始める前に次の策を考えなければ。
昨夕届いたバイトの日記が、予想以上に泥沼で引いてしまった。身勝手な純愛のために親友を殺さずにはいられないのなら、すべてを告白して海の底まで沈んでくれと思う。
せっかくなので挿絵の下描きから着色までをここで終わらせてしまいたかったが、長く連れ添った筆が鞄の中で砕けていた。少しずつ孤独になっていく感覚が生々しい現実とともに迫り、本音をさらけ出す最後の手段みたいに屋上のフェンスを乗り越えたくなる。
未来を知っている人がいたら、蛍がいつまで側にいてくれるのかを早めに教えてほしい。傷つく予定をカレンダーに書いておけば心の準備ができるはずだ。どうせ死ぬときはひとりなのだから、そこに辿り着くまでの受難は軽い方がいい。
鉛筆の濃淡で新しい傷口を深めている最中、接近する靴音を察知して顔を上げた。
分厚い紙の束を抱えたパティシエ風の青年が駆け寄ってくる。どこかで見た風貌だが、声を聞く直前に、それがTVのニュース画面だったことを思い出した。陸上のコーチをしていた男性教諭の殴打で兄の意識を奪われ、「死んで償え!」と叫んでいた姿が甦る。
長めの髪を後ろで纏めた彼はスケッチブックを一瞥した後、印刷物をこちらに向けて問いかけてきた。
「すみません。この絵、誰が描いたか知りませんか?」
身に覚えがありすぎて降伏したくなる。閉ざされた空間で学生を相手にしているときにだけ醜悪な本性を晒して暴れる男の肖像と、『こんにちは! 教員免許を所持した殺人鬼です』が英訳つきで載っていて、余白は加害者の罪歴と事件の詳細で埋められていた。
「俺だけど、それ描いたの」
青年は感激した面持ちでこちらを見つめ、やわらかく頭を下げて「ありがとうございました」と言った。
蛍と結託して公園に貼りつけたあのイラストを知り、間接的な応援に励まされたらしい。
「お礼がしたくてずっと探してたんです。……少し前に兄は目を覚まさないまま旅立ちましたが、やっと自由になれたのだと思うと、喜ぶべきなのかもしれません」
彼は静かな表情だったけれど、憂さ晴らしの道具に使われて家族を殺されたも同然だ。
青年と被害に遭った兄、そして両親の悔しさや胸の痛みを想像すると、怒りと悲しみの入り乱れる心を隠しきれずに鉛筆を噛んでしまった。
「あの男は償いきれないことをしたと思う。汚い感情で追い詰めて生徒を自殺させた奴らも苦しんで死ねばいい」
我慢強く、真っ直ぐで清潔な人間ばかりが、指導の名を借りた虐殺の生贄に選ばれるのはなぜなのか。
「……同じ気持ちです。オレたち家族は永遠に癒えることのない深手を負いました。二度と元には戻れません」彼は寂しげに微笑み、頷くような仕草をして立ち去りかけたが、ふと足を止めた。「袖、破れてますよ」
「ああ、気にするな。いろいろと先延ばしにしてるんだ」
ついでに青年はスケッチブックを覗き込み、「上手いとか、そういう言葉では表せない感じですね。どこにでもいる平均枠の人間が描ける絵には見えません」と哀れみに似た台詞を口にした。「作者がやさしい人でよかったです。芸術世界の創り手は、変わり者でありながらも、憧れをかき立てるような存在でなければいけないみたいですね」
彼はカジュアルな割に品のよいモッズ風のコートを脱いで差し出してきた。
「お礼にこれを受け取っていただけませんか? 兄が着ていたものがもう1枚あるんです。ユーズドで申し訳ありませんが、近い未来に意外な形で役立つと思います」
対価を貰えるほどの活躍はしていないけれど、相手の厚情を拒絶するのも気が引ける。迷っているうちに、胸に押しつけるように渡されたそれを掴んでしまった。
青年は満足した笑顔で別れの挨拶をし、公園の出口へと歩いていく。
戸惑いながらも譲渡品を広げて観察してみたところ、薄手の黒い布地にワイン色の柄が織り込まれていて、殺人鬼のふざけたイラストには到底つり合わない上質な服だ。
正しい枝葉を持つ人間なら素直に喜べる出来事であっても、向けられる期待や称揚が重荷となって、明るい陽射しに守られた致死の庭から逃げたくなる。
悪い冗談みたいな命は、健全な者たちとの格差を受け入れて異物枠で活動すべきなのか。
自分の
artbook:27 end.
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