25: record 資料館
「待って」
そのひと言が意外だったのか、空のペットボトルを握った女子と数名の取り巻きが一斉にこちらを向く。「黙れ。宇多川害虫。偉そうに喋るな」
「お返ししようと思って。砂糖入った飲みもの苦手だから」
間を開けずに甘い液体の滴るハンカチを当事者の口に捻じ込んだ。
「わたしはこの学院の全員に嫌われても構わない。もちろん
濡れたハンカチを払い除け、こちらの肩を突き飛ばして廊下へ出て行く女子数人を見送って席に着く。使い始めたばかりのノートも炭酸に殺された。遠巻きな観察と張り詰めた静寂が気障りだが、あちら側に割り振られなくてよかったと思いながら諦めるしかない。
どうせ女子の群れとは敵対する運命だ。無駄に抗わず、自覚している協調性のなさと、相手の奔放な悪意を受け入れた方が清々しい風に
「先日はすみませんでした。これ、貰ってください」
放課後、教室を訪ねてきた飛田が奇妙な花束を差し出してくるのを見て、新たな策略の第一歩だと確信した。朝は姿がなかったけれど、昼から授業に参加していたらしい。
「いらない。近づかないで」衆目の中、冷ややかに鞄を持って離席すると、スタイリッシュな杖っぽい傘とタッグを組んだ飛田が追いかけてくる。
「謝ったのになぜボクを拒絶するんですか? ……『宇多川さん ごめんなさい。』」
周りの視線が鬱陶しく、存在を忘れ去られている学院の資料館に場所を移して決別することを閃いた。「話は聞くから離れて歩いて。花は変な石像の前にでも置いて」
返事を待たずに廊下を進み、一度外に出て塔の形に似た別棟の扉に入る。城の書庫を思わせる内装が美しく、見学も自由だけれど、生徒の往来はない。
10秒も経たないうちに無差別殺人鬼がドアを開けたので使用中のフォンを隠した。
表情から推察すると、
飛田は卑劣な手口でビュッフェの食事客を殺害したかもしれず、犯人であることの確証がほしい。直接聞き出せそうなら試す価値はある。「今朝、毒殺事件のニュースが」
「その話は後にしてください。あの『A』という人物、誰ですか? 学年とクラスは?」
「答えるわけないでしょ。どういうつもり?」
「いいえ。何も」と飛田が低俗な笑声を上げる。「訊いただけですよ。そんなに警戒しないでください。初級レベルの雑談もできないんですか? 独立主義の宇多川さんは」
「……泣いてる顔が想像できない相手とのお喋りが大嫌い。人に見えないから」
「ボクは機械ではありません。友だちもたくさんいて常に必要とされています」
吐き気がする自己肯定感だ。「素敵な交友関係があるならわたしのことは放っておいて」
今日は旭に美術の課題を手伝って貰うため、着替えてから隣街の図書館裏広場で会う約束をしている。立ち去ろうと扉へ足を向けた直後、笑顔の飛田が突き出してきた傘に激しく殴打されて床に倒れ込んだ。危険を感じ、痛みに耐えて立ち上がりかけたけれど、ブラウスの襟を掴まれて身動きが取れない。「……関わらないでって言ってるでしょ。放して」
「宇多川さん。解放には条件があります。今夜、ボクに愛情深く接すると誓えますか?」
「いかれ果てたその頭、修理に出してみたら? 成績優秀な飛田
「長所は口が堅いところだけですね。傲慢な態度は矯正すべきですよ。拘束します」
抵抗を試みたが奥の小部屋に引きずり込まれ、古びた椅子に縛りつけられている。
「非常事態を想定して、フォンのロックは推測されない数字を設定していますね?」
「それが何?」スカートのポケットに入ったままだが、端末には触れようとしない。
「仕方がないので『A』から着信が来るまで待ちましょう。あなたが呼びますか?」
飛田は旭に会いたくて堪らないようだ。変わらず無防備に通学している自分が囮に使われることは覚悟していた。「来ないと思うけど。証拠も必要? 望むなら見せてあげる」
「そうですね。そこまで言うならお願いします」飛田が、こちらの要求通りに結束バンドをハサミで切り、左手を椅子に縛り直す。「逃げようとしたら殺、すみません。冗談です」
自由になった右手でポケットのフォンを引っ張り出してロックを解いた。
画面を覗き込む飛田の前で『A』の項目を見せ、コールボタンを押す。長い沈黙の後、この番号は棄てられたというテープが流れた。
本当はもうひとり分の『A』を登録し、旭の情報はリストの最後に表示されるよう細工をしてある。今発信したのは、薄く記憶に残っていた
納得いかない様子で結束バンドを弄ぶ飛田が画面を見ていないのを確認し、中身を素早く初期化する。旭の連絡先は暗記しているので問題ない。結局、守られながら戦う他に道はなかった。実験室での出来事を教訓にすべきと考え、彼には予め学院の敷地と各館に英数字を振ったマップを渡し、フォンで現在地を送信すると伝えてある。
「努力で正常な人格を演じられませんか? 困りましたね」
「それ、わたしの台詞。裏と表が乖離してて可哀想。狂った自分を愛せる?」嘆息した監禁魔が開いたハサミを向けてきた瞬間、スカーフとブラウス越しに切りつけられた胸元に熱っぽい痛みが走る。「……
飛田は小さな瓶を取り出した。「このエタノール、保健室から借りたんです。どうぞ」
傷口に注ぎ込まれる液体が浸みた刹那、叫ぶ気力も失うほどの激痛が爆ぜたけれど、捕まっているのが旭ではなくてよかったと思う。美大生だと知られたら、きっと腕を切り落とされ、絵に捧げた命の熱を打ち砕かれる。自滅を誘うように、欠片も残さずすべてを。
「怯えて泣いたりしないんですね。強情な異性に興味があるので服従するまで続けます」
ここで殺されるかもしれないけれど旭には、『もしまた変態に鞄を盗られそうな女子高生と出会っても絶対に助けない。俺の意思で救うのは蛍だけだ』と言ってほしかった。
「……その程度で、わたしの内側に存在する世界を操れないことは理解できる? 人の報復精神を甘く見ない方がいいんじゃない?」
record:25 end.
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