26:artbook 染色剤


 今日も公園のブランコで緩く絵を描いていたが、ほたるからの連絡が途絶えていることに不安が燻っていた。久遠くどおあさひは風景画の端に鉛筆を置く。

 もう一度フォンを確認しようと何気なく目線を上げたとき、中等科の制服を着た娘と両親らしき3人組が、ベンチでの飲食を終えて談笑しながら歩き始めた。

 その瞬間、木の陰に潜んでいた女が袖口に隠していたカナヅチを握って走り出す。

 激しい足音に驚いたのか、ほぼ同時に振り向いた3人が顔を容赦なく殴打され、女性と中等科生は直視不可能な状態で芝生に倒れたまま動かない。

 炸裂した罵詈雑言を要約すると、美容クリニックでの過失と不誠実な対応への私怨で男を襲撃したようだが、まだ学生と思われる女は酷く泣いていて、地域の見守りが必要だと感じたのでそっと場を離れた。

 他人の孤独な惨殺会より、『F05』というメッセージを最後に蛍からの音信がないことが気がかりだ。彼女に渡された学院の地図と照合したところ、資料館の番号だった。


 帰宅してあれに着替え、悪戯に使うペンとインクをポケットに入れて現場へ向かう。

 無駄に厳めしい門の先で塔に似た建物を探している途中、軟弱そうな石像の前にセンスのない花束が飾られていたので笑ってしまった。

 件の資料館はすぐに見つかったが、まさに今、残存生徒の有無も確かめずに守衛が施錠をして去っていく光景を目撃した。

 蛍が中にいるとしたら、関わったのは飛田ひだなのか。それとも他の人物なのか。

 自然な素振りで裏手へ回り、縦に長い摺り硝子の窓を静かに蹴破った。

 何か武器を持ってくるべきだったかもしれないが、誤って殺した死体を調べられた場合、物を使うほどに加害の履歴を拾われるので迷った末に置いてきた。

 館内には楽に侵入できたものの、広くも狭くもないフロアは廃墟然としていて、美術品っぽく適当な資料を閉じ込めたショーケースと洒落た窓枠に夕暮れの影が落ちている。

 予期せず靴の縁に当たったラベンダー色の筆記具を保護した。おそらく蛍のペンだ。

 見回した限り、目立たない位置にある奥の扉がどう考えても怪しい。ドアノブを触れば気づかれるので、慎重になっても意味はないだろう。

 怒りに任せて扉を押し開けた刹那、椅子に縛りつけられた蛍の姿に言葉を失う。濃淡の異なる血と痣と傷にまみれていて、予想の斜め上をいく惨状だ。

 その隙を待っていたかのように突き出された傘を危ういところで避けた。

「あなたが『A』ですね? 宇多川さんがボクを嫌う理由がわかった気がします」

 反射的に声の方を向き、至近距離で鮮明に飛田の顔を見た。ほとんど変わらない背丈のせいか、目蓋の線を捉えられるほどに狡猾な双眸が迫り、中身は人ではないと思った。

「来るのが遅かったので宇多川さん死んじゃいましたよ。責任取ってください」

 追撃を躱し、崩壊した思考で飛田を殴り飛ばす。

「生きて出られると思うなよ」

 死んだ人間を、どれだけ待ち続けても二度と会えないなんて夢みたいだ。

 もう何も怖れる必要はない。心を偽らずに仇を討つことは、秩序と法に抑圧されて暮らすより価値のある命の使い方だと知っている。

 激突した段ボール箱の群れからすぐに起き上がり、飛田が開いたハサミを投擲する。

 掠った左腕に痛みを感じたけれど、動くのなら問題ない。早急に決着をつけなければ。

「ご存じでしょうけど、ボクは絶対に捕まりませんからね」

 咄嗟に作業台の上に置かれていた古いランタンを握り、肉迫する飛田の脚に叩きつけた。

 負傷させた部位を派手に破壊したことを打撃の圧で確信する。

「しっかりしろよ。弱すぎるだろ。偽物じゃないよな?」

 声も上げずその場に頽れた飛田の、カラー剤で傷んだ短髪を雑に掴み、顎の裏を天井に向かって蹴る。遠慮という制御を取り払った解放感が病みつきになりそうだ。

「簡単に死ぬな。恨まれてるって気づかせてやるよ」


 ポケットからボールペンが落ちた音でようやく我に返り、椅子に囚われた蛍の前に跪く。

 許さないと言ってほしくて見上げると、俯いた彼女の睫毛が薄く動いていた。

「お願い。飛田を殺さないで。……どうしたの、泣いてるの? こんなことで?」

 冷たい腕にそっと頭を抱き寄せられ、髪の隙間と首筋に細い指が触れる。密に接したスカートの裂け目から滲む蛍の血が、慈しみを分け与えるように自分の唇に乗り移った。

 大切にしたい記憶はいつも、支え合った手の温度とか、形に残らないものばかりだ。

 やさしい腕をすり抜け、床に転がっていたハサミを拾う。ついでに仰向けに倒れている飛田の頭を蹴り飛ばし、蛍の身体に絡みついていたロープを切り離す。

「ありがとう。お礼にまた変な丸いパン焼いてあげる」

 食べるのが面倒だが、餓死は避けたかったので救援物資配給の予告が有り難い。

 彼女は、結束バンドに勝利したらしい重傷の手首を他人事のように観察しながら飛田の傍らに膝を着き、奴の耳に光るいくつかのピアスを握り込んで荒く引き千切る。

「これ、仕返しだから。もっと酷いことしてほしい?」

 無残に抉られた耳朶が、血液に成りすました毒を吐き出して床を侵食する。

 蛍は飛田の一部だったアクセサリーつきの肉片を左右ひとつずつ本人の手に置いた。

「敵が異性でも勇敢に戦うマンガの女子って最強だと思う。わたしの力では難しそう」

「凛とした表情と精神面だけ参考にしろ」

 少しも動かないけれど、惨殺魔はまだ生きているようだ。とどめを刺しても、気が済むまで虐げてここを離れても、加害者側を庇護する社会の中で、こちらはどうせ報われない。

「彫物学で使ったインク持ってきた。こいつに珍しいタトゥー入れてやろうと思って」

 暴力のキャッシュバックを行った後、罪の重さにふさわしい刑具を贈る。

「芸術の無駄遣いじゃない?」蛍が瀕死の学生服とともに微笑んでいる。「図案は任せて」

 標も灯もない柵の内側で、陰鬱な監視と世道の包囲に立ち向かう術はあるのだろうか。

 未来の犠牲を食い止めるために、目の前に存在するひとつの悪を消し去ることをこの街は許さない。

 暗い夜道で信じられるのは、最後かもしれない抱擁の切なさだけだ。



                              artbook:26 end.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る